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第30話 ある一つの決着

 年が明けて、そろそろ美実の腹部が明らかに膨らんでいると分かる状態になってからも、藤宮家では週に一回の恒例行事が継続していた。


「美実、小早川さんから届いたんだけど、どうかしら?」

 軽いノックの音に続いてドアから顔を覗かせた美子に向き直り、その手にしている半紙に視線を向けた美実は、軽く眉を顰めただけで素っ気なく告げた。


「……駄目」

「そう。じゃあいつもの様に、お返事しておくわね?」

「お願い」

 そう言ってすぐ机に向き直り、仕事を再開した妹を見て、美子は溜め息を吐きたい気持ちを堪えながら元通りドアを閉めた。そして自分達夫婦の部屋に入ると、机で何やら会社から持ち帰った仕事をしていた秀明が、振り返って尋ねてくる。


「美子。どうだった?」

「相変わらずよ」

「……そうか」

 素っ気なく答えた妻を見て、秀明は思わずうんざりした表情になった。すると美子が、憤懣やるかたない様子で文句を言い始める。


「全く! 甲斐性無しにも程があるわよ、あのヘタレ野郎! ちょっと顔と頭が良いと思って、自惚れてるの!?」

「そう怒るな。淳もあいつなりに頑張っている筈だし」

 思わず秀明が声をかけて宥めたが、その途端彼女が般若の形相で言い返した。


「結果が出せなきゃ同じよね? まさかあなた、叩き出した結果じゃなくて、努力する過程が大事だとか、世迷い言をほざく気じゃ無いわよね!?」

「いや、そういう事を言うつもりは無いが……」

「あああっ!! 本当に腹が立つっ!! 今回は二重に×印を書いて送ってやるわ! あなた、その机を貸して!」

「……ああ、分かった」

 色々諦めた秀明が書類を纏めて立ち上がると、美子は如何にも不機嫌そうな顔のまま、机の上に下敷きや朱墨液を揃え始めた。そんな彼女に背を向けて、居間でゆっくり書類に目を通そうと廊下に出た秀明は、渋面になりながら無意識のうちに呟く。


「あっさり気に入る名前を考えたら気に入らないが、あまりにも考えつかないのも気に入らないか……」

 この事態の収拾をどう付けるべきかなど、全く思い付かなかった秀明は、心底うんざりしながら歩き出したのだった。



 ※※※



「離婚調停ですか?」

 直属の上司である民事部門統括部長に呼ばれて出向いた淳は、予想外の単語を聞いて少し意外そうな顔つきになった。それに頷いた梶原が、事情を説明する。


「ああ。山本君に引き続き、小宮君までインフルエンザで寝込んでな。他にも休んでいる者がいて、今日家裁に回せる人員がいないんだ。専門外だが、携わった事はあるだろう?」

「はい、勿論です。こちらに入ってからも、全分野を一通り経験していますので」

「必要な書類は山本君が纏めているし、争点も申立人と詰めている。念の為、今日の午後からの調停前に申立人と軽く打ち合わせしてから、家裁に出向いて欲しいんだが」

 そう依頼された淳は、確かに専門外の事ではあったが、大して気負うことなく頷いた。


「そうですね……。今日は外に出る用事は無いですし、比較的時間に余裕がありますから大丈夫です。行って来ます」

「頼む。それではこれに目を通しておいてくれ」

 そう言われながら渡された書類を受け取り、早速準備を始めた淳だったが、この事がここ暫くの心労で荒み切った淳の心に、決定打を与える事となった。


「……部長、戻りました」

「ああ、小早川君。今日は急に頼んで悪かったな。どうだった?」

 夕方、事務所に戻った淳が真っ先に梶原の机に挨拶に向かうと、彼は若干心配そうに首尾を尋ねてきた。それに淳は若干暗い表情を見せながらも、淡々と報告する。


「こちらの申立人の主張は、十分調停委員に伝わったとは思いますが、やはり双方の主張の乖離が著しく……。この事例は長引くのは必至かと。それは相手方の代理人も同意見でしたので、今日の協議内容は山本さんにきちんと引き継ぎます」

