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第32話 陰謀の全貌

 淳が職場で醜態を晒した三日後。仕事帰りに淳と森口は連れ立って居酒屋に立ち寄り、差し向かいで酒を飲む事になった。


「小早川。その後、調子はどうだ?」

 森口が、昨日から面白過ぎる百面相をしている後輩に一応尋ねてみると、予想に違わぬ答えが返ってくる。


「はい、絶好調です。美実の家族に俺の事をきちんと認めて貰いましたし、今日送ってきたメールで、この間持ち上がっていた縁談の方も、きっちり断りを入れたと言ってました」

「そうか、それは良かった。どうなる事かと思っていたからな。安心したぞ」

 心底安堵して感想を口にした先輩に、淳は深々と頭を下げた。


「この間、色々ご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」

「いや、終わり良ければ全て良しって言うしな。それで入籍とか挙式とかはどうするんだ?」

「そこは無理には進めないつもりです。俺の実家の方で、まだ問題がありますし、美実のお腹も結構目立ってきた状態ですから、このまま事実婚を続けて、一年後位に親子三人で披露宴をしても良いかと考えています」

「ある意味、最先端だよなぁ……」

 もう苦笑するしかない森口に、淳も酒を飲む合間に、笑いながら話を続けた。


「取り敢えず今は、親子三人で暮らせる物件を物色中です。なるべく美実の実家と楽に行き来できる範囲で当たっている所ですが、まだめぼしい所が見つからないもので」

 それを聞いた森口は、実体験を踏まえてか、真面目くさって頷いた。


「そうだな。確かに実家が側にあれば、相手は心強いよな。特に初めての出産なんだし。でも今から探しても、出産までに間に合うのか?」

「それはちょっと無理そうですし、予定日が迫ってから引っ越しと言うのも大変なので、出産までこのまま実家でお願いして、体調が落ち着いたら一緒に暮らす事にしました」

「確かにその方が安心だな」

 一通り美実との事を聞いた森口は安心し、淳と一緒に機嫌良く飲み始めたが、暫くしてから淳が上着のポケットを押さえて断りを入れた。


「ちょっと失礼します」

「ああ、構わんぞ」

 そして森口は、淳がポケットからスマホを出して操作するのを眺めながら酒を飲んでいたが、いきなり淳が変な声を上げた為、思わず目を見張った。


「……はあぁ!?」

「おい、どうした?」

「すみません、ちょっと一本電話をかけます」

「あ、ああ、それは構わないが……」

 急に真剣な顔つきになってどこかに電話し始めた相手を、森口は何事かと眺めたが、その淳は応答があったと分かった瞬間、勢い込んで尋ねた。


「美実! さっきの写真の猫、どうしたんだ!?」

「それがね? ちょっと鼻づまりが酷くて、今耳鼻科に通ってるんだけど、そこで子猫が生まれて、貰い手を探すポスターが待合室に貼ってあったのよ」

「え? まさかそこで貰って来たのか? お前、子供の頃に顔を引っかかれて以来、猫は駄目だったんじゃ無いのか?」

 本気で驚いて淳が問い返すと、ちょっと気まずそうな声が返ってくる。


「だって写真が可愛くて……。ちょっと見せて貰うだけ見せて貰おうかなって先生にお願いしたら、ちんまりしてフワフワで超絶に可愛いんだもの……」

「そうか。それなら良いんだ」

 思わぬところで急遽猫派に転向したらしい美実の話を聞いて、淳は思わず笑ってしまった。


「一応、美子姉さんに飼っても良いか聞いたら、『襖や畳が多少傷む程度よね』とあっさり許可してくれたし。でも『小早川さんの家では、飼うのは駄目かもしれないわよ?』って言われたから、写真を送ってみたの。……駄目かしら?」

 電話越しに少々心配そうにお伺いを立ててきた彼女に向かって、淳は満面の笑みで力強く了承の返事をした。


「駄目なわけ無いだろう!? これから住む所もペット可の所を探すし、大型犬とか巨大爬虫類なんて物騒な生き物じゃないんだから、全然問題ないからな!」

「良かった。じゃあ済む所が決まったら、連れて行くわね? それで、もう名前は決めたから。全身真っ白な方がハナちゃんで、足首だけちょっと薄茶色の方がミミちゃんよ」

 それを聞いた淳は、不思議そうに問い返した。


「『ハナ』と『ミミ』? 二匹ともメスか?」

「ええ、そうよ。それがどうかした?」

「いや、メスは良いんだが……。名前はお前が付けたのか? 『ミミ』って名前で良いのか?」

「私が付けたし、勿論良いけど。何か拙い?」

 過去に自分の名前の読み方で、色々嫌な思いをしたと聞かされた経験があった淳が、慎重に尋ねてみたが、美実は何でもない事の様に言い返してきた。その為安心しながら、淳はもう一つの疑問を口にする。


「いや、お前がそうしたいって言うなら、それで構わないさ。だが、どうして『ハナ』と『ミミ』なんだ?」

「え? だって先生の自宅兼診療所から貰って来たから。診療所の上が、ご自宅になっているのよ」

「はぁ?」

 言われた意味が分からなかった淳が戸惑った声を上げると、美実が説明を加える。


「だから、耳鼻科だから、『耳』と『鼻』」

「…………」

「ちょっと、淳。急に黙ってどうしたの?」

 思わず無言になった淳に向かって美実が呼びかけた瞬間、淳が堪えきれずに爆笑した。


「ぶわぁっはははっ! 美実、お前っ! ネーミングセンスに難有りだぞ!? やっぱり子供の名前は、俺が考えて正解だ!」

「ちょっと! 何でそこで馬鹿笑いするのよ? 失礼ねっ!」

「悪い。つい、本音が出た」

「余計に悪いわよっ!」

 そこで怒り出した美実を、淳は苦笑いの表情で宥めた。


「とにかく、子供が産まれる前から美子さんの手間が増えるだろうし、猫達の事は俺からもお願いしておくから。見た感じ、まだ生まれて1ヶ月経ってない子猫だろう? これから世話をしながら、躾もちゃんとしなくちゃな」

 すると美実が、微妙にうんざりとした口調で言ってくる。


「もう美子姉さんに、しっかり釘を刺されたわ。『自分の子供の面倒を見て躾る練習のつもりで、しっかり世話しなさい』って」

「頑張れ。餌代やら必要な物の購入費用は、美子さんに言って俺が出すから」

「えぇ? でもそれは……。私が勝手に貰って来ちゃったんだし……」

 そこで躊躇う美実に、淳は少々強引に言い聞かせる。


「良いから。その猫達は俺達の家族になるんだから、俺が生活費を出すのは当然だろう? その代わり、今度そっちに顔を出した時は、その天使達を堪能させてくれよ?」

「分かったわ。美子姉さんに言っておくから。それじゃあね」

「ああ。早く寝ろよ」

 そして淳が笑顔で通話を終わらせると同時に、この間不思議そうに彼を観察していた森口が声をかけた。


「何だったんだ? 猫がどうとか言ってたが」

 すると淳が嬉々として、美実からのメールに添付されてきた画像を森口に見せるように、スマホを突き出す。

「見て下さい、森口さん!! 超絶可愛い天使がいます!」

「はぁ?」

 軽く首を傾げた森口が、目の前のスマホに映し出されている画像を確認すると、上に向けて左右を合わせた美実の掌の上に、白い子猫が二匹、カメラ目線で身を寄せ合って乗っているのを目にして、思わず呟いた。


「うおぅ……、手乗り猫……。確かに超絶可愛いな」

「猫も可愛いですが、こんな美実の照れくさそうな顔もレアなんですよ! 駄目だ、これは絶対美実の待ち受けにしないと。設定設定」

 そしていそいそと実行に移った淳を見て、森口は生温かい眼差しを彼に送った。


「……幸せそうだなぁ」

「はい!」

「うん……、まあ、頑張れ」

 満面の笑みで即座に応じた淳を見て、(もうこいつに関しては心配いらないな)と心の底から安堵しながら、森口はその後も気分良く飲み続けた。

 しかしそんな平穏な時期はそれほど長くは続かず、一月も下旬に突入し、美実と淳の間で普通にやり取りする様になってから半月程経過した所で、思わぬ方面から予想外の騒動が勃発した。



「お父さん、お帰りなさい。……あら? 秀明さんは一緒じゃなかったの?」

 父と共に出張に出た筈の秀明が、何故か予定とは異なって帰宅しない事に美子は首を傾げたが、玄関から上がり込んだ昌典は、素っ気なく説明した。


「ああ。あいつには、別件で仕事を頼んでな。何日か帰宅が遅れる」

「そんな連絡、貰って無いけど?」

「俺が指示した通り、駈けずり回っているんだろう? 持つべきものは、従順な婿だな」

「……お父さん?」

 口調は穏やかながらも、微妙に含み笑いを浮かべつつ物騒な気配を醸し出している父を見て、美子ははっきりと警戒心を覚えた。


「美実はまだ起きているだろう? 呼んできなさい」

「はい。じゃあ居間の方で良い?」

「ああ。そこで待っている。ついでに茶も淹れてくれ」

「分かったわ」

 そして玄関先に荷物を置き、居間に向かった父親の背中を見送った美子は、微妙に緊張した表情で美実の部屋に向かった。


「美実、お父さんが帰って来たんだけど、あなたに話があるみたいなの。今から居間に行ってくれない?」

「それは構わないけど、何の話?」

 読んでいた本から顔を上げて尋ねてきた妹に、美子は不安を隠せない様子で言葉を継いだ。


「それは分からないけど……、何かお父さんの様子が変なの。それにどうしてだか、同行していた筈の秀明さんが帰って来ないし」

 それを聞いた美実は、意外そうな顔つきになった。


「あれ? 二人とも泊まりがけの出張だと聞いていたけど、お父さんとお義兄さんは同行していたの?」

「ええ。確か今回の出張は、新潟県内で計画している大規模な加工工場の起工式に立ち会いながら、現地の契約農家との懇談会や、県主催の産業観光業種の交流会やイベントに顔を出すとか言ってたわ。秀明さんは常務取締役の肩書き付きの、経営戦略本部資材統括部部長だし」

「泊まりがけで出かけても、スケジュールがびっしりっぽいわね。本当にご苦労様だわ。分かった、今行くから」

「お願いね」

 そして本を閉じた美実に背を向けて、美子は茶を淹れるべく台所に向かった。しかしどうにもすっきりしないまま、独り言を呟く。


「確かにスケジュールはそれなりにタイトな筈なのに、別件の仕事を頼んだってどういう事かしら? 会社の通常業務だってある筈よね……」

 そんな美子の疑問など当然分からなかった美実は、出張から帰宅した父親を労うため、笑顔で居間へと向かった。


「お父さん、お帰りなさい。出張ご苦労様でした。話って何?」

「ああ。ただいま。ちょっとそこに座りなさい」

「はい」

 おとなしく父親の向かい側のソファーに座った美実だったが、それと同時に昌典が何気なく尋ねてきた。


「ところで美実、俺に何か話し忘れていない事は無いか?」

「え? 話し忘れている事?」

「ああ」

「無い、……と、思うけど?」

 問われた理由が分からず、美実が当惑しながら答えると、昌典はその顔に不気味な笑みを浮かべながら、問いを重ねた。


「ほう? 本当に思い当たる節は無いと?」

「……う、うん」

(何? 何かお父さんの笑顔がもの凄く怖い! こんなの滅多に無いけど、美子姉さんが本気で怒った時の比じゃ無いかも!? 何? 私何か、そんなに拙い事を言い忘れてるの!?)

 全く理由が分からないまま美実が狼狽していると、人数分の茶を淹れた美子が居間にやって来た。


「お待たせ。お茶を持って」

「美子も座りなさい」

「……はい」

 話を遮られながら美子が美実の隣に腰を下ろし、各自の前に湯飲みを配ると、昌典はそれを取り上げて一口飲んでから、しみじみとした口調で言い出した。


「実は今回の出張先で、面白過ぎる事が起きてな? 県主催のパーティーで、小早川という夫婦が私に挨拶に来たんだ」

「それって……」

「淳のご両親が!?」

 姉妹揃って顔色を変えたが、昌典は淡々と説明を続ける。


「いや、彼の姉夫婦だそうだ。いやはや、寝耳に水の話を聞かされて呆然としたぞ」

「一体、何を聞いたの?」

 十分予想はできたものの、一応美子が尋ねてみると、昌典は底光りする目を彼女に向けた。


「それがな? 小早川君の母親が我が家に前触れなく押し掛けた時に、無礼を働いた事で私が腹を立て、その家がやっている旅館の営業妨害をしたばかりか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに和典に声をかけて、新潟県選出の代議士に圧力をかけたとか……。いやぁ、驚きだ。生きていると、どんな面妖な話に遭遇するか分からんな」

「あの、お父さん」

「それは……」

 美子達は冷や汗を流しながら父親を宥めようと試みたが、昌典は低い声で話を続けた。


「それで彼の姉夫婦は、『自分達の非を認めて謝罪するので、自分達を含めた各所への嫌がらせを止めて欲しい』とか言われたが、私には全く覚えが無いし、さっぱり要領を得ない話でな。仕方がないから同じ会場にいた秀明を呼んで、尋ねてみたんだ。そうしたら、『わざわざお義父さんを不快にする必要は無いと判断して、敢えて報告していませんでした』と言うじゃないか」

 少々わざとらしく両腕を広げながら説明した昌典を見て、美子達は盛大に顔を引き攣らせた。


(どうしてそこで、最後までしらを切らないのよ!?)

(お義兄さん!?)

 内心で秀明を非難した二人の前で、昌典が冷静に話を続ける。


「それで『万事そつがないお前の事だから、勿論詳細な内容を把握しているな?』と尋ねたら、『チェックインした部屋に置いてある媒体に、その時の録音データを入れてあるので、ご希望ならお持ちします』と言われたから、会場に持って来て貰ったんだ。いや、本当に持つべきものは、万事手抜かりの無い婿だな」

 そう秀明を誉めた後、「はっはっは」と薄ら寒い笑い声を上げた父を見て、美子達は揃って蒼白になった。


(あなた! 何て事をしてくれたの!?)

(例の、お母さんが色々言った時の暴言データを!! そんな物をお父さんに聞かせたりしたら!?)

 するとここで、急に昌典が押し殺した口調になって、呻く様に声をかけてくる。


「美子……。美実……」

「……はい」

「何でしょうか?」

 もう悪い予感しかしない二人が、それでも素直に応じると、昌典が二人を睨み付ける様にして話し出す。


「私は深美と結婚する時に、亡くなったお義父さんに言われた事がある」

「お祖父さんから聞いて知っているわ。『藤宮家と深美はお前に任せた。お前に商才が無くて、会社を潰しても構わん。先代の時に一度傾いて、貧乏暮らしも経験しているからな。しかし藤宮家の歴史と矜持を傷付ける事だけは許さん』ですよね?」

「その通りだ。そしてその時俺はお義父さんに、この家の名誉と身代を守る事を誓った」

 美子の台詞に真顔で頷いた昌典は、ここで固く拳を握り締めながら、憤怒の形相で言い出した。


「それを……、公衆の面前で下品な成金風情と罵倒されたばかりか、美実の仕事にも散々ケチを付けられるとはな……」

「ちょっと待って、お父さん。公衆の面前って、まさかその会場で録音内容を聞いたの!?」

「私には何も恥じる所は無いからな。秀明は再生する前に、何やらごちゃごちゃ言っていたが」

(せめて人目のない所で再生できなかったの? 本当に何をやってるのよ!?)

(お義兄さん!? そんな物はビールグラスに突っ込んで沈黙させて!)

