第37話 美実の真意
桜査警公社で、幾つかの事件が起こり始めた時期、加積邸でもちょっとした騒ぎが発生した。
「はい、どちら様でしょうか?」
「小早川淳と申します。こちらに滞在中の、藤宮美実に会いたいのですが」
門に取り付けられたインターフォンの呼び出しボタンを淳が押すと、平坦な女性の声がスピーカー部から返ってきた。それを聞いた淳が、礼儀正しく要求を口にしたが、それはぎりぎり非礼にならない程度の口調で、あっさりと却下される。
「小早川様のお名前は、旦那様からお伺いしております。申し訳ありませんが、ご面会は叶いません」
「そうですか。それでは加積夫妻に直接お会いして、お話ししたい事があるので、ご都合を聞いて頂けませんか?」
「お二方とも、小早川様にはお会いになりません」
「それはそれは……」
あっさりと拒否された淳は、モニターに向かって皮肉気な笑みを零した。次の瞬間、礼儀正しさなどかなぐり捨てて、暴言を吐き出す。
「こっちは内容証明で送りつけても良かったんだが、一応出向いてやったってのに、やはりここの主人はケツの穴の小さい耄碌ジジイと見える。悪い事を言わないから、退職金を貰えるうちに転職先を探しておくんだな」
「…………」
途端にモニターの向こうが無言になり、ブツッと音声が切られた音も伝わってきたが、淳の暴挙は止まらなかった。
「おら、聞こえてんだろ飼い犬ども! さっさと出て来て、お遣いぐらいやってみせろ!! この愚図どもが!!」
門の前に設置してある監視カメラを見上げた淳は、それを睨み付けながら更なる暴言を吐き、おまけとばかりに門を盛大に蹴り付けた。そのまま待つ事一分程で、横の通用口から体格の良い黒服の男が四人出て来て、音も無く淳を取り囲む。
「この屋敷の門前で、下品な喚き声を上げるとは。貴様、余程命が惜しくないらしいな」
淳の正面に立った、この場のリーダーらしい男が低い声で恫喝してきたが、淳は恐れ入るどころか不敵な笑みを浮かべながら言い返した。
「あんたらの様に下品な物言いと直接的な排除行動に出られたのは少ないが、こっちも仕事絡みで色々場数は踏んでるんでね」
「それで? これからどうするつもりだ?」
徐々に周囲の男達から、物騒な気配が漂ってくるのを感じながらも、淳は傍目には平然としながら内ポケットに入れておいた封筒を差し出した。
「忠実な飼い犬さんに、ご主人から誉められる仕事をさせてやる。これを加積の所に持って行け」
しかしそれを突き出された男は、両目を細めながら問い返す。
「俺達が、加積様が目障りに思う様な物を渡すと思うのか?」
「目障りに思うかどうかは、ジジイの考え次第だろう? 向こうだって俺が手ぶらで殴り込みに来たとは、思わない筈だ。お前が握り潰して、取り次ぎ役などできない出来の悪い番犬だと思われても、俺は痛くも痒くも無い。今度こそ内容証明で送り付けるだけだ。一応ここの屋敷の主に、俺なりに敬意を示したつもりなんだがな」
臆面も無く言い切った淳の話を聞いて、男は僅かに眉根を寄せたものの、手を伸ばしてその封筒を手に取った。
「取り敢えず預かる。さっさと失せろ」
「了解。じゃあ宜しく」
そしてあっさり踵を返し、男達の間を抜けて立ち去った淳を、彼らは忌々し気な表情で見送ったが、すぐに何事も無かった様に、門の中へと戻った。その後、男達は各自の持ち場に戻ったが、手紙を預かった男だけは屋敷内に上がり、使用人達に主の所在を尋ねながら奥へと進んだ。
「失礼いたします。入っても宜しいでしょうか?」
「構わないぞ。平木、どうした?」
書斎にいたところに恐縮気味に声をかけられ、加積は意外に思いながら言葉を返した。対する平木は、若干怒りを滲ませながら、持参した封筒を主に向かって差し出す。
「先程、門の所に生意気な若造が来まして。これを加積様にと言付かりました」
「ほう? その若造は、他に何か言ったりしたりはしなかったのか?」
「暴言を吐きましたが、これを受け取った後は大人しく帰りました」
「なるほどな。小早川淳か」
裏返して名前を確認した加積は、笑って引き出しを開けて鋏を手に取った。そして封を開けて中から便箋を取り出し、ざっと目を通す。
「ほう? これはなかなか。さすがに美実さんの相手なだけはある」
「何か失礼な事でも?」
思わず独り言を呟くと、すかさず平木が応じた為、加積は笑って手を振った。
「いや、平木、御苦労だった。同様の事をするとも思えんが、また彼が手紙を持って来たら、受け取ってくれて構わん」
「象徴致しました。失礼します」
「ああ、それから桜に、ここに来るように言ってくれ」
「少々お待ち下さい」
ついでの様に言い付け、平木が姿を消してから、加積は笑みを深くしながらひとりごちた。
「礼儀正しく、宣戦布告してくれた訳だからな。こちらは搦め手から攻めさせて貰おうか。奴も真正面からぶつかって来るなど、考えてはいないだろうからな」
そのまま低く笑っていると、少しして桜が書斎にやって来た。
「あなた、どうかしたの?」
「近々、土日で空いている日はあるか? 温泉に行くぞ」
唐突にそんな提案をされた桜は、本気で面食らった。
「はぁ? いきなり何を言い出すの? それにまさか美実さんまで、一緒に連れて行く気じゃないでしょうね? あの子は妊婦なのよ?」
既に使用人から門での騒ぎの事を聞かされていた為、何となく美実絡みで呼ばれたような気がした桜は呆れた顔になったが、加積は笑ったまま首を振った。
「それはさすがに無理だな。お前と二人で行くつもりだが? 仰々しくお供を引き連れてな」
「あら、そんな事を口にするなんて、あなたにしては珍しいわね。一体、どこに行くつもり?」
「新潟の南側の、某温泉街だ」
それを聞いた桜は、一瞬眉根を寄せてから、慎重に問いを発した。
「……そこの温泉街の近くに、スキー場があるのかしら?」
「あるらしいな。それにこじんまりとしている分、なかなか趣があるらしいぞ? 今回は、店の商品を幾ら買い占めても……、いや、いっその事、店を丸ごと買い上げても文句は言わんが。どうだ?」
そんな面白がっている笑顔で誘われた桜は、一も二も無く頷く。
「あらあら、なかなか太っ腹な事を仰る事。勿論、行くわ」
「金と言う物は、貯めるだけではつまらんからな」
「そうよね。使いどころで使わないと、腐らせるだけよね。あなた公認でそんな事ができるなんて、楽しくなりそう」
そして満面の笑みを浮かべる桜と、不気味な笑みを浮かべている加積の様子を廊下で窺っていた笠原は、厄介事が増殖していく気配に密かに頭を抱えた。そんな中、同年配の女性を引き連れた美実が現れて、主夫婦に挨拶をする。
「加積さん、桜さん、これから妊婦健診に行ってきます」
「ああ、気を付けてな」
「行ってらっしゃい。でも、わざわざ断りを入れなくても良いのよ?」
「ですが一応お世話になっているわけですし、勝手に出かけるのは申し訳ありませんので」
生真面目に述べた美実に、そういう所が気に入っている夫婦は、無言のまま笑みを深めた。それは(あの若造がもう少し粘っていれば、彼女が出るところに出くわしたのに)という笑いも含まれてはいたが、どちらもそんな事は面には出さずに、彼女の護衛役に声をかける。
「今日は女性の方に付き添って貰うのね。美実さんの事をお願いね」
「宜しく頼む」
「はい、お任せ下さい! それでは藤宮様、参りましょう!」
「はい、行って来ます」
そして加積夫婦から声をかけられた、桜査警公社の菅沼真紀は、意気揚々と美実を先導しながら、その場を後にした。
それから車に乗り込み、二人で美実のかかりつけの産婦人科にやって来たが、受付を済ませて待合室の椅子に落ち着いたところで、唐突に美実が言い出した。
「すみません、菅沼さん。妊婦健診にまで同行して貰いまして」
その謝罪の言葉に、真紀が少々大袈裟に手を振りながら応じる。
「とんでもない。妊婦健診は大事です。それに寧ろ、私的に願ったり叶ったりなので、そんな変な遠慮はなさらないで下さい」
「どうしてですか?」
予想外の反応に、美実が驚いた表情になった為、真紀が説明を続ける。
「こういう場所だと、どうしても男性は浮きますから。本当は藤宮様には、私なんか足下にも及ばないベテランの先輩方が付くべきなんですが、場所が場所だけに入社四年目の私が抜擢されたんです。最上クラスの特Sの護衛任務なんて、初めてですよ」
「そうなんですか」
「あ、でも勿論、仕事はきちんとこなしますので、ご安心して下さい!」
不安にさせたかと真紀は慌てて弁解したが、それを見た美実は少し困ったように小さく笑った。
「菅沼さんの事は、信頼してます。今、ちょっと変な顔をしたのは、私がそんな特別待遇を受ける程の人間では無いのにと、思っただけですから」
「藤宮様?」
今度は真紀が当惑した表情になった為、美実は少し考えてから、徐に口を開いた。
「菅沼さんは……、私の職業についてはご存知ですか?」
「ええと……、BLレーベルの執筆をしていらっしゃるとか」
「それが、どんな傾向なのかは?」
「……不勉強で、申し訳ありません。ジャンルとしては耳に入れた事はありますが、実際に読んでみた事は皆無でして」
申し訳無さそうに、正直に頭を下げた彼女を、美実は宥めた。
「いいんです。確かに特殊な分野である事は間違いないですし、もっとあからさまに忌避される事だってありますから。でも自分で書いた物に責任は持っているつもりですし、自分の仕事を恥じてもいません」
「そうですか。でも、それは大事ですよね」
「でも……、淳のお母さんにしてみれば、到底我慢できなかったみたいで……」
そこで真紀が恐縮気味に、口を挟んだ。
「あの……、『淳』ってどなたの事でしょうか?」
「あ、すみません。この子の父親です」
「そうでしたか。それでご結婚を反対されているとか?」
自分の腹部を指差しながら美実が説明した内容を聞いて、真紀が納得したように頷いた。すると美実が、少々気落ちした風情で話を続ける。
「結婚自体は、淳は『実家の事は気にしなくて良い』と言ってくれたし、当面入籍はしないで事実婚の形にする事にしましたが、それで淳とお母さんの間が相当険悪になったみたいで。はっきりとは言わないんだけど」
「それは仕方ないと思いますし、その淳さんがちゃんとお母さんに刃向かう意思表示してくれた事は、良かったと思いますよ? 世の中、母親の言いなりな、ふざけたマザコン野郎がはびこってますから」
「それは、そうなんだけど……」
「他にも何か?」
取り敢えず無難なコメントをしてみた真紀だったが、美実は浮かない顔のままだった。そして、何かを思い切ったように話し出す。
「淳ってね、自分勝手でひねくれている様に見えて、情に篤くて結構面倒見が良いのよ。これは大学時代からの友人の、義兄も言っていた事なんだけど」
「どんな事をですか?」
素知らぬ顔で尋ねた真紀だったが、内心では少々焦っていた。
(ええと……、この場合藤宮様の義兄って事は、社長の事よね? 藤宮様の子供の父親が社長の友人だなんて、益々下手な事はできないわ。それに公社と会長社長夫婦の関わりは、ご家族を含めて極力外に漏らさない事になってるし、迂闊な事は言えないし)
そして微妙に真紀が緊張する中、美実が冷静に話し出した。
「入学直後に、義兄が淳に声をかけられたんですって。『お前、このままだと絶対将来ろくでもない犯罪者になるから、俺のダチになれ』って」
「あの……、見ず知らずの人間にかける第一声としてはどうかと思う以前に、どうしてろくでもない犯罪者予備軍を、好き好んで友達にしたがるんでしょうか?」
最後まで黙って話を聞く筈が、思わず突っ込みを入れてしまった真紀に対し、美実は力強く頷いた。
「やっぱり誰でもそう思うわよね? 義兄も呆れて同様の事を問い返したらしいの。そうしたら『俺は弁護士志望だ。だから在学中にお前を更正させれば、それだけで社会に貢献できるし、俺の想像通り稀代の犯罪者になったとしても、デカいヤマの被告代理人になれば手っ取り早く名前が売れるし、お前の周りに発生する事確実の多数の被害者に売り込んで、原告代理人になっても良い。どのみち、将来俺が食いっぱぐれる心配は無くなる』って、実に良い笑顔で断言されたとか」
「藤宮様。悪い事は言いません。事実婚でも止めましょう」
そこで思わず真顔で進言してしまった真紀を、美実は笑いながら宥めた。
「大丈夫ですから。淳なりに、義兄に気を遣った結果の物言いだと思いますし」
「どこをどう気遣ったのか、さっぱり分かりませんが……」
「それで『ウザくて突っぱねたのにしつこく絡んできて、いつの間にかつるむ様になったが、あいつのお陰で本当にあと一歩、足を踏み外さなくて済んだ』と義兄が言っていました」
「お子さんの父親が、相当お節介な人物らしい事は分かりました……」
(逆に言うと、本当にヤバい所の一歩手前まで、社長と一緒に色々やらかした人とも言えるわよね。社長もそうだけど、お近づきになりたくないタイプだわ)
どこか遠い目をしながら真紀が結論付たが、美実の話は更に続いた。
「その他にも、これまでに、良く家族の話を聞いていたんです」
「実家の話、ですか?」
「実家と言うか、家業の話と言った方が良いかも。淳の実家は、代々旅館を経営しているんです」
「それはなかなか、大変そうですね」
「ええ。土日祝日なんか無いも同然だし、昔からの従業員に交じって、淳も子供の頃から家の手伝いをさせられていたらしくて」
「そうでしょうね」
真紀はサービス業の大変さを、漠然と認識しているレベルで想像してみたが、美実も真顔で頷いた。
「布団の上げ下ろしとか荷物運びとか、お茶出しや厨房の手伝いまでやっていたみたいで。本当に、家事全般を含めた身の回りの事が素早くできるんです。下手すると、私より上手かも」
「それは凄いですね」
「だけど淳は、『それが嫌だった』とか『やりたくなかったから家を出た』とか、私に言った事は一度も無いんです。『実家の事を姉夫婦に任せきりで、申し訳ない』的な事を、ポロッと口にした事はありますが」
それに対して、真紀は控え目に意見を述べてみた。
「つまらない愚痴を、藤宮様に聞かせたく無かったとかですか?」
「勿論、それもあると思いますけど、淳には苦労して育てて貰ったって意識が、ちゃんとあると思うんです。冠婚葬祭には仕事をやりくりしてきちんと参加してるし、家族と婿入りしたお兄さんの誕生日には、欠かさずプレゼントを送っているし。お母さんとお姉さんのプレゼントに関して相談に乗った事もあるから、知ってるんです」
そこまで聞いて、真紀はちょっと感心した表情になった。
「それは男の人にしては、少し珍しいかもしれませんね」
「それなのに、私が気に入らないって事で、お母さんと仲違いさせてしまったのが申し訳無くて。私の母は大学在学中に亡くなっているから、義理の母になる人とはできるだけ仲良くしたいと思っていたから、尚更……」
「藤宮様……」
咄嗟に慰める言葉が思い浮かばず、言葉を濁した真紀に、美実が我に返ったように明るい口調で言い出した。
「気にしないで下さい。お母さんが私に対して、反感を持つのは仕方がないです。今の仕事を止めるつもりも無いですし。でも……、別のジャンルで本を書いて、それが世間で認められたら、ひょっとしたら淳のお母さんも、淳に対して態度を軟化させくれるかなって思って」
「え?」
予想外の方向に話が流れた為、真紀が戸惑っていると、美実がそのままの勢いで話を続けた。
「そうは言っても、すぐに純文学とかは書けないし、どうしようかと悩んでいた所で、偶然、加積さんと遭遇して。一目見てビビッと感じたの。これまで感じた事の無い、インスピレーションを! この人の事を書いてみたいって!」
「藤宮様……」
勢い込んで語る美実に、真紀が呆気に取られていると、ここで美実は急に気落ちした風情になって言い出した。
「だけど……、実際加積さんがどんな人かは良く分からないし、姉の知り合いってだけで『あなたの事を書かせて下さい』なんて厚かましい事なんか言えないと思っていたら、あのお屋敷に滞在中は、全面的に取材と執筆に協力するって言質が取れちゃったでしょう? それに便乗した挙げ句、最大限に加積さんを利用する形になってしまったのに、そんな私が特S待遇を受けるなんて、本当に申し訳なく思っているんです……」
ここで漸く、今までの話が冒頭の美実の発言に繋がったと理解できた真紀は、少々興奮気味に、両手で美実の手を取りながら訴えた。
「何を言ってるんですか、藤宮様! 私、今、目一杯感動しました!」
「え? 今の話で、どうして感動するんですか?」
本気で戸惑っている彼女に対して、真紀の主張は続いた。
「だって相手の母親から自分の仕事にケチを付けられた上、邪険にされたのに、それを逆恨みするどころか、親子の仲を修復させる手段になれば良いと思って、なりふり構わず加積様の本を書く事にしたんですよね?」
