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第21話 それぞれの思案

 ひたすら忍耐力を試される不愉快な夕食を済ませた後、秀明はムカムカしたまま自分の部屋に行き、机に向かって持ち帰った資料に目を通していた。そこに後片付けを済ませた美子が、美樹を連れて部屋にやってくる。

「あなた、お茶でも淹れましょうか?」

「パパ、あ~そ~ぼ~」

 そう声をかけられた途端、秀明は険しい表情で振り返った。


「美子。さっきのあれは、一体何のつもりだ。ふざけるのもいい加減にしろ」

「……え?」

「パパ?」

 椅子を回転させて座ったまま向き直った秀明は、当惑している美子に対して文句を口にする。


「茶を出しに行ったきり話し込んで、三十分以上戻って来ない上に、美実ちゃんと一緒にすっかり籠絡されやがって。年長者のお前が、しっかり釘を刺さないと駄目だろうが」

 その一方的な物言いに、美子はさすがに面白くない表情になった。


「あら……、仲間外れにされたからって拗ねてるの? それなら『俺も話に混ぜてくれ』って、素直に言ってきたら良いじゃない」

「……何だと?」

「パパ? ママ?」

 美子がわざと皮肉っぽく言い返すと、秀明が剣呑な表情になる。常には見られない両親の姿に、美樹はオロオロとしながら二人の顔を交互に見やったが、当事者の二人は娘の事などそっちのけで言い合いを始めた。


「だいたい『籠絡』って何よ、人聞きが悪いわね。小野塚さんがなかなかの人格者だって分かったから、それに応じた対応をしているだけだわ」

「人格者だと!? 本気でそう思ってるなら、お前の目は腐ってるぞ!」

「なんですって!?」

 断言された美子が血相を変えたが、秀明は苦々しい顔付きで指摘してくる。


「それか、淳と比べたら誰でも良く見える程度に、目が曇ってると言えば良いか? 淳と奴の家族を毛嫌いするのはお前の勝手だが、誰でもそれよりはマシだと思い込むのは止めろ」

「五月蠅いわよ! 友人だからって一方的に肩を持つ方が、目が曇ってるじゃない!!」

「俺は別に、一方的に淳の肩を持ったりしてはいないが?」

「してるわよ! あんな不愉快なろくでなしの肩を持つ気!? そんな人間の顔なんか見たくないわ! とっとと出て行って頂戴!」

「……そうか。分かった」

 完全に頭に血が上った美子がムキになって叫ぶと、秀明はそれ以上反論はせず、無表情で小さく頷いた。そして無言で立ち上がって歩き出した彼は、寝室に入るなり一番小さいスーツケースを取り出し、その中に取り敢えず必要な物を、手早く詰め込んで立ち上がる。


