第20話 藤宮家への侵攻
事前の連絡通り、ジャケットの下に淡い色合いのコットンシャツ、グレー系のチノパンという、かなりカジュアルな出で立ちで藤宮家に現れた小野塚和真は、玄関先で出迎えた美子と秀明に対して、礼儀正しく頭を下げた。
「初めまして、小野塚と申します。これはつまらない物ですが、宜しければ皆さんでお召し上がり下さい」
どこからどう見ても無害にしか見えない微笑みを浮かべながら、和真が手に提げてきた紙袋を差し出してきた為、美子が笑顔で受け取る。
「まあ、こちらの都合で出向いて頂いた上に、お土産まで頂戴しまして恐縮です。さあ、どうぞ。お上がり下さい」
「失礼します」
軽く会釈してから彼らに背を向けて靴を脱ぎ、上がり込んだ和真は、旧知の人物を振り返って小さく頭を下げた。
「お久しぶりです、社長」
その挨拶を受けた秀明は、軽く顔を顰める。
「それは止せ。義妹達は、俺と美子の桜査警公社との関わりを知らない」
「失礼致しました。初めてお目にかかります、藤宮さん」
「……白々し過ぎて、殴りたくなってきたぞ」
慇懃無礼とも言える一見殊勝な態度に、秀明は軽く凄んだが、相手はそれを平然と受け流した。
「殴りたくても、殴れませんよね? 奥様の前では。実力的にも、そうかもしれませんが」
「お前……」
思わず秀明が相手に詰め寄ろうとしたが、ここで美子が呆れた口調で割って入った。
「あなた、いい加減にして。こんな所で揉めないで頂戴。小野塚さん、こちらです」
「おい」
「はい」
秀明が何か言いかけたが、美子はそれは無視して和真を先導して行った。そして廊下を進んで角を曲がった突き当たりにある襖の前で足を止める。
「こちらになります。どうぞお入り下さい」
「失礼します」
襖を手で指し示してから、美子はそれを開けながら室内の美実に声をかけた。
「美実、小野塚さんがお見えになったわ」
「はい」
そして室内の中央に置かれた大きな座卓の一方に正座していた美実が居住まいを正し、神妙に向かい側に相手が座るのを待つ。そして相手が座ってから、挨拶をしながら頭を下げた。
「本日は家までご足労頂きまして、ありがとうございます。藤宮美実です」
「いえ、こちらこそ、こんな服装で失礼します。小野塚和真です」
「それではお茶を持って来ますので、お二人でお話でもしていて下さいね?」
「はい、分かりました」
そして美子が笑顔で断りを入れて引き下がった為、美実は内心で狼狽した。
(ちょっと待って美子姉さん! いきなり二人きりにしないでよ!? もうちょっと段取りとか、進め方とか教えてくれても! 私、こういうの初めてなのに!)
恨めしそうに美子が消えた襖を眺めている美実を見て、和真はおかしそうに小さく笑った。そして落ち着き払った様子で声をかける。
「それでは、美実さんと呼ばせて頂いても構いませんか?」
「え? えっ、ええ、お好きな様にどうぞ」
唐突な和真の台詞に美実は動揺しながら了解したが、相手は続けて脈絡の無い事を言い出した。
「ところで美実さん、さすが旧家として名高い藤宮家ですね」
「え? あの、それはどういう……」
「家具からして、一つ一つから重厚さが漂ってきます。この本紫檀の座卓などは惚れ惚れしますよ。この縁と脚の、彫り模様の見事なこと」
「はぁ……」
そう言いながら上半身を折り曲げて、座卓の側面から下を覗き込む様にした和真を、美実は呆気に取られて見やった。
(いきなり座卓を誉めるって……。実家が家具屋さんとかなのかしら?)
そして和真は、唖然としている美実には気付かれない様に手を伸ばし、天板の裏に貼り付けられていた小さな機器を、注意深く引き剥がして回収する。それから再び上半身を起こした和真は、悪びれない笑顔で更なる要求を繰り出した。
「それで、出向いて早々恐縮ですが、お庭を拝見させて頂けますか?」
「……はい。どうぞこちらに」
内心では(何なんだろう、この人?)と疑念を覚えたが、美実はおとなしく立ち上がり窓際へと移動した。そして障子を引き開けて、縁側に出ながら背後を振り返る。
「こちらになります」
「ああ、やっぱり話に聞いていた通り、見事な和風庭園ですね」
「それほど大げさな物ではありませんが……。あの、何を……」
何故か和真が縁側に出ず、両手を上に伸ばして鴨居に手をかけた状態で、全身を軽く伸ばしているのを見た美実は面食らったが、相手はそのままの体勢で苦笑しながら言葉を返した。
「え? ああ、すみません。実家の庭と趣が似ているもので、ついリラックスし過ぎてしまいました。今では滅多には戻りませんが、帰省する度にこんな事をしているもので」
「そうですか」
そう言いながら、和真は鴨居の縁に設置されていた、先程と同様の小型のマイクを手の中に回収したが、そんな事は想像もできなかった美実は不思議そうに相手を眺めた。
(益々意味不明。変わった人ね。実家が造園業とかなのかしら?)
そうこうしているうちに庭を眺め終えた和真と共に室内に戻ると、周囲をぐるりと見回していた彼が、何を思ったか床の間に向かって足を進めた。
「そういえば、この部屋に入った時から気になっていたのですが、その掛け軸は越路美舟の作品では無いですか?」
「え、ええ。一番上の姉が越路さんと知り合いで、頂いたと聞いていますが……」
「そうでしたか。いやあ、幸運だな。こんな所で予想外に、越路美舟の本物を見られるとは」
「はぁ……」
近寄ってしげしげと鑑賞しながらも素早く視線を走らせた和真は、困惑気味の視線を向けてくる美実に怪しまれない様にさり気なく手を伸ばし、掛け軸の下部に下がっている、陶製の風鎮の下部に取り付けてあった小さな物を、器用に片手で取り除いた。更に先程回収した物を含めたそれらを、手前の花を活けてある水盤の中に静かに沈める。そして広がっている葉の陰に沈んだそれらをチラッと見て、和真はほくそ笑んだ。
(社長、なかなか上手く隠して設置していましたが、その道のプロを相手に通用すると思わないで頂きたいですね)
そこでお茶を持参した美子が戻り、襖を開けながら声をかけてきた。
「失礼します」
お盆を手にして座敷に入った美子は、二人が揃って床の間の前に居たため、不思議そうに声をかける。
「あら、どうかされましたか?」
「いえ、まさかこちらで越路美舟の作品を見られるとは思っていなかったので、つい興奮してしまいまして」
照れくさそうに詫びた和真を見て、美子はお茶を座卓に置きながら鷹揚に頷いた。
「まあ、そうでしたか。それの価値が分かって頂けて嬉しいですわ。どうぞお気になさらず、ゆっくりご覧になって下さい」
「ありがとうございます」
そして一礼して再び座敷を出た美子だったが、廊下を挟んで反対側の部屋に入ると、秀明が何やら悪態を吐いていた。
「……ちっ! どこまでムカつく野郎だ!」
「あなた? