第31話 大器の片鱗
藤宮家で、淳がなんとか美実から合格を貰った翌日の夜。ある事について考えあぐねた美実は、一本の電話をかけた。
「美恵姉さん、今話をしても大丈夫?」
「ええ、安曇も寝ているし構わないわ。どうかしたの?」
「ちょっと相談したい事があるんだけど……」
結構深刻そうなその口調に、美恵は意外に思いながら問い返した。
「私に相談? 姉さんじゃ駄目なの?」
「うん。お断りの仕方だから、これはやっぱり美恵姉さんでしょ? 軽く三桁はお断りしてる筈だし」
確信に満ちた口調で妹が告げてきた為、美恵は低く凄んだ。
「……ふざけてるの?」
その声に含まれた怒りの気配に、美実は慌てて弁解した。
「本気だってば! 今の三桁は軽い冗談だったけど、軽く二桁はいってるでしょ? 私、ずっと女子校だったし、よくよく考えてみたら淳以外に告白された事ないし、お付き合いした事も無いから、全然分からないんだもの!」
「一人目であのレベルって……。何か凄くムカつくわね」
本気で嫌そうに美恵が口にすると、美実が縋る様に言ってくる。
「そんな事言わないでお願い! それにこれに関しては、美子姉さんに相談しても無理だと思ったし」
「それはそうよね。義兄さんは姉さんに散々お断りされても、執念深く押し切ったし。……ところで、あんたがそう言って来たって事は、取り敢えず収まるところに収まったっていう認識で良いのかしら?」
一応美恵が確認を入れると、美実は「うっ」と小さく詰まってから、ぼそぼそと詫びてきた。
「えっと、……はい。まあ、そこの所はなんとか。その……、大変お騒がせしました」
「本当にお騒がせよね」
「それで……、入籍云々はもう少し慎重に考えると言うか、時期を見ようとは思ってるけど……」
「向こうの実家と散々揉めた後だしね。それはゆっくりで良いんじゃない? 取り敢えずおめでとう」
「あ、ありがとう……」
そうして事実確認を済ませた美恵は、苦笑いしながら話を続けた。
「それで、見合い相手の小野塚さんとやらに、きっぱりお断りしなくちゃいけないから、困ってるわけね?」
「うん。何て言ったら良いものかと思って。お見合いの話自体も、美子姉さんが断りにくい筋から来たみたいで。あ、因みにお世話してくれたご夫婦とは、この前偶然顔を合わせたの。年配の凄いお金持ちの人で、美子姉さんとは随分年の離れたお友達なんだけど……」
それを聞いた美恵は、困惑した声で感想を述べた。
「う~ん、そうなると、姉さんを介してとかは、どうかと思うわ。姉さんだって後々の付き合いに、しこりを残したく無いでしょうし」
「やっぱりそうよね?」
それは美実も考えていた事であり、素直に頷いた。すると電話越しに、美恵が確認を入れてくる。
「その小野塚さんって人の事、この前帰った時に軽く聞いただけだけど、凄く良い人みたいよね?」
それに美実は、深く頷いて同意した。
「うん。そもそも妊娠中の女性でも構わないって言うのは、相当珍しいと思うわ」
「珍しいって言うか、完全に何か裏があるか、あんたの事がよほど気に入ったって事でしょう? 何か裏がありそうな、訳ありな感じとかしてた?」
「ううん。確かに仕事とか実家は特殊みたいだけど、物言いは丁寧だし、物腰は柔らかくて人を不快にする様な事は無いし、万事気の利く人だもの」
それを聞いた美恵から、溜め息を吐いた音と苛立たしげな声が返ってくる。
「本っ当にムカつくわね。小早川さんだけでも高スペックなのに」
「……うん、何かごめんなさい」
思わず自分が物凄く傍若無人な人間になった気がして、美実は一人項垂れた。それを電話の向こうでも察したのか、美恵が軽く叱りつつ言い聞かせてくる。
「何で謝るの。と言うか、聞きようによっては嫌みだからね? とにかくそういう良い人なら、直に顔を合わせて、きちんと理由や気持ちを伝えてお断りしなきゃ駄目よ? それから、他人が考えた言葉を並べてどうするの。ちゃんと自分の言葉で伝えなさい」
「う……。やっぱりそうだよね」
そこで素直に同意した美実に向かって、美恵が念を入れた。