「パパ?」

 この間、ドアの所で恐る恐る父親の様子を見ていた美樹が声をかけてきた為、秀明は彼女の前でしゃがみ込み、笑って頭を撫でながら言い聞かせた。


「美樹、ママの言う事を聞いて、いい子にしてろよ? そうじゃないと、俺みたいに叩き出されるからな」

「ちょっと! 嫌味のつもり!」

「事実だろうが」

 そのまま部屋にいた美子に素っ気なく言い放ち、秀明は美樹と美子の横をすり抜けて部屋から出て行った。

 秀明の姿が見えなくなってからも、美子は不機嫌極まりない表情をしていたが、そこで美樹が妙な事をしているのに気が付く。

「美樹、何をしてるの?」

 ごそごそと自分のおもちゃ箱を漁っていたかと思ったら、いきなり小走りでドアから出て行こうとする為、慌てて声をかけた。


「美樹? どこに行くの?」

「みーちゃん、へや!」

「ちょっと! 全くもう!」

 そして一声叫んで振り返りもせずに出て行った美樹の態度に、美子は益々腹を立てた。


「みーちゃん! みーちゃん!」

「美樹ちゃん、どうしたの?」

 トントンとドアを叩かれながら声高に訴えられた為、ドアを開けて美樹を招き入れた美実だったが、彼女が言い出した事を聞いて目を丸くした。


「ふえぇっ! パパ、プンプン、ママ、ガオー、でてけー! うぇぇっ!!」

「え? ……は、え、えぇえ!? ちょっと待って! まさか姉さん達が喧嘩して、お義兄さんが出て行くとかって、話になってるわけじゃないでしょうね?」

 姪の涙ぐみながらの訴えに、美実は一瞬戸惑ってから慌てて問い返すと、美樹は真顔になって端的に答える。


「ぷいっ、ばたん。でた」

「ちょっ……、それ本当!? 美子姉さん、何を言ったのよ? それにこの事を、お父さんは知ってるの!?」

 一人で狼狽し始めた美実に向かって、ここで美樹が小さなメッセージカードを突き出しながら頼んでくる。


「でんわ。みーちゃん、して?」

 その要求に、美実は益々混乱した。

「え、えぇ!? この状況下で、どこに電話するの? あ、お義兄さんに? ……じゃあないわよね、この番号は」

「さくちゃん」

 更に意味不明な事を言われてしまった美実は、とうとう床に両手を付いてがっくりと項垂れた。


「お願い、美樹ちゃん……。もう少し叔母さんに分かるように、教えて欲しいんだけど……」

「さくちゃん、ママ、ともだち。みーちゃん、ダメ?」

「……取り敢えず、かけてみるわ」

 涙目で見上げられた美実は、小さなカードを受け取り、そこに手書きされている番号にかけ始めた。そして緊張しながら反応を待つと、数コールで応答がある。


「はい、どちら様でしょうか?」

 その若い女性の声に、美実の緊張は否応なく高まったが、なんとか自分自身を落ち着かせながら話しかけた。


「夜分、申し訳ありません。藤宮美実と申しますが、そちらに『さくちゃん』という方はいらっしゃいますか?」

「『さくちゃん』、ですか?」

「はい、そうなんですが……」

 途端に訝しげな声が返ってきた為、美実は冷や汗をかきながら説明を続ける。


「本当に申し訳ありません。姪の代わりに電話しているのですが、どうやら姪が『さくちゃん』に話があるみたいで。あ、姪の名前は藤宮美樹と申しますが、お心当たりが無ければ切りますので」

「少々お待ち下さい」

 神妙に申し出た内容に、穏やかに返され、美実はおとなしく待ってみる事にした。すると一分も経たないうちに、先程とは違う女性の声が聞こえてくる。


「お待たせして申し訳ありません。あなたの姪御さんが言うところの『さくちゃん』こと、加積桜と申します。美子さんの妹さんですね? お噂はかねがね、お姉さんからお伺いしています」

 落ち着いた年配者らしい女性の声に、美実は安堵しながら申し出た。


「突然お電話して申し訳ありません。美樹ちゃんが話があるそうで。今、変わりますので、話を聞いて頂けますか?」

「ええ、大丈夫ですよ?」

 そこで美実は携帯を耳から離し、美樹に顔を向けた。


「美樹ちゃん、さくちゃんがお話ししてくれるって」

「うん!」

 そして嬉々として美実の携帯を受け取った美樹は、電話の相手に向かって興奮気味に話し出した。


「あのね? さくちゃん! ママ、プリプリドカーン、パパ、ゴゴゴゴゴーッ、。それで、それでね? ぷいっ、ばたん、なの! よしきね、みーちゃん……」

(あんな事言われても、聞いた方はわけが分からないだろうし、迷惑なんじゃないかしら? でも、今更電話を取り上げるわけにも……)

 美実がハラハラしながら、一生懸命喋っている美樹を見守っていると、なにやら話し終えた美樹が何回か頷いてから、振り返った。


「……うん、わかる」

 そして携帯を耳から離し、美実に向かって差し出す。

「みーちゃん。さくちゃん、おはなし」

「え? 私?」

「うん」

 多少不思議に思いながらも、美実はそれを受け取って耳に当てた。


「お電話、代わりました」

「美実さんと仰いましたよね? 美樹ちゃんの話の、大体の所は分かりました。恐らく、美実さんのお見合い相手の事について、美子さん達の間で意見の相違があって、それがエスカレートして夫婦喧嘩になってしまったんでしょうね」

「あれで分かるんですか!?」

 さらりと要点を纏めて言われた為、美実は本気で驚愕した。


(何、この人凄い! 美子姉さんったら、超能力者と知り合い!?)