 内心で悲鳴を上げた娘達には構わず、昌典は唸る様に言葉を継いだ。


「その挙げ句、暴力沙汰を引き起こした上、それを謝罪もしないとは何事だ。しかも俺がそれを逆恨みして、嫌がらせをするような品性下劣な人間だと、断言したも同然だぞ」

「いえ、断言まではしていないと思うし!」

「確かに本は投げられたけど、暴力沙汰と言う程の事では!」

「しかも和典まで同調して、与党内で画策しただろうとまで言われたとあっては、藤宮家に留まらず倉田家の矜持まで傷付けてくれたも同然だ。良くもあそこまで、人を馬鹿にしてくれたものだ」

「それは明らかに、何かの勘違いだと思うわ!」

「落ち着いて話し合えば、誤解も解けると思うけど!」

 動揺しながらも、精一杯淳の姉夫婦を弁護した美子達だったが、昌典は全く聞く耳持たなかった。


「それで『驚きました。家長の筈の私が、こんな重大な事を把握していないとは。娘や婿に随分なめられたものです』と周囲に向かって苦笑したら、秀明が『誠に申し訳ありません』と最敬礼してな。俺達の周りを囲んで一部始終を見聞きしていた県知事や代議士、観光協会の会長やら工場を誘致した市長やらが、皆真っ青になっていた」

「……なるでしょうね」

「おっ、お父さん!? あのっ! それでお姉さん夫婦は……」

 美子は半ば諦めてしまったが、美実は恐る恐る尋ねてみた。すると昌典が、薄笑いを浮かべながら、それに応じる。


「話を聞いても、やはり全く見に覚えの無い事だったし、その旨を告げた上で、『同じ経営者として、従業員に責任を果たさなければならない辛い立場は良く分かります。どこからどの様な恨みを買ったかは分かりませんが、ここでお会いしたのも何かの縁。傾いているとお伺いしたお宅の旅館を、従業員込みの居抜きで買い取って差し上げましょう。ご安心下さい』と提案した」

「お父さん!?」

「公然と買収話を持ちかけたの!?」

 その物騒過ぎる話に姉妹揃って声を荒げたが、昌典は満足げに頷いてみせた。


「よほど喜んで安心して頂けた様で、夫婦揃ってふらついてその場に座り込まれたので、周りの方々に引きずられる様にして会場を後にしておられた。いや、良い事をした後は、実に気分が良いな」

 そう言って満足げに茶碗に手を伸ばし、再び茶を飲み始めた父親を美実は呆然と見やったが、美子はある可能性に思い至り、慌てて問い質した。


「お父さん! まさか秀明さんに頼んだ別件の仕事って、その旅館の買収話じゃ無いでしょうね!?」

 それを聞いた美実がギョッとした顔になって、父と姉の顔を交互に見やると、昌典は静かに茶碗をテーブルに戻しながら、楽しげに告げた。

「そのパーティーは一昨日の事でな。昨日から本来のスケジュールをこなしつつ各方面を調整して、今日司法書士と不動産鑑定士を同伴して乗り込んだそうだ。いやぁ本当に、持つべきものは有能な婿だな」

 そう言ってカラカラと笑う父親を見て、美子達は無言で項垂れた。


(もう駄目だわ……)

(お義兄さんができる人なのは知ってるけど、こんな所でその有能ぶりを発揮しなくても!)