「確かに顔を合わせづらい気持ちは分かるけど、電話で済ませるのは相手に失礼よ。勿論、メールの一本で終わりにしようとしたりするのは、言語道断だからね? 非常識よ」
「美恵姉さん、幾ら何でもそんな事しないから!」
一体自分は、姉にどんな人間だと思われているんだろうと、若干不安になりながら美実が声を上げると、美恵は笑って宥めてきた。
「それなら良いんだけど。あとできれば、その間に入ってる方にも、お詫びと説明をした方が良いかもね。美子姉さんが今後お付き合いしていく上で、変なしこりを残さない方が良いと思うし」
「うん、分かった。そうするから。相談に乗ってくれてありがとう」
「大した事は無いわよ。気まずいと思うけど、頑張りなさいね。それじゃあ切るわよ」
「うん、おやすみなさい」
一応、考えていた内容ながら、美恵に話を聞いて貰って気持ちが随分落ち着いた美実は、迷いの無い表情で一人頷いた。
「うん、そもそも私がはっきりしなかったのが悪いんだし、自分自身できちんと話をしないとね」
そう決意を新たにした美実は、翌日にも時間のある時に和真と加積夫婦に連絡を取ろうと考え、取り敢えず休む事にしたのだった。
※※※
翌朝、それぞれが出社や登校し、朝食後に居間で美樹と遊んでいた美実が、そろそろ部屋に戻って、仕事を始める前に和真や桜達に連絡を取ろうかと考えていると、背後で美子が素っ頓狂な声を上げた。
「はい、藤宮です。……まあ、美智恵さん、お久しぶりです。どうかされたんですか? ……はぁ!? それで先生の容態は? 大丈夫なんですか?」
「……ママ?」
「どうしたのかしらね」
滅多に動揺した姿を見せない姉が、電話越しに聞いたらしい話に驚いているのを見て、美実は美樹と共にその姿を不思議そうに眺めた。そして幾つかのやり取りの後に通話を終わらせた美子は、まっすぐ二人の所にやって来る。
「美実。悪いけど、今日は暫く美樹の面倒を見ててくれないかしら?」
「それは構わないけど、どうしたの?」
「先生が足を踏み外して、駅の階段から落ちたんですって。それで病院に搬送されたらしくて、そこに駆けつけた娘さんが連絡をくれたのよ。彼女とは顔見知りだし」
「え? 先生って、日舞教室の師範の方よね? 大変じゃない! 大丈夫なの?」
さすがに驚いて問い質した美実だったが、美子は溜め息を吐きながら答えた。
「幸いな事に意識ははっきりしてるし、骨折はしていないそうだけど……。取り敢えず今日の教室の参加予定の方には休講の連絡をして、明日以降は私が代行するかどうか先生と相談してくるわ。どれ位で復帰できるか分からないし。それで美樹の世話を、暫くあなたにお願いする日が多くなるかもしれないけど」
申し訳なさそうにそんな事を言ってきた姉に向かって、美実は明るく笑った。
「そんな事、気にしないで。普段散々お世話になってるし、美樹ちゃんの面倒位、いつだって見てあげるから。それに美樹ちゃんは、手がかからない良い子だし」
「そう? じゃあ、お願いね? これから出かける支度をするわ」
安堵した顔つきになって今を出て行こうとした美子だったが、ここで美樹が走り寄って、彼女のスカートの裾を掴んだ。
「ママ!」
「美樹、どうしたの?」
「きょう、さくちゃん」
「え?」
美実は何の事かと首を傾げたが、娘が言っている内容を思い出した美子は、しゃがんで美樹と目線を合わせながら、彼女に言い聞かせた。
「美樹、今日は用事が出来たから、桜さんの所には遊びに行けないの。お断りの電話をするわ。お家に行くのは、また今度にしましょうね?」
「や! さくちゃん、ぷーる! やくそく!」
「今日は駄目。美実の言う事を聞いて、おとなしくしていなさい」
「やーっ!! さくちゃん、あそぶ!」
「美樹! 我が儘を言うのは止めなさい!」
「やあぁぁっ!!」
「美樹!!」
普段、聞き分けの良い美樹が珍しく駄々をこね、美子が切れかけているのを見て、美実は慌てて駆け寄って申し出た。
「あ、あの、美子姉さん? 今日加積さんのお宅に行く約束が有るなら、私が連れて行っても良いけど?」
「美実? あなたどうして加積さんの事を知ってるの?」
途端に鋭い視線を向けられて、少々怖気づきながら美実は答えた。