 思わず埒もない事を考えてしまった美実だったが、その驚き具合が電話越しにも伝わったのか、桜が笑いを堪える口調で言葉を継いだ。


「種明かしをすると、美子さんから美実さんの話を聞いて、あなたに見合い相手を紹介して欲しいと、私が主人に頼んだの。だからあなたのお見合い相手の事も、前々から知っているのよ」

「ああ、そういう事でしたか」

(良かった。変な事を口走らないで)

 話を聞いた美実が、心底安堵していると、桜がおかしそうに話を続ける。


「可哀想に美樹ちゃん、相当びっくりしたみたいね」

「ええ。涙目で部屋に来られて、私も驚きました」

「でも逆に言えば美子さん達は、今まで喧嘩らしい喧嘩をしてこなかったって事でしょう? 私なんかしょっちゅう主人を怒鳴りつけているから、もう家の者は、夫婦喧嘩位では見向きもしなくなってるわ」

「はぁ……」

 どうにもコメントに困る事を言われて、美実は曖昧に返事をしながら、思わず考え込む。


(う~ん、この人、美子姉さんとはまた違った意味で、豪傑なのかしら? それで年が離れた類友とか?)

 するとここで、桜が落ち着き払った口調で提案してくる。


「今回はけしかけた私達にも責任の一端はあるし、あまりムキにならない様に今晩中に美子さんに言っておくわ。お義兄さんの方には、主人からピシッと言って貰いますから、安心して頂戴」

「そうして頂けると助かります。宜しくお願いします」

 心から安堵しながら頭を下げた美実は、思わず真顔になって美樹を見下ろした。


(うん、声の感じだとかなり年配って感じがするし、年上の人から諫めて貰った方が良いわよね。……って、まさか美樹ちゃん、そこまで考えて加積さんに電話したの?)

 先程とは違った意味で美実が驚愕していると、桜が穏やかに頼んできた。


「それでは美樹ちゃんに、もう一度代わって貰えるかしら?」

「はい、分かりました」

 そこで美樹に向かって、携帯を差し出す。


「美樹ちゃん、桜さんが、またお話ししたいって」

「うん。……さくちゃん? なぁに?」

 そして美実は、なにやら話している美樹を見るとも無しに眺めていたが、ふと引っ掛かりを覚えた。


(あれ? そういえば『加積桜』って名前、以前、どこかで聞いた事があるような……。どこでだっけ?)

 美子が結婚前に彼女にちょっかいを出された時、名前が出ていたのをすっかり忘れていた美実は、どうしても思い出せずに軽く顔を顰めた。


「……うん。だいじょーぶ。おやすみです」

 ぺこりと頭を下げて携帯を耳から離した美樹は、どうやら話し終えたらしく、美実に向かって携帯を差し出す。

「みーちゃん、ありがと」

「話はもう良いのね?」

「うん」

 そして携帯を受け渡ししたところで、ドアを軽くノックしてから、美子が現れた。


「美樹、そろそろお風呂に入るわよ?」

「あの、美子姉さん。お義兄さんは?」

 姉の顔色を窺いながら美実は慎重に尋ねてみたが、美子は全く表情を変えずに、素っ気なく口にしたのみだった。


「さあ……。知らないわ。ほら、美樹。行くわよ?」

「うん、おやすみです」

「おやすみなさい」

 神妙に挨拶した美樹に、美実は強張った笑顔で小さく手を振った。そして二人が廊下に出てから、深々と溜め息を吐く。


(うわぁ……、あれは相当怒ってる。ちょっと他人に意見して貰った位で、本当にどうにかなるのかしら?)