 もう言葉無い娘達に向かって、昌典が素っ気なく言い放つ。


「そういう事だから美実。私はこれ以上、先方と関わるつもりは無い。そのつもりでいろ」

「そ、そのつもりって……」

「美子。風呂は?」

「沸いているわ」

「じゃあ疲れたから、入って寝るからな。明日の朝はいつも通りだ」「分かったわ。おやすみなさい」

「ああ」

「お父さん、ちょっと待って!」

 淡々と美子と会話して腰を上げた昌典を、美実は慌てて追いかけようとしたが、それを美子が引き止めた。


「無駄よ。止めなさい、美実」

「でも!」

「それよりも……、一体何をやってるのよ!?」

 そして妹の目の前で携帯電話を取り出して電話をかけはじめた美子は、相手が出るなり盛大に怒鳴りつけた。


「あなた!! 家に帰らずに、何をやってるの!!」

 その剣幕で、事の次第を正確に理解した秀明が、冷静に言葉を返してくる。


「ああ、お義父さんから聞いたか……」

「『聞いたか』じゃ無いわよっ! どうしてお父さんの無茶振りに、唯々諾々と従っているの!?」

 それは美子にしてみれば当然の怒りだったのだが、妻が怒る事は予想していた秀明は、落ち着き払って言葉を返した。


「美子……。今まで口にした事は無かったが、俺にはこれまでの人生の中で、この人には敵わないと思った人間が三人存在している」

「はい?」

「深美さんを今でも敬愛しているし、加積のじじいは畏怖するしか無く、お義父さんの事は尊敬している」

「だから何?」

「下手に隠し立てして、お義父さんに切り捨てられるのは御免だ。あの人はいざとなったら、苛烈極まりない人だからな。切り捨てるなら、迷わず淳との友情の方にする」

 きっぱりとそんな事を断言してきた夫に、美子は本気で頭痛を覚えた。


「父をそこまで尊敬してくれているのは嬉しいし、性格を完全に把握してくれているのは助かるけど、いつもの傍若無人なあなたはどこに行ったのよ!?」

「どこかに旅に出た」

「つまらない冗談を言ってる場合じゃ無いでしょう!?」

 更に声を荒げた美子だったが、秀明は冷静に報告を続けた。


「そういう事だから、ちょっと淳の実家周辺に噂を幾つか流して、主だった従業員に引き抜き話を持ち掛けて、他にも色々揺さぶってから明後日帰る。それじゃあな」

「あ、ちょっと、あなた!?」

 慌てて尚も問い詰めようとした美子だったが、そこで通話が途切れ、顔色を悪くしながら振り返った。


「美実……。小早川さんの実家、相当危なそうだわ……」

「美子姉さん!?」

「取り敢えず、小早川さんに電話して聞いてみたら? 実家から連絡が入っているかもしれないし」

「う、うん! 今かける!」

 動揺しまくりの美実が慌てて淳に電話をかけてみたが、どうしてだか全く繋がらなかった。


「繋がらない……。どうしよう、美子姉さん……」

 おろおろしながら判断を求めてきた妹に対し、美子は溜め息を吐いて宥める。


「取り敢えず、もう遅い時間だし、今日はもう寝て明日にしましょう。暫くは朝晩、お父さんの好きなものを作って出すから。少しでも機嫌が良い時に、改めて話をしないとね」

「う、うん。そうだよね。明日落ち着いて頭の中を整理してから、淳と連絡を取ってみるから」

「そうしなさい」

 女二人はそう意見を纏め、取り敢えず翌日以降の事として寝る支度をする為に居間を後にしたが、正にその時、淳が実家から驚愕の連絡を受けていた。



「淳君……、ちょっと良いかな?」

「ええ、構いません。でも泰之さんが電話をくれるなんて、珍しいですね。どうかしましたか?」

 決して仲が悪いと言う訳では無いが、連絡を寄越すならやはり実の姉の縁であり、淳は怪訝に思いながら義兄からの電話に応じた。すると彼が、困惑気味に話し出す。


「それが……、縁が寝込んでしまったので、私が代わりに電話しているんだが」

「あの頑丈な縁が寝込んだ? まさか病気とか? 大丈夫ですか?」

 慌てて問い返した淳に、泰之が冷静に言い返す。


「そうじゃないんだ。とあるパーティーに藤宮社長が参加すると聞いたから、夫婦でお義母さん達の事を謝罪しに行ったら、事態が余計に悪化して……」

 それを聞いた淳は、一瞬当惑してから、思わず声を荒げた。


「藤宮社長……、藤宮さんの事ですよね? でもそれは美子さん夫婦の所で止めて、藤宮さんの耳には入れていない筈ですよ!? 婿入りした藤宮家を大事にして誇りに思っているあの人の耳に入ったら、激怒する事が必至なのは、これまでの付き合いで俺にも分かりますし!」

「やはり、ご存知無かったんだ……」

「義兄さん、すみません。詳しい話を聞かせて貰えませんか?」

 何やら気落ちした様に呟いた義兄に淳が尋ねると、相手は順序立てて説明を始めた。


「少し前から予約が満室状態でも、実際に宿泊客が殆どいない状態が続いている事は、縁から聞いているかな?」

「はい。昨年のうちに」

「その殆どの客が、当日キャンセルとか無連絡だったから、宿泊料はほぼ百%うちに入っていたんだが、半月位前から七日前とか三日前までにキャンセルの連絡が入る様になって、宿泊料が殆ど入らなくなったんだ」