 それを聞いた梶原は、満足そうに頷いた。


「そうか、ご苦労だった。やはり慰謝料とか財産分与が問題か?」

「それも若干問題ですが、一番問題なのは親権の方ですね」

「そう言えば子供が一人いたな。養育費とか面会交流に関してか?」

「いえ……、どちらも子供の引き取りを拒否しています」

 端的に淳が告げると、梶原は無言で眉根を寄せてから、改めて淳に労いの言葉をかけた。


「……分かった。それでは報告書の作成を頼む。今日は本当にご苦労だった」

「失礼します」

 一礼して上司の前から下がり、自分の席に着いた淳は、早速険しい表情のまま報告書の作成を始めた。しかし一心不乱に三十分程文章を打ち込んでから、力尽きた様に机に突っ伏す。


「…………」

「小早川、どうかしたのか? お前もどこか具合が悪いなら、早く帰った方が良いぞ? インフルエンザが流行ってるんだから」

 突っ伏したまま微動だにしない後輩を心配して、近くの机の森口が歩み寄り、肩を叩きながら声をかけた。それに淳が押し殺した声で反応する。


「今日……、離婚調停の場に出向いてきました」

「ああ、そう言えばそっち担当の連中、今日は何人も休んでたな。専門外の事例で、ちょっと疲れたか?」

 そう推測を口にした森口だったが、淳は突っ伏したまま呻く様に続けた。


「世の中、馬鹿が多いとは思っていましたが、俺以上の馬鹿って結構いるんですね……」

「はぁ? お前は馬鹿じゃ無いだろう?」

「馬鹿ですよ。現に女に愛想尽かされかけて、子供ごと他の男に取られそうじゃないですか」

 顔を伏せたままぼそぼそと呟いてくる淳に反論できなかった森口は、僅かに顔を引き攣らせつつ再度穏やかに声をかけた。


「……どうした。いつにもましてネガティブだな。やっぱりお前、精神的に色々来てるぞ? やっぱりさっさと帰った方が良くはないか?」

 しかしここで、色々振り切れてしまったらしい淳が勢い良く椅子から立ち上がり、森口に組み付きながら錯乱気味に叫んだ。


「本当に何考えてんだ! 少なくとも一度は惚れ合って結婚して、子供作ったんだろ!? 何が『親戚筋に格好がつかない』だ? ふざけんな! どうせお前らの様な頭スッカスカのカップルなんざ、キャッキャウフフな端から見たら相当恥ずかしくて馬鹿馬鹿しい披露宴盛大にぶちかまして、招待客から巻き上げたご祝儀で、自分達は楽しく過ごしたんだろうが!! 別れるなら全額きっちり返した上で、一軒ごとに二人揃って出向いて詫びを入れやがれ!」

「うおっ!? ちょっと待て小早川、落ち着け!!」

「分かれる時まで、他人に迷惑かけんなよ!! せめてすっぱり後腐れなく、自分達だけで静かに幕を引きやがれ! しかもちゃんと誕生を祝って、これまで大事に育ててきたんだろ!? その子供の前で、言っていい事と悪い事の区別もつかねえのかアホンダラ!!」

「お前……、一体家裁で何があった……」

 宥めるのを半ば諦めながら森口が尋ねてみたが、ここで部長席から梶原が血相を変えて走り寄り、会話に割り込んだ。


「ちょっと待て、小早川! お前、調停の場でそんな事を喚いてきたわけじゃあるまいな!?」

「言うわけありません! 怒鳴りつけたかったですが、我慢しましたよ!! プロですから!」

「そうか。それなら良いが。いや、あまり良くは無いが……、どういう事だ?」

 険しい表情で梶原から問われた淳は、幾らか理性を取り戻し、森口の上着から手を離して沈鬱な表情で語り出した。


「調停している夫婦、もう別居しているんですが……。二人とも子供を引き取りたくないって言って、小学生の子供を一人置いて家を出たらしいんです」

「え? じゃあどちらかの祖父母が引き取ったとか?」

 怪訝に思ったらしい森口が思わず尋ねたが、淳はそれに首を振った。


「それが、実家に連絡して自分の親が引き取ったら、自分が面倒見ないといけないと思ったらしく、双方実家に連絡しなかった上、子供に連絡はするなと言い聞かせて出て行ったそうです」