 不安しか覚えなかった美実だったが、現時点では自分にできる事が無いのもきちんと理解していた為、なるべく早く解決するように亡き母に頼んでおこうと、仏間に向かって歩き出した。



 同じ頃、淳は自宅に大量に届けられた代物を忌々しく見下ろしながら、実家に電話をかけていた。

「縁、この写真は何だよ?」

「あ、届いたのね? 見ての通り見合い写真よ。お母さんが『あんな家の娘に負けない結婚相手なんか、掃いて捨てる程居るわよ!』って血道を上げてて。もう会う人毎に、あんたとの縁談を持ち掛けてるわ」

「あれ以来、何も言ってこなかったから、少しは大人しくしてると思えば……。本当に、勘弁してくれ」

 思わず愚痴を零した淳に、縁は幾分同情する口調で答える。


「大人しくしてるわけ無いわよ。もう直接対峙したお姉さんなんて、すっかり天敵扱いよ?」

「お袋の奴、どうあっても美実との事を、認めない気だな……」

「それよりどうするの? 気に入った女性がいたら、二人で会う場を設けるけど。地元と東京在住、半々なのよね」

 取り敢えず促してみた縁だったが、淳はきっぱりと断りを入れた。


「縁、悪いが見合いをする気はない。お袋にも、金輪際話を持ちかけるなと言っておいてくれ」

 そんな弟の反応は予想が付いていた為、縁は諦めの口調で応じる。

「一応、私から言ってはおくけど……。言っても聞く耳持たないと思うわ。自分で何とかしてね?」

「分かった。今日はそんな気力は無いから、日を改めて電話する」

「そうして頂戴。機嫌が良さそうな時は、メールで教えてあげるわ」

「頼む」

 さすがに迷惑をかけている自覚はあった為、淳が神妙な口調で応じると、縁がしみじみと言い出した。


「全く……、最近、ただでさえ変な事が続いてるんだから、あんたの事位、早めに片が付いて欲しいわ」

「変な事? 旅館で何かあったのか?」

 普段は全く関わっていない事ながら、さすがに心配になって淳が尋ねると、縁が困惑しながら近況について語り出した。


「あったと言うか……、でも別に大した被害は無いのよ」

「何だよ、それは?」

「最近、客室の予約率が、連日ほぼ百%なの」

 その台詞の意味するところを悟った淳は、僅かに眉根を寄せた。


「それは、平日も含めての話なのか?」

「そうなの」

「確かに珍しいな。繁忙期でも無いだろう?」

「ええ。それだけでも変なんだけど、キャンセル率も高いの。九割位予約がキャンセルされてて」

「なんだそれは?」

 明らかな異常事態を聞いた淳は、疑惑に満ちた声を出したが、そんな弟を縁は困惑気味に宥めた。


「でも殆ど予約三日前から当日にかけてキャンセルの連絡が入ったり、当日無連絡で発生した諸々のキャンセル料はしっかり入ってるから、今のところ経営上の問題はないのよ」

「損害が出ていないなら良いが。それにしても九割……」

 そこで考え込んだ淳に、縁も自分でも納得しかねる口調で話しながら、会話を終わらせた。


「何かすっきりしないでしょう? 団体客じゃなくて、旅行会社を通した個人客ばかりだから、偶々そういうのが重なっただけだとは思うけど、こう続くとね。じゃあそういう事だから、お母さんにちゃんと自分で断りを入れてよ?」