「その……、美樹ちゃんに頼まれて、桜さんに電話をかけた事があって。それから小野塚さんにお屋敷に連れて行って貰った事が……。その時に聞いたんだけど、あのお見合い話ってあのご夫妻から話が持ち込まれたのよね?」
それを聞いた美子は驚き、次に慎重に尋ねてきた。
「……加積さんが、どんな方か分かっているの?」
「顔が怖いけどなかなか面白くて得体が知れない、かなりお金持ちで美人な奥さん持ちのおじいさんでしょう?」
恐る恐る美実が口にすると、美子は何か不味い物を無理やり飲み下した様な顔つきになったものの、余計な事は何も言わずに、美樹を預ける事にした。
「そういう認識なのね……、分かったわ。それなら美樹、今日は美実が加積さんのお宅に連れて行ってくれるから、ちゃんと言う事を聞くのよ?」
そう説明された途端、美樹は満面の笑みで頷き、美実を見上げた。
「うん! みーちゃん、ありがとです!」
「どういたしまして。じゃあ、どうやって行こうかな?」
「迎えの車を差し向けてくれるから、心配要らないわ」
「……やっぱりお金持ちね」
美樹と二人でにっこり笑った美実は、加積の金持ちっぷりを認識して動揺しながらも、願ってもないチャンスに感謝した。
(予想外だったけど、小野塚さんをお世話してくれたのは桜さんご夫妻だし、直接お詫びとお礼を言うチャンスだわ。様子を見て、話を出してみよう)
密かにそう算段を立てた美実は、差し向けられた高級車に美樹と同乗して、急遽加積邸を訪問する事になった。
「いらっしゃい、美樹ちゃん。美実さん」
既に美子から連絡を受けていた桜は、玄関で二人を笑顔で招き入れた。それに美樹と美実も笑顔で挨拶を返す。
「さくちゃん! こんにちはです!」
「お邪魔します」
「さあ、二人とも上がって頂戴。約束のプールを準備しておきましたからね」
「うん! ぷーる、ぷーる!」
喜び勇んで上がり込んだ美樹の後に続いて、美実も靴を脱いで廊下を進んだが、内心では首を傾げていた。
(それにしても『プールを準備』って、どういう事かしら? 美子姉さんに聞くのをすっかり忘れてたけど、温水プールとかに行くわけではなさそうよね。水着も準備していなかったし。さすがにここにプールはなさそうだし)
しかし楽しそうに話しながら前を歩く美樹と桜に、今更尋ねる気も起きず、すぐに分かるかと黙って後に付いて行った。
「ほら、美樹ちゃん。どうぞ? 約束のプールよ?」
「…………は?」
その直後、桜がスラリと引き開けた襖の向こうに、確かに大きなプールが存在しているのを目にした美実は無言で固まり、美樹は満面の笑顔で駆け寄った。
「うわー! ぷーる! どぼーん!」
「きゃあ! 美樹ちゃん、危ない!?」
「凄いわ、美樹ちゃん。お転婆さんね」
一声叫ぶなり、ご丁寧に目の前に設置してあった小さい階段を駆け上がり、高さが一メートルはある壁を飛び越えてその向こうに迷わず飛び込んだ美樹を見て、美実は肝を冷やしたが、桜は如何にも楽しそうにころころと笑った。
(うん……、これは確かにプールだわ。だけど自宅に、これだけのボールプールを設置しちゃうって……。加積さんって、やっぱりただ者じゃないみたい)
積み重なったプラスチック製のボールの深さが、見た感じ五・六十センチはありそうな、八畳二間ぶち抜きで設置されている長方形のボールプールを見て、美実は一瞬、気が遠くなりかけた。
「みーちゃん! みーちゃんも、どぼーん!」
「う、うん……、わ~い。入らせて、貰っちゃおう、かな~?」
「さくちゃんも!」
「はいはい、よっ、と」
「あのっ、桜さん!?」
美実が引き攣った顔と棒読み口調で言葉を返しているうちに、桜が着物の裾をからげながら、さっさと階段を上って勢い良くボールプールに飛び込んでしまった。そしてかなり年齢差がある女二人が、美実の目の前で自由に泳ぎ始める。
「ざぶーん! くろーる!」
「それじゃあ、こっちは背泳ぎしちゃうわよ? そうれっ!」
(ちょっと待って!? 美子姉さん程着慣れていないから、正確なところは分からないけど、何か如何にも高そうな着物がしわくちゃに!! 皆さん、黙って見てて良いんですか? 誰か止めないの!?)