「そうなんですか? それは聞いていませんでした」

「それで少しでも空いた部屋を埋めようと、提携している旅行会社に斡旋をお願いしたら、『お宅は近々廃業予定で、新規の予約を受け入れない事にしたと二ヶ月以上前に連絡を受けて以降、システム上から項目を削除しているし、こちら経由で予約も入れていないが』と言われたんだ」

 そこまで聞いて、淳は本気で驚いた。


「何ですって!? そんな連絡なんかしていませんよね?」

「勿論だ。慌てて提携している旅行会社やサイト運営元に確認を入れたら、全て同様だったんだ。慌てて『それは何かの間違いなので、宿泊客の斡旋をお願いします』と依頼したんだが、『最近お宅の評判が悪いんだよね』とか、『もう春向けのパンフレットは作製済みで、それにお宅は載って無いから』とか言われて……」

 そこで泰之が溜め息を吐いた気配を察した淳は、根本的な疑問を口にした。


「でもそうなると、これまでの宿泊予約はどうやって入っていたんですか? 今時電話での予約は、あまりありませんよね?」

「そうなんだ。それが全く分からない。提携先からの接続が皆無の筈なのに、どうやってうちの管理システムに反映されていたのやら。しかもこれまで宿泊料もきちんと振り込まれていたし」

(どういう事だ? そうなると、気が付かないうちに旅館のシステムが、外部から乗っ取られて操作されていたって事か?)

 どう考えても穏やかでは無い話に、淳の顔が強張ってきたが、泰之の話は更に物騒な物になってきた。


「そうこうしているうちに、県の観光協会の理事をしている、俺の母方の伯父の一人から連絡が入ったんだ。その人の事は知っているかな?」

「小耳に挟んだ事は。すみません、お名前は覚えていませんが」

「それは構わないんだが……、伯父から『お前の所が困っているみたいだが、それは実はお前の姑と揉めた、東京の藤宮社長の仕業だと分かった。実は近々彼が来県して、県主催の観光物産奨励のパーティーに出席するそうだ。お前と一緒に頭を下げてやるから、それに出席する気は無いか?』と誘われたんだ」

「それで藤宮さんに頭を下げに、パーティーに出向いたんですか?」

 淳は嫌な予感を覚えながらも話の先を促すと、泰之は声のトーンを若干低くしながら説明を続けた。


「ああ。だが当の藤宮さんは何の事やら分からない顔付きで聞いてから、婿養子の男性を呼びつけて詰問し始めて……。その人が持ち歩いているデータの中に、お義母さん達が自宅に伺った時の内容も入っていたらしく、その会場のホテルに宿泊しておられたから、少し待たされた後、揉めた内容の一部始終を、藤宮さんと県内のお偉方の前で披露されたんだ……」

「泰之さん……」

 それだけで、その場の光景が想像できた淳は、心底姉夫婦に同情した。すると泰之が、その予想に違わぬ内容を告げてくる。


「全て聞き終えた藤宮さんが、無表情で『先程のお話では、私がそちらの宿泊予約を調整したり、わざと取材の妨害をしたり、果ては無関係な与党県連への働きかけを実弟に依頼したわけですね。そして、その理由がこれだと。いやはや、驚きました。一面識も無い方に、そんな矮小な人間だと思われていたとは。不徳の致すところですかな?』と淡々と仰って。その時点で、縁は腰を抜かして床に座り込んだ。怒鳴りつけられたりしていないのに、俺も寒気が止まらなかった……」

「…………」

 もう言葉も無い淳は黙ってうなだれたが、泰之が昌典の怒りの程が知れる内容を口にする。


「それで『経営者としてそんな危なっかしい状態では、色々と不安が多いでしょう。あなた方の弟と、私の娘の間に些かの関係が有ったのも何かの縁。後顧の憂いの無いように、居抜きで旅館を買い上げて差し上げましょう。従業員の雇用は保証しますので、どうかご心配なさらず』と笑顔で仰ったんだ」