「ああ、分かってる。じゃあな」

 そして通話を終わらせたものの、先程聞いた内容について、淳は渋面になりながら考え込む。


「しかし予約率が百%近くで、そのうちキャンセルが九割……。どう考えてもおかしくないか?」

 そんな自問自答をしていると、夜にもかかわらず玄関の呼び出し音が鳴り響いた。

「何だ?」

 連続して鳴らされるそれに、淳は呆れ気味に腰を上げて玄関へと向かう。そしてドアの覗き穴から外の通路を確認した彼は、意外な人物を見つけて少々驚いた。


「秀明?」

 連絡も無しに押し掛けてきた友人を見て、不思議に思いながらもロックを外してドアを開けると、完全に開けきらないうちに、秀明が強引に引き開けて押し入ってくる。


「さっさと開けろ。この愚図が」

「こんな時間にいきなり押しかけて来て、随分な言いぐさだな。お前らしいが」

「入るぞ」

「おい! ちょっと待て!」

 問答無用で靴を脱ぎ捨てて上がり込んだ秀明は、スーツケースを放り出すとまっすぐ台所の冷蔵庫に向かい、その中を物色し始めた。


「こら! 勝手に冷蔵庫を漁るな!」

「五月蝿い! お前のせいで、美子と喧嘩する羽目になったんだ。酒の一本や二本でガタガタぬかすな!」

 缶ビールを両手に一本ずつ持ち、今度はリビングに入った秀明を追い掛けながら、淳は驚愕の表情で確認を入れた。


「俺のせいで、美子さんと喧嘩? まさかお前、家を出て来たってわけじゃ無いだろうな?」

「…………」

 無言でカーペットにドカリと座り込み、面白く無さそうに缶ビールを飲み始めた秀明の態度が、その問いに対する答えだった。それを見た淳が、本気で頭を抱える。


「おい……。一体何がどうなって、そんな事態に」

「じじいの差し金で桜査警公社の奴が、美実ちゃんの見合い相手として家に来た」

 忌々しげに秀明が口にした内容を聞いて、淳は僅かに顔を強張らせながら呟く。


「……知ってる」

「何?」

「本人が事務所に来て、牽制していった」

「じゃあ分かるだろう? 俺並か、俺以上に性根が曲がりきって、腐ってる奴だ。そんなのに美実ちゃんを渡せるか!」

「お前……、自分でそれを言うか……」

 グキョッと変な音を立てながら、秀明の手の中でアルミ缶が変形し、淳は自分と同類と言い切った悪友に対して、疲れた様に呻いた。しかし秀明の悪態は、止まることを知らずに続く。


「それなのに美子の奴……。いとも簡単にあいつに丸め込まれやがって! 目が節穴にも程があるぞ! それを指摘したら逆ギレしやがったんだ!」

「お前と結婚した位だしな……。一般的な悪党は完全排除するけど、色々突き抜けた野郎に関してはガードが甘いんじゃないか? それにキレたのは、絶対お前の方が先だよな?」

「ふざけるな!! そもそも誰のせいで、美子と喧嘩をする羽目になったと思ってる!?」

「ああ、間違いなく、俺のせいだな……」

 ここで飲みかけの缶を放り出して秀明が掴みかかってきた為、カーペットに転がった缶を見た淳は、(零れたあれ、シミになるな……)などと現実逃避気味な事を考えながら、神妙に応じた。それでも気が収まらない秀明が、地を這う様な声音で凄んでくる。


「お前……、あんなのに遅れを取ったら、問答無用で潰すからな? あれと比べたら、お前の方が百倍マシだ」

「一応……、激励してくれてるんだよな?」

 言葉だけ聞くと、とてもそうとは思えない相手の主張に、淳が疲れた様に応じると、秀明の携帯が着信を知らせて鳴り響いた。

 淳は美子からの着信かと推測したものの、秀明はディスプレイに表示された発信者名を見て無言で眉を顰め、そのまま応答する。


「俺だ。一体何の用だ、このくたばりぞこないが」

 それを聞いた淳は、一気に肝が冷えた。

(おい、まさかとは思うが、このタイミングで加積老からかかってきたんじゃないだろうな?)

 それきり秀明は無言のまま、相手の話を聞いていたが、少ししてから如何にも面白くなさそうに一言呟く。


「……分かった」

 それで会話は終わったらしく、秀明は無言のまま元通り携帯をしまい込んだが、この間緊張を強いられていた淳は、当然の権利とばかりに確認を入れた。


「さっきの電話、もしかして加積老からか?」

「ああ。今日明日中に美子に頭を下げなかったら、美子に再婚相手を世話してやるだと」

「耳が早い事で」

 素で淳が感心した声を上げると、秀明は殺気の籠もった目で相手を睨み付けた。しかし先程の緊張感から解放された淳は、そんな視線に恐れ入る事無く、未開封の缶ビールを秀明に向かってマイクの様に向け、苦笑しながら尋ねる。