恐る恐る階段を上ってからプールに足を入れた美実が、狼狽しながら周囲を見回したが、室内に控えていた何人かの使用人は、縋る様な彼女の視線から不自然に目を逸らした。それで色々諦めた美実は、プール内でゴロンと転がり、それから暫く浮遊感を疑似体験する事に専念したのだった。
「うふふ、久しぶりに良い汗かいちゃったわ。たまには良いわねぇ」
「うん! おもしろーい!」
(何か疲れた……。全然動いてないけど、色々非日常過ぎて、精神的に疲れたと言うか何と言うか)
そして昼時になってから全員で別の座敷に移動し、加積とも合流して昼食を食べ始めた。
全力でボールを跳ね上げながら泳いでいた二人とは対照的に、美実はボールの上に転がってボケっと天井を眺めていただけだったが、疲れた様に小さく溜め息を吐き、その様子を座卓の向こう側から眺めた加積が、苦笑いしながら声をかけてくる。
「美実さん、今日はお疲れ様。妊婦なのに、大丈夫だったかな?」
「はい、実際に泳いだ訳ではありませんし、ボールの上で寝ていただけですから」
「そうか。まあ、気分転換になったなら良かったが」
「はい……、十分に非日常的な体験ができました」
「物は言いようだな。さすがは作家さんだ」
そう言って穏やかに笑いつつ、茶碗を持ち上げた加積を見て、美実はこの間すっかり忘れていた、美樹と一緒にここに来た目的を思い出した。
(危ない危ない。予想外の事で度肝を抜かれて、うっかり忘れて帰る所だったわ。加積さん達のご機嫌も特に悪く無さそうだし、話を切り出すチャンスかも)
そして世間話をしながら様子を窺い、食事も滞りなく終わったところで密かに気合を入れた美実は、徐に話を切り出した。
「その……、私事の上、勝手な事を申し上げる事になって、誠に申し訳ないのですが、実は加積さんと桜さんに、お話ししなければならない事がございまして……」
妙にへりくだった口調で言い出した美実に、この屋敷の主夫婦は揃って首を傾げた。
「ほう? 何の事かな?」
「そんなに恐縮しなくっても良いのよ? どうかしたの?」
「その……、この前こちらに最初にお電話した時に、小野塚さんとのお見合いの話をお世話して下さったのが、加積さんご夫妻だと伺ったものですから」
そこまで言われてピンとこない二人では無く、口々に笑いを堪える口調で言い出した。
「そこまで恐縮する事は無いぞ? 美実さん」
「そうよ。単に和真に魅力が無かったってだけの話なんだから」
それを聞いた美実は、慌てて両手を振って否定した。
「いえいえ、滅相もありません! 小野塚さんは、私には勿体ない位の人ですから!」
「それならもう少し詳しく、和真との話を断る理由を聞かせて貰えるかな?」
そうにこやかに加積に尋ねられた美実は、神妙に話し出した。
「はい。あの……、今更な話なんですが、お腹の子供の父親とよりを戻したと言えば、一番近いと言いますか……」
「あら、そうなの? それじゃあ、その人と結婚するわけね?」
「いえ、当面は入籍とかは……。でもお互いに納得できる形で、一緒に生活していこうと思っていますので。あの、本当にお手数おかけして、申し訳ありませんでした!」
「みーちゃん?」
そう言って深々と頭を下げた美実を、美樹は不思議そうに眺め、加積と桜は苦笑しながら宥めた。
「そうか。それなら元の鞘に収まったという事で、結構な事じゃないか」
「そんなに畏まらなくて良いのよ? 元々美実さんに和真を紹介したのは美子さんから話を聞いて、お腹の子供の為にも父親役が必要だろうと、年寄りが気を回しただけなんだから。よりを戻したなら、それに越した事は無いもの」
「そう言って頂けると恐縮です」
思わず顔を上げた美実と目を合わせた桜は、ここで穏やかに微笑んだ。
「本当に、私達や和真の事は気にしないで。確かに残念だけど、和真にはちゃんと別な女性を紹介するから、心配しないでね?」
「ありがとうございます」
そして再度頭を下げた美実は、心の底から安堵した。
(やっぱりちょっと変わってるけど、夫婦揃って良い人達だわ。ちゃんと筋を通して良かった)
そこで安心したのも束の間、美実にとって予想外の出来事が起こった。
「失礼します。こちらにおいでと伺いましたが……、美実さん?」
「お、小野塚さん!?」
襖を引き開けていきなり姿を現した和真に、美実は激しく動揺した。対する和真も不思議そうな顔になったものの、冷静に一礼してから加積の側に足を進める。
「お手数おかけして、申し訳ありません。こちらが、先程お話しした書類です。至急内容を確認の上、署名捺印をお願いします」
「ああ、すっかり忘れていた。さっき電話で来ると言っていたな。笠原、悪いが実印を持ってきてくれ」
「今お持ちします。少々お待ち下さい」
そして和真が持参した封筒の中身を取り出し、加積が目を通し始めたのを見て、美実は狼狽しながらも必死で考えた。
(うわ、どうしよう。さすがに心の準備が……。でも、また小野塚さんに連絡を取って時間を取って貰うのも悪いし、この機会に思い切ってお話ししよう!)