「はぁ? 何だそれは?」

「それで両親が出て行ってから半月以上、小学四年の子供が一人で家にあったお金で食べ物を買って、自分で掃除や洗濯をして生活していたそうです。ですが手持ちのお金が底をついて、子供が学校の担任に相談した為、教育委員会と児童相談所の知るところとなりました。そして学校が慌てて保護者に連絡を取ろうとしても、登録された電話番号には繋がらず。連絡順位の低い両親の実家に連絡がいきました」

 そこで淳が話に一区切り付けると、この間、唖然として話を聞いていた森口が、怒りの形相で問い質した。


「ちょっと待て! それだと育児放棄だし、明らかに児童虐待と見なされるだろうが!?」

「そうですね。それが発覚したのが、調停開始直前の時間帯だったらしく、家裁での調停中に聞かされました。それからは見苦しいにも程がある罵り合いでした」

「罵り合いって?」

 何気なく尋ねた森口だったが、淳が暗い表情でぼそぼそと語り始めた為、すぐに後悔した。


「『あの時、まだ子供は欲しくないって言ったのに。責任取ってあんたが面倒みなさいよ』とか、『誰にも言うなと言ったのに、やっぱりあいつはお前に似て低能だな』とか、『私に似たら優しくて気が利く子供になった筈よ。要領が悪いのはそっちに似たんじゃない』とか、『十分お前に似て陰気で愚鈍だろうが』とか。一応、会話は全て記録して来ましたから、ご覧になりますか?」

「……いや、いい。相当見苦しくて、聞くに堪えない内容だったらしいのは分かった」

「そうですか……」

 そこで叫んだ事で気力が途切れたのか、淳が静かに元通り椅子に座った。そして項垂れた彼が、呻く様に呟く。


「本当に何なんだよ。仮にも十年以上、夫婦親子としてやってきたんだろ? それがあんなにあっさり『要らない』って言えるなんて……。子供はお前らの玩具やアクセサリーじゃ無いんだぞ? こっちは子供を取られるかどうかの瀬戸際だって言うのに、何であんなろくでなし夫婦の言い分を一から十まで、くそ真面目にに聞かなきゃならないんだ……」

「小早川、気持ちは分かるが」

「それが仕事だからな。しかし『子供を取られるかどうかの瀬戸際』とは穏やかでは無いな。どういう事か説明して貰おうか、小早川君」

 困惑しながらも再度後輩を宥めようとした森口だったが、ここで背後からかけられた声に、盛大に顔を引き攣らせながら振り向いた。


「所長。あの……、これはですね」

 しかしこの事務所の所長である榊は森口には構わず、梶原に書類を差し出しながら尋ねる。

「梶原君、これを持って来たんだが、その穏やかでは無さそうな事情は、君も把握済みなのか?」

「いえ、全く。小早川?」

「お話しします。実は結婚を考えていた恋人がいたんですが、彼女と去年の夏に顔を合わせた時に……」

 そして直属の上司と、職場の最高責任者から揃って鋭い目を向けられた淳は、観念して美実と揉めた内容の一部始終を白状した。


「……今現在は、こんな状況です」

「そんなに前からぐだぐだやってたのか? 弁護士なら他人のトラブルを解決する前に、自分のそれを解決しろ。それ以前に、プライベートで揉めるな」

「部長の仰る通りです」

 全てを聞き終えてから渋面になって苦言を呈した梶原に、淳は下手な弁解や反論はせず、大人しく頭を下げた。梶原は困った顔をしながらもそれ以上は言わず、ハラハラしながら様子を見守っていた森口と同様、榊の様子を窺う。

 その榊は黙って考え込んでいたが、周囲からの視線を感じたのか、淳に目を向けながら口を開いた。


「言いたい事は色々あるが、梶原君が纏めて言ったので良いとして……。君が考えた名前は、相手にそんなに気に入って貰えないのか? 因みに、どんな名前を考えたんだ?」

「……これです」

「失礼、見せて貰うよ」

 不思議そうに榊が尋ねてきた為、淳はポケットから手帳を取り出し、名前を書き連ねたページを開いて差し出した。それを榊が受け取り、梶原も横から覗き込んだが、どちらも無言のまま怪訝な顔付きになる。