「何ですって!?」

「それからは周囲に、寄ってたかって会場から引きずり出されて。伯父には『どうして公の場であんな話を持ち出した!』と叱責されたから、『伯父さんが人目のある所で謝罪した方が、相手も強く出られないからその方が良いだろうと、電話で言ってたじゃないですか!』と反論したら、『俺はそんな話はしていない! 第一、藤宮社長に義母が失礼を働いたので、今度社長が来県する時に出席するパーティーで、自分達を紹介してくれと、泣きついて来たのはお前だろうが!』と怒鳴り返されたんだ」

 そこで淳は、慌てて今の話の矛盾点を突いた。


「ちょっと待って下さい。そうすると泰之さんも理事の伯父さんも、お互いに自分からは電話をしていないんですか?」

「ああ。もうわけが分からない……。当日は打ち合わせ通りの時刻に、会場の外で待ち合わせをして、伯父に入れて貰ったんだが……。ひょっとしたら藤宮さんは本当に無関係で、あの人と揉めている事を耳にした、同業者の陰謀かもしれないと思って、淳君に電話してみたんだ……」

(こんな大掛かりな、しかも尻尾を掴ませない裏工作……。どう考えても加積、と言うか小野塚の野郎が糸を引いているとしか……)

 泰之が独り言の様に呟いたが、淳はある可能性に気が付いた。しかし詳細を気軽に口にする訳にもいかず、苛つきながら義兄の話に耳を傾ける。


「それで……、今日うちに、藤宮さんから指示されたと言って、婿に当たる方が司法書士と不動産鑑定士同伴で出向いてきて、買い取り額を提示されたんだ」

 その話に、さすがの淳も度肝を抜かれた。


「はぁ? 今日? 秀明が!?」

「ああ。君の友人だそうだね。『長年の友人の実家のよしみで、買い取り額を査定より百万上乗せしておきました』と、さらりと笑顔で言われたよ」

「秀明……、あの野郎……」

 盛大に唸って歯軋りした淳を宥める様に、泰之が冷静に話を続ける。


「当然お義母さんが激怒して、その話をはねつけたんだが……。その後、従業員の主だった面々に、引き抜き話を持ち掛けたらしくて。今日のうちに三人が退職を申し出てきた」

「何ですって!?」

「他にも勧誘された人間はいるみたいで、正直どれだけの人間が辞めたいと言い出すか分からない状況なんだ。無理もないよ。この間不穏な事が続いていて、皆が疑心暗鬼になっていたし」

(秀明……、お前、仕事早すぎだろ!?)

 ろくでもない手腕を発揮した友人に向かって、淳は心の中で罵声を浴びせると、泰之がどこか疲れた様に言い出す。


「それでお義母さんが、一連の騒動が全部藤宮さんの仕業だと、益々わめき散らしていて」

「いや、あの人に限ってそれはないです」

 きっぱりと断言した淳に、泰之も同意を示した。


「それは俺も実際にお会いしてみて、そうだと思う。だからまたお義母さんが上京して、藤宮さんの所に押し掛けるのは何としてでも止めるから。ただ今回の事で、藤宮さんの淳君に対する心証が悪くなってしまっただろうと思って、取り敢えず経過だけ報告しておこうと思ったんだ」

 内外の対応で神経をすり減らしているであろう義兄が、自分の立場を心配して電話をかけてくれたのを正確に理解した淳は、電話越しながら相手に向かって深々と頭を下げた。


「連絡、ありがとうございます。それに旅館が大変な時に、こちらの心配までして頂いてすみません」

「いや、まさか俺達も、あんな展開になるとは思っていなかったからね。様子を見て少し落ち着いたら、改めてご都合をお聞きした上で、藤宮さんにお詫びに伺うつもりだよ。その時は、淳君の方からも口添えしてくれたら助かるんだが」

「分かりました。勿論、そうします。実家の方は宜しくお願いします」

「ああ。それじゃあ失礼するよ」

 そうして気が重い話を終わらせた淳だったが、内心では怒りに震えていた。


「小野塚の奴……、どこまで嫌がらせすれば気が済むんだ……」

 しかし淳の読みはまだ少々甘く、和真の謀略はこれからが本番だった。



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