そう覚悟を決めた美実は、和真に向き直って声をかけた。
「あの、小野塚さん! 今、少々お時間、宜しいでしょうか?」
「はい。構いませんよ? 目を通して頂くのを、待っている所ですし」
「あのっ! すみません、ごめんなさい!」
「え? どうかしましたか?」
笑顔で了承した途端、いきなり頭を下げて謝罪してきた美実に、和真はさすがに面食らった。しかし少々テンパり気味の美実は、頭を下げたまま言い募る。
「今まではっきり言って無かった私が全面的に悪いのですが、私、小野塚さんと結婚を前提にしたお付き合いはできません!」
「あの、美実さん?」
「やっぱり子供の父親が一番好きなのが分かりましたので、入籍しなくても彼を人生のパートナーとして、生きていく事にしました! 小野塚さんみたいな優秀で人格者な方に優しく接して頂いて、本当に感謝しています。そして本当に申し訳ありません!」
「取り敢えず、頭を上げませんか?」
「小野塚さんの幸せを、陰ながら応援してますので! それでは失礼します、お元気で!」
和真の問いかけを半ば無視したまま、美実は頭に思い浮かんだ事をそのまま口にした。そして最後に叫ぶやいなやガバッと上半身を起こし、バッグを引っ掴んで後ろを見ずに駆け出す。
「あ、ちょっと、美実さん?」
「走ると危ないぞ?」
一目散に逃げ出した美実の背中に、加積夫婦が当惑しながら声をかけたものの、彼女がそのまま廊下の向こうに姿を消してしまった為、二人は美樹に視線を向けて苦笑した。
「あらあら、美樹ちゃん。叔母さんにすっかり忘れられちゃったわね」
「さすがに玄関まで行ったら、思い出して引き返して来るだろうから、ちょっと待っていような?」
そんな大人達の様子を、今まで無言で観察していた美樹は、小さく首を傾げながら問いを発した。
「まーちゃん、ふりー?」
それを受けて加積と桜が、にやにやと笑いながら和真に視線を向ける。
「うん? そうだな、一応フリーなんじゃないか?」
「たった今、盛大に振られたばかりですからねぇ」
「あのですね……」
微妙に和真が顔を顰めながら言い返そうとしたところで、何故か美樹が立ち上がり、スタスタと彼に歩み寄った。
「美樹ちゃん、どうかしたか?」
「和真に何か用があるの?」
その問いかけを無視した美樹は、正座したままの和真の顔を両手で押さえながら顔を近付け、彼の口に自分の口を、衝突寸前の勢いで重ね合わせた。
「っ!?」
「え?」
「はぁ?」
そして当事者の和真は勿論、周囲の大人達が何事が起きたのか分からないまま戸惑った声を上げると、真顔のまま顔を離した美樹が振り返り、加積達に向かって淡々と宣言する。
「つば、つけた。よしきの」
「…………」
そして無反応な周囲を見回した美樹は、再度要求を繰り出した。
「かづちゃん、さくちゃん、ちょーだい?」
今度はにっこり笑ってのおねだりモードだったが、そこで一気に室内が爆笑に包まれた。
「……ぶ、ぅわっはっははははっ!! かっ、和真、お前っ! 二歳児に唾を付けられたぞ! 売約済みだなっ!!」
「あはははははっ! 凄いわ、光源氏も真っ青ね! これからどうとでも好きなように、育てられるわよ!」
「桜、ちょっと待て。とても美樹ちゃんが、他人の思うように育てられるとは思わないが?」
「寧ろ和真の方が、美樹ちゃんに調教されそうよねっ! 笠原! 早く和真と美樹ちゃんのツーショット写真を撮って! 和真の引き取り手が現れたと知ったら、親御さんが泣いて喜ぶわ!」
「それは止めておけ。そんな写真を送ったら、女遊びが過ぎてとうとう幼女趣味に走ったのかと、一家揃って泣くに決まってる」
「そっ、それもそうねっ!」
「…………」