「ちょっとお尋ねしますが」

「何だ?」

「『大家族の一員で、最近、色々気苦労が絶えない藤宮秀明』さん?」

「だから何だ? 貴様、今すぐ潰されたいのか?」

「今更『天涯孤独でやりたい放題自由気ままに生きてる江原秀明』に戻りたいんですか?」

「…………」

 途端に仏頂面になって、差し出された缶を奪い取った秀明は、そのまま無言で缶を開けて飲み始めた。それを見た淳は、溜め息を吐いて宥める。


「悪い事は言わんから、さっさと美子さんに頭を下げろ」

「五月蝿い」

 目の前の男が素直に頷く筈も無いと思いながらも、淳はこれ以上は状況が悪化する事は無いだろうと思いながら立ち上がった。


(どうせこいつ、明日には頭を下げるだろうし、一晩とことん付き合ってやるか)

 そして台所に入った淳は、冷蔵庫を開けて残っているビールやウイスキーを取り出しながら、一人苦笑したのだった。


「秀明? 起きてるか?」

 翌朝、いつもの時間に起き出した淳は、リビングに足を踏み入れたが、ソファーで寝ていた筈の秀明の姿は、影も形も無かった。


「何時に起きて、出てったんだよ……。本当にあいつ、可愛い性格になったよな。美子さんは偉大だ」

 秀明が残していった、昨晩押し掛けた事に対する詫びと、とめてくれた事に対する礼の言葉を短く記載したメモを取り上げて眺めた淳は、苦笑いしながら朝食の支度をするべく、台所へと向かった。



「おはよう、美子姉さん。新聞取ってくるから」

「お願い」

 起き出して台所を覗き込んだ美実は、朝食の支度に忙しい美子に声をかけて、玄関へと向かった。


(何となく気になって、なかなか寝付けなかった分、眠いわ。美子姉さんに「妊婦が睡眠不足なんて、何やってるの」とか怒られそう。昼寝しようかな……)

 あくびを堪えながら玄関でサンダルを履き、鍵を解除して戸を引き開けた美実だったが、その途端、眠気が吹っ飛んだ。


「って!? 秀明義兄さん!?」

「おはよう、美実ちゃん」

「あ、おはようございます。お義兄さん」

 無駄に爽やかな笑顔を向けてきた義兄に、美実は思わずいつも通り挨拶をしてから、慌てて問いかける。


「じゃなくて! 朝っぱらからこんな所に突っ立って、何してるんですか!? 鍵は持ってますよね?」

「確かに持ってるが、ここに美子を呼んできてくれたら、助かるんだが」

「今すぐ呼んできます!」

 神妙に申し出られた内容に動転しまくった美実は、急いでサンダルを脱ぎ捨てて廊下を走った。


(びっくりした、びっくりした、びっくりした!! 全然気配を感じさせずに、あんな所に立ってるんだもの! でも昨日出て行ったばかりなのに、すぐ帰って来てくれて良かったけど)

 そのままの勢いで美実は台所に飛び込み、美子に向かって叫ぶ。


「美子姉さん!」

「何? 大声を出して?」

「お義兄さんが、玄関の外に立ってて! 姉さんを呼んでくれって!」

「はぁ?」

 不快そうな顔で振り返った姉に、美実は恐る恐る説明を加える。


「えっと……。家に入る前に、美子姉さんに話があるかと思うんだけど……。もしくは、姉さんの許可を貰ってから、家の中に入るつもりとか?」

「この忙しい時に……。それに私が専制君主の様な言い方しないで」

「……すみません」

(だって、事実そうだし!)