「随分と、似たような名前が並んでいるが。何か理由があるのか?」

「彼女の家では、代々『美しい』と書いて『よし』と読ませる名前を付けていまして。因みにこちらに書いてあるのは、彼女の母や祖父、それに加えて叔母や大叔母、大叔父達の名前です。名前が重複しないように書き出しておいたので」

「ほう? そうなのか」

 説明しながら淳が榊の手にある手帳のページをめくると、梶原は「良くここまで考えたな」と呆れ顔で呟いたが、榊は尚も不思議そうに尋ねた。


「ところで、その彼女は一人娘なのか?」

「いえ、五人姉妹の三番目です」

「五人姉妹とは凄いな。兄弟はいないと?」

「はい」

「だが一般的に考えて三女なら、彼女が婿を取る可能性は少ないんじゃないのか?」

「ええ、現にもう、一番上の姉と結婚した私の友人が、養子縁組して家に入っていますし」

 所長はどうしてそんな事を聞くのかと、淳は不思議に思いつつも答えていたが、そんな彼を見ながら榊は事も無げに告げた。


「なんだ。それなら生まれる子供の名前は、別にその家の慣習に従う必要は無いんじゃないか?」

「……え?」

 完全に予想外の事を言われた淳が固まっていると、更に榊が尋ねてきた。


「ところで君の相手の名前は何と言うんだ?」

「『美しい』に『真実』の『実』で、『よしみ』と読みます」

 それを聞いた榊は、頭の中でその漢字を思い描いたのか、直後に首を傾げつつ尋ねてきた。


「それだと文字だけ見た初対面の人は、最初から『よしみ』と言わずに『みみ』とか呼ばないだろうか?」

「はぁ……、確かにそういう場合が多いかもしれませんが……」

 まだ若干理解が追い付いていない淳が、呆然としながら頷くと、ここで榊はこれまで興味津々で様子を窺っていた、周囲のスタッフ達に声をかけた。


「一つ聞くが、君達は『みみ』と聞いて何を連想する?」

 その問いかけに、彼らは互いの顔を見合わせてから口々に意見を述べ始めた。


「『みみ』ですか?やっぱり兎でしょうか?」

「やっぱりそうですよね~」

「私はパンですかね……」

「え? どうしてパンなんですか?」

「パンの耳」

「……なるほど」

「俺はミミズ」

「何でミミズなんですか! ありえませんよ!」

「そうか?」

「私は『はな』でしょうか?」

「どうしてだ?」

「耳と鼻は繋がってますし?」

「ああ、そっちの鼻か。俺は咲く方の花かと思ったぞ」

 そんな風に周囲ががやがやと好き勝手な事を言っていると、それを横目で見ながら榊が再度淳に尋ねた。


「皆、色々意見があるようだが、要はちょっと読みにくいし、色々連想させる名前だと言えないだろうか? それで小さい頃、嫌な思いをしたとか、君は本人から何か聞いてはいないか?」

 そう言われた淳は、何かの記憶が引っかかった。


(そう言えば秀明に引き合わされた頃、美実が自分の名前について、何かネガティブな事を言ってたような……。それに自分の名前に関して以外にも、色々言ってた記憶が……。何て言っていた?)

 黙り込んで思考の迷路に入り込んだ淳だったが、そんな彼に向かって榊が冷静に言い聞かせる。


「その場合、子供に自分と似た名前を付けるのは、抵抗があるんじゃないだろうか? これはあくまでも、私個人の考えだが」

「所長!」

「……どうした?」

 微動だにしないまま榊の話を聞いていた淳だったが、急に一声叫んだと思ったら、両腕を広げて勢い良く彼に抱き付いた。それを見た周囲が途端に話を止めて顔を引き攣らせる中、親子程の年の差がある榊に抱き付いたまま、力強く宣言する。


「一生、所長に付いていきます。何でもお申し付け下さい」

「うん、……まあ、ほどほどにな。取り敢えず、一つ一つの仕事を頑張ろうか」

「はい」

「皆も仕事に戻ってくれ」

 榊が穏やかに声をかけると、淳は素直に腕を離して椅子に座り、他の者も淳に声をかけながらその場を離れた。


「小早川さん、頑張って下さいね」

「気合い入れろよ、全く」

「すみません。取り乱しました」

 そして平常心と余裕を取り戻した淳は、それからは一心不乱に今日の報告書を仕上げながら、頭をフル回転させた。


(思い出せ……。あの時、美実は何て言っていた?)