「ええ。ですから加積さんや菅沼さん達には、かなりご迷惑をおかけしていると思って」
「迷惑だなんてとんでもない! 自分の名声よりも、相手の親子関係を思いやる、藤宮様のそのお心に感動しました! もう何でも言いつけて下さい。全力でお手伝いしますから。それから、私の事は真紀と名前で呼んで下さって結構ですし!」
そんな事を満面の笑顔で申し出られた美実は、まだ幾分困惑しながらも、嬉しそうに頷いた。
「ええと……、それじゃあ真紀さん。宜しくお願いします。それなら私の事も、美実と名前で呼んで下さって構いませんよ?」
「分かりました。じゃあ美実さん、改めて宜しくお願いします」
「はい。なんだか嬉しいです。卒業してからは、新しくできる友人は仕事絡みの人ばかりでしたから」
「私もそうですね。でも職場は男社会ですから、余計に新しい友人ができにくくて」
「そういえば真紀さんの職場って、結構特殊ですしね。守秘義務に関わる事以外で、少し話を聞かせて貰えませんか?」
「支障の無い範囲でしたら、幾らでも」
「良かった」
そして思わぬ友人関係樹立で、楽しげに会話しながら盛り上がっていると、少しして待合室に美実の名前が響いた。
「藤宮美実様、三番診察室にお入り下さい」
「それじゃあ、ちょっと行って来ます」
「はい、お待ちしてます」
笑顔で断りを入れ、立ち上がった美実を見送った真紀は、診察室のドアを眺めながらしみじみと考えた。
(うん、仕事熱心な上、相手の家族関係にまで気を配ってあげるなんて、良い人じゃない。ああいう人に付く事になって良かった。この際、全力でフォローしよう!)
その真紀の決意は固く、その日から早速実行する事となった。
「部長、只今戻りました」
「ああ。今日はご苦労だったな、菅沼。異常は無かったか?」
書類から目を上げて、杉本は帰社の報告に来た部下に視線を合わせた。対する真紀も落ち着き払って、報告を続ける。
「はい。道中異常は無かったですし、特Sの妊婦健診も問題無く執り行われました」
「そうか、それなら結構」
「藤宮様の検査結果では、これまでに異常は全く認められませんので、今現在は二週間に一度の健診で構いませんが、三十六週を過ぎる三月下旬からは、週に一度の受診になります。その時期からは、必然的に病院に出向く機会も増えますが」
それを聞いた杉本は、納得して頷いた。
「それはそうだな。彼女の仕事の方はどうだ?」
「藤宮様に確認しましたが、スケジュールを前倒しで進めた結果、後一回出版社に出向けば、当面必要な作業は無いとの事です」
「順調で何よりだ。それなら落ち着いて出産を迎えられそうだな」
「はい。私も微力ですが、全力でサポートさせていただきます」
「そうか。それでは当面、藤宮様の外出時の護衛は、君に任せよう」
「ありがとうございます。それでは報告書を作成してきます」
「ああ、下がって良い」
互いに笑顔で報告を終わらせてから、杉本は密かに安堵した。
(やはり女性を付けて正解だったらしいな。しかし日下部も飯島も、妊婦が相手だと勝手が違ったか。それ位で対応に窮するとは、プロとして少々情けない)
そんな事を考えながら、杉本は早速自分の席で報告書を書き始めた真紀を、頼もしげに見やった。
それからは平穏無事に時間が過ぎ、夜の時間になって直帰する以外の者達が、続々と職場に戻って来る。その中の一人に、真紀が所属する班の責任者である阿南がいた。
「戻りました」
「主任、お疲れさまです」
「おう、阿南。戻ったか」
「チーフ、ご苦労様です」
その声に、阿南が反射的に振り向いて声をかけたが、それが不自然に途切れた。
「ああ、そういえば菅沼。お前、今日は特Sの護衛に」
「えっと……、よし、撮れたから……、送信っと」
何やら自分に向けてスマホをかざした真紀が、どうやら写真を撮った上にどこかに送信したらしいと察した彼は、眉間にシワを寄せながら彼女に向かって歩み寄った。
「……菅沼。お前、今、何をした?」
その問いに、真紀は悪びれずに答える。
「チーフの写真を撮って、友人に送りました」
「友人? 誰に?」
「今日プライベートで友達になった、仕事では特S護衛対象の、藤宮美実さんです」
「…………」