主夫妻が爆笑し、居合わせた使用人も堪え切れずに口元を押さえて顔を引き攣らせる中、和真は憮然とした顔で無言を貫いた。美樹がそんな和真を不思議そうに眺めていると、慌ただしい足音と共に「ごめんなさいぃ~!」という泣き声とも叫び声とも聞こえる声と共に、美実が座敷に飛び込んで来る。
「美樹ちゃん、一人で帰りかけてごめんね! うっかり者の叔母さんを許してぇぇっ!」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。どうどう。ママ、ないしょ」
「うわあぁぁん、ありがとう、美樹ちゃん! こんな事美子姉さんに知られたら、確実に家から叩き出されるもの!」
涙目で抱き付いて来た叔母の背中を軽く叩きながら美樹が宥めると、美実が歓喜の声を上げた。そして騒がしくしてしまった事に気が付いて、慌てて桜達に頭を下げる。
「あ、すみません、お騒がせしました。今度こそ失礼します」
「ああ、帰りも遅らせるから。美子さんに宜しく」
「またいらっしゃいね」
「はい、ありがとうございます」
「かづちゃん、さくちゃん、まーちゃん、さよーならです」
「おう」
「さようなら」
そして美樹の手を引いた美実は、室内の笑いを堪える微妙な空気には気が付かないまま、帰って行った。そして二人が廊下に出て行くと、加積が早速、この間茫然としていた和真をからかう。
「いやはや……、モテモテだなぁ、和真。あんな若い子にまで好かれるとは、羨ましいぞ」
「今の今まで知らなかったけど、守備範囲が随分広かったのねぇ。知らなかったわぁ」
桜も夫と調子を合わせて冷やかす様に声をかけると、和真は剣呑な目つきで乱暴に手の甲で口を拭い、普段の温厚な表情と口調をかなぐり捨てて、二人相手に凄んだ。
「うっせえぞ、このくたばりぞこない共が。その干からびた口を閉じろ」
しかし当然それ位で動揺する二人では無く、余計に嬉々として応じる。
「……ほう? これまた、随分珍しい物が見られたな」
「笠原! すぐに和真の写真を撮って! 普段善人顔の和真が、こんなどこからどう見ても悪人面になってるなんて、滅多に無いわよ! 実家の皆さんに教えてあげたら『こんな顔もできる様になったのか』と、感激してくれる筈だから! ほら、早く早く!」
「桜、それは止めておけ。一体何があったのかと、見た人間全員が戦慄するに決まってる。あいつらの胃壁と髪を、これ以上薄くさせるのは気の毒だ」
「つまらないわぁ」
如何にも残念そうに告げる桜を横目で見ながら、ここで加積は和真に確認を入れた。
「それで? お前はどうする気だ?」
完全に面白がっている顔付きに、和真は盛大に舌打ちしてから吐き捨てた。
「どうもこうも。ここまでコケにされて、俺に黙って引き下がれと?」
「別に、何も言ってはいないが?」
「じゃあ勝手にさせて貰う」
「まあ、怖い」
くすくす笑う桜を無視してスマホを取り出した和真は、迷わず電話番号を選択して電話をかけた。
「菅原か? 俺だ。第三段階に入れ。……あぁ? 当たり前だろう。何度も言わせるな! さっさと進めろ!」
らしくなく電話の向こうに向かって怒鳴りつけると、和真は怒気を潜めてスマホをしまい、加積に向かって一礼した。
「それでは失礼します」
そして表面上は落ち着き払ってその場を去ったものの、和真が美実と美樹に対して、相当気分を害している事が丸分かりであった為、加積は桜と顔を見合わせて笑ってしまった。
「美子さんも大物だが、美樹ちゃんはそれ以上だな」
「本当ね。あの和真を欲しがるなんて」
それから暫く二人の笑いは収まらず、周りの使用人達は戦慄しながら、その様子を眺める羽目になった。