 そして、報告書が仕上がる直前にある事を思い出した淳は、途端に笑顔になってレポート用紙を引き寄せ、一枚ずつ手早く書き込んだ。それから再度報告書の作成を進め、完成すると同時に梶原の机へと向かう。


「部長、こちらが本日の報告書になります」

「ああ、目を通しておく。お疲れ」

「お先に失礼します」

 その時、梶原は部下の顔色が先程とは比べ物にならない位、生気に満ち溢れている事に気が付いたが、余計な事を言って引き留めたりはしなかった。


 その日、藤宮家では女性陣だけで夕飯を済ませ、寛いでいた時に、門のインターフォンの呼び出し音が鳴った。

「はい、どちらさまでしょうか? ……はぁ?」

「美子姉さん、どうかしたの?」

 来客に応対した姉が変な声を上げた為、美野が不思議そうに尋ねた。すると美子が送話口を押さえながら振り向き、苦々しい口調で告げる。


「門の所に小早川さんが来てるのよ……。取り敢えず美実を呼んでお茶を淹れるから、あなた達は門を開けて小早川さんを入れて、客間に通しておいて頂戴」

「家に上げるの!?」

 美幸が驚いた声を上げたが、それを聞いた美子は不敵に笑った。


「なんだか随分、自信ありげな口調だったしね。玉砕したら叩き出すから、その時は手伝ってね?」

「はい……」

「お出迎えに行って来ます」

 そそくさと居間を後にした美野と美幸は、廊下に出てから何とも言い難い顔を見合わせた。


「もう! どうしてこんな時に限って、お父さんもお義兄さんも帰りが遅いのよ!」

「仕方が無いわ。もう、なるようにしかならないわよ」

 そして半ば諦めた二人は、これ以上状況が悪化しない様にと切実に願いながら、淳を迎えに出たのだった。


「えっと……、こんばんは」

「ああ、久しぶり」

 客間で久しぶりに座卓を挟んで向かい合った二人は、硬い表情で軽く頭を下げた。そんな二人の前にお茶を出した美子は、面白く無さそうに淳に告げる。


「それじゃあ、横で圧力をかけたとか難癖を付けられるのは嫌だし、私は席を外しているから。帰る時は声をかけて頂戴」

「分かりました」

 神妙に淳が頭を下げるのを見た美子は、最後にチラリと妹を見てから襖の向こうに消えた。それを確認してから、淳がジャケットのポケットから何かを取り出し、折り畳まれたそれを座卓の上で広げる。


「じゃあ早速、これを見て欲しいんだが」

「何?」

「土曜日じゃないが子供の名前を考えたので、今週分として持って来た」

「それは構わないけど……」

 僅かに当惑した顔付きになった美実の前に二枚のレポート用紙を押しやった淳は、そこにマジックで書かれた内容について説明した。


「それで、こっちが男の名前で淳志きよし。こっちが女の場合の淳実きよみだ」

 そろ二枚の用紙を少しの間無表情で眺めた美実が、冷静に問いを発した。

「……どうしてこの名前にしたのか、理由を聞いても良い?」

 それに淳が、小さく頷いてから答える。


「ああ。付き合い始めたばかりの頃、自分の名前について話をしていた時、色々愚痴ってただろう?」

 それを聞いた彼女は、皮肉っぽく肩を竦めながら答えた。

「まあね。両親が色々考えてくれたのは、ちゃんと理解しているけど」

「その時に俺が、何気なく聞いたんだよな? お前が散々愚痴を言った後に、『それならお前が自分の子供に名前を付けるとしたら、どんな名前にするんだ?』って」

 それを聞いた美実は、軽く目を見張った。


「……覚えてたの?」

「正直に言うと、今日まですっかり忘れてた。悪い」

「でしょうね。覚えてたら、こんなに長くかかる筈無いもの。それで?」

 小さく溜め息を吐いた彼女が先を促すと、淳は真顔で続けた。


「俺の記憶違いで無かったら、こう言ってたと思うんだが。『どんな名前でも良いかと思うけど、どうせなら好きな人から一字貰って付けたいわね。それなら子供の名前を書いたり呼んだりする度に、好きな人との子供なんだっ再認識して、それだけで幸せな気持ちにならない?』って」