 今にも舌打ちしそうな美子を見て、美実は思わず謝りながら様子を窺った。しかし美子はそれ以上文句を言わず、エプロンを着けたまま玄関へと向かう。

 その後を美実も追うと、美子は玄関の上がり口で仁王立ちになって、戸口の外にいる秀明を見下ろした。


「朝っぱらから何の用なの?」

「悪かった。昨夜は俺が言い過ぎた。謝るから家に入れてくれ」

 真剣に謝罪してから深々と頭を下げた秀明を見て、美子は盛大に顔を顰める。


「人聞きが悪いわね……。私が叩き出した様な言い方をしないで欲しいんだけど。勝手に出て行ったのはそっちでしょう?」

(詳細は分からないけど、何となく美子姉さんが叩き出した気がする)

 密かに姉の背中を眺めながら美実が心の中で突っ込んでいると、その視線を感じたのか、美子が振り返った。


「美実、何か言いたい事でもあるの?」

「いえいえ、滅相もありません!」

 慌てて首を振った美実から再び秀明に視線を戻した美子は、頭を上げた秀明に向かって問いを発した。


「昨日はどこに泊まったの?」

「淳の所に押し掛けた」

「そう……」

 それを聞いた美子と美実は、揃ってピクッと反応したが、それきり誰も発言しなくなった。

(うっ、沈黙が重い……)

 美実が居心地悪そうに身じろぎしたが、そこで美子は小さく溜め息を吐いてから、秀明に向かって違う問いを口にする。


「ところで朝食は済ませてきたの?」

「いや、まだだ」

「それなら早く入って、出勤の準備をして。朝はただでさえ忙しいんだから、手を煩わせないで頂戴」

「ああ、分かった」

 不機嫌そうに言うだけ言って踵を返し、美子は台所に戻って行ったが、秀明はそれに文句など付けずに微笑しながら頷いた。そして上がり込んだ彼に、その場に残った美実が声をかける。


「あの……、お帰りなさい、お義兄さん。ひょっとして、加積さんから電話がいきました?」

「どうしてその名前が?」

 不審そうに見返されて、美実は正直に事情を説明する。


「実は昨晩、美樹ちゃんに頼まれて、加積桜さんに電話をしまして」

「……なるほど。あの夫婦、美樹に電話番号を教えてたか」

「何か、色々とすみません」

 詳細は分からなくても、桜が言った通り自分の見合いが原因で揉めたんだろうと想像できていた美実が頭を下げたが、秀明は苦笑して美実の頭を撫でながら宥めた。


「美実ちゃんが謝る事では無いさ。くたばりぞこないのじじい曰わく、『女房の尻に敷かれるのが、夫婦円満の秘訣』らしいから、それに従ってみたまでだ。じゃあ、部屋に行くから」

「あのっ!」

「どうかしたかな?」

 そのまま自室に向かおうとした秀明に、美実は慌てて声をかけた。そして振り返った義兄に向かって、少し躊躇う素振りを見せてから、慎重に口を開く。


「その……、お義兄さんはさっき、昨日は淳の所に泊まったとかって言ってましたけど……」

「ああ。それが?」

「その……、元気にしてるかと思いまして……」

「憎たらしい位、元気だったな」

「……そうですか」

 おとなしく頷いたきり黙ってしまった美実を、秀明は不思議そうに眺めたが、すぐに悪戯っぽく笑いながら付け加える。


「そうだな……。見たところ、新しい女を連れ込んでるって気配も無かったが」

「いえいえ、あのですねっ! 別にそういう事を聞きたかったわけじゃ! その! 今のは、最近会ってないから、どうなのかな、位の気持ちで!」

「そうか。それじゃあ上に行くから」

 途端に自分の台詞に反応し、顔を僅かに赤くしながら反論してきた美実を微笑ましく眺めてから、秀明は再び歩き出した。


(一応『小早川さん』とかじゃなくて、まだ名前呼びなわけだ。頑張れよ、淳。相婿になるなら、あいつじゃなくて、お前しか認めるつもりはないからな)

 笑いを堪えながらそんな考えを巡らせた秀明は、心の中で親友を叱咤激励しながら階段を上がって行った。


(また美子姉さん達に、迷惑かけちゃったわ。でも大事にならずに済んで良かった)

 そして秀明の背中を見送ってから、美実はやっと新聞を取りに行く為、再びサンダルを履いて玄関から門へ向かって歩き出したのだった。


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