真紀がそう口にした瞬間、ざわめいていた室内が見事に静まり返り、全員の視線が真紀と阿南に集中した。
「ちょっと待て……。その女性は確か、会長の実妹で社長の義妹で、信用調査部門の小野塚部長補佐をあっさり袖にした人物じゃなかったか?」
「そうですが。それが何か? 彼女は真面目な人ですから、チーフの写真を変な用途に使ったりしませんよ? 失礼な」
少々気分を害した様に真紀が言い返したが、阿南は思わず声を荒げた。
「それならどうして俺の写真が必要だ!?」
「チーフだけじゃくて、他の何人かの写真も送りましたよ? 意気投合して職場の話を持ち出したら、美実さんが食い付いてくれまして」
「……何だと?」
「あ、勿論、社内倫理規定に反する、守秘義務違反に該当する事は口にしてません。主に男社会における人間関係の考察について、熱く語っただけです。そうしたら彼女が、『是非次回作の参考にしたい』と喜んでくれまして」
ここで恐る恐る、日下部が確認を入れてきた。
「菅沼君、あの……。藤宮さんは、BLレーベルの作家の筈……」
「はい、そうですよ? 日下部さんは出版社に同行したのに、何を言ってるんですか。だから社内で受けそうなカップルを幾つか考えて、その人の写真を撮って送ってたんですよ。チーフで最後です」
「…………」
そして不気味な沈黙が漂う中、阿南は無言のまま顔を引き攣らせ、今日真紀にスマホを向けられてきた記憶があった者達は、一斉に顔を青ざめさせた。しかし何をどう誤解したのか、阿南の表情を見た真紀が、言わなくても良い事を口にする。
「あ、大丈夫ですよ? チーフの外見とか特徴を事細かく書いて送ったら、美実さんは最初『これは部下に征服される下克上話かな』とか言ってたんですけど、『それはどうしてもイメージに合わないので、部下の調教話にして下さい』ってお願いして、考えて貰ってますから」
「菅沼……、お前っ……」
一気に危険水域に達したらしい阿南を、それと察した周囲が慌てて押さえ込む。
「あ、阿南、落ち着け!」
「チーフ! 職場で暴力沙汰は!」
「すみません、ちょっと待って下さい」
しかしここで平然とスマホを操し始めた真紀は、すぐにLINEの画面を見下ろしながら、安堵した様に口にした。
「良かった。美実さんに『写真を見てイメージがバッチリ浮かんじゃった。真紀さんの言う通り、調教話の方が良いわね』って言って貰えました。無事、本になったら、サイン付きで進呈してくれるって」
「この大馬鹿者がぁぁ――っ!! 研修し直しだ、ちょっと来い!!」
取り縋る周囲を蹴散らした阿南は、真紀の首を片手で掴み、問答無用で歩き出した。それに真紀が悲鳴を上げる。
「いたたたたっ!! チーフ、ちょっと止めて下さい! 健気な若手作家にインスピレーションを与える位、良いじゃありませんか!?」
「他人の迷惑を考えられんのか、お前はっ!!」
「それは勿論、偽名を使うって、美実さんが言ってましたよ! デビュー作のモデルが社長とお子さんの父親って言ってましたけど、当然名前は変えたって言ってましたし!」
「……あ?」
「はい?」
急に足を止め、手も離した阿南を、真紀は不思議そうに見返したが、対する阿南は益々物騒な気配を醸し出しながら、真紀に尋ねた。
「菅沼」
「……何でしょう?」
「お前、今、何を言った?」
「ですから、美実さんのデビュー作の主人公のモデルが、社長とお子さんの父親だと言いました」
「…………」
再び、不気味に静まり返る中、凍り付いた部下達を復活させるべく、杉本が有無を言わせぬ口調で念を押した。
「皆……、言わなくても分かっているな?」
それで意識を取り戻したかのように、彼の部下達は何事も無かったかのように動き出す。
「私は何も聞いていません」
「右に同じく」
「菅沼の交友関係など、知る筈がありません」
そして通常運転に戻った周囲をよそに、阿南は再び真紀の首を掴んで連行し始めた。
「さて、お前には、指導内容がもう一つ増えたな」
「いえ、でも! 美実さんは普通に喋ってましたよ!?」
「それでも、この社内で口にして良いかどうかは、別問題だろうが!!」
そして騒音を喚き散らしながら部屋を出て行く部下を見送った杉本は、「頭痛が……」と一言呻いて頭を抱えた。