「そう言ったら『普段はすました言動をしている癖に、やっぱり女子高生で少女趣味全開だよな』って鼻で笑った事は覚えてる?」

「いや、確かにらしくなく可愛い事を言うなとは思ったが、鼻で笑ったつもりは…………、そう感じたなら悪かった」

「当然よ」

 弁解しかけて鋭い視線を向けられた淳は、素直に謝った。それに美実が素っ気なく断言してから、淳が結論を口にする。


「それで、その時の事を思い出したから、この名前にしてみたんだ。お前は俺の事が好きだし、俺の名前は漢字一字だし。読み方を変えるにしても、何か他の字を付けないと、親子で同じになって色々面倒だから」

「『好きだし』って、なんで断言するわけ?」

 少々呆れ気味に美実が口を挟んだが、淳はそのまま話を続けた。


「それで淳は『きよし』とか『きよ』とも呼ぶから、それにこころざしを高く持てる様に『志』と、実を結ぶ人生を送れる様に『実』を付けてみた。これでどうだ?」

 そう言って真剣な顔で意見を求めてきた淳から僅かに視線を逸らしつつ、美実は呟く様に感想を述べた。


「まあ……、悪くは無いんじゃない?」

「本当か!?」

「うん、これで良いわよ」

「そうか……」

 喜色を露わにして問い返した淳に、美実が少々照れくさそうな表情になって視線を合わせながら頷くと、彼は一言漏らしてからいきなり力が抜けた様に座卓に突っ伏した。


「ちょっと! どうしたのよ!?」

「すまん。安心したら、一気に疲れが出た」

「何をやってるのよ……」

 呆れて溜め息を吐いた美実だったが、ここで言っておかなければならない事を思い出して、控え目に声をかける。


「あの、一応言っておくけど」

「分かってる。取り敢えず子供の父親として藤宮家には認めて貰うが、すぐに入籍云々についてどうこう言うつもりはない。寧ろずっと事実婚のままでも、良い気がしてきた」

「そうは言っても!」

 自分の台詞を遮って淡々と主張してきた淳に、美実は思わず声を荒げたが、ゆっくりと上半身を起こした淳が真顔で話を続けた。


「言っておくが、俺の立場が悪くなるからなんて、見くびった事は言うなよ? これでも事務所では若手ホープの一人なんだ。と言うか、色々な事例を扱う弁護士事務所なんだから、色々なタイプの弁護士が居たって構わないだろ」

「この間に何か色々、変に開き直っちゃった?」

「当たり前だ。この前お袋がやらかした事については、美子さんに詫びの入れようも無いし、俺から美実に『お袋と上手くやってくれ』なんて言うつもりも無い。もう放っておけ。そして、それはそれとして割り切れ。なるようにしかならないからな」

 淳がそうきっぱり言い切ったところで、美実が苦笑しながら応じた。


「……うん、そうね。後々、機会があったら、仲良くしてみる事にするわ」

「それで十分だ。それでだな」

 そこでスパーンという高らかな音と共に襖が引き開けられ、涙目の美幸と美野が客間に乱入してきた。


「うわ~ん! 子供の名前、無事決定おめでとう~! 大学が内部進学で本当に良かった! 本格的な受験だったら、気になって勉強が手に付かなくて落ちてたもの!」

「美幸! あんたはそれ位で落ちる様な勉強しかしてないの!? でも本当に良かったです! もう一時はどうなる事かと思って、かなり胃壁をすり減らした気がします!」

 どうやら最初からずっと、室内の様子を襖の向こうから窺っていたらしい二人の感極まった叫びに、少し良い雰囲気になりかけた所を邪魔されても、淳は気を悪くしたりはせず、逆に苦笑しながら謝罪した。


「あんた達……」

「はは……、二人には本当に申し訳無かったし、お世話になったね。改めて礼を言わせて貰うよ」

「それ位、どうって事ないですよ。あ、美子姉さんに知らせてこないと!」

「あ、それからお父さんと秀明義兄さんにも連絡しなくちゃ!」

 そんな風に途端に賑やかになった客間で、美実と淳は苦笑した顔を見合わせながら、心の中で安堵していた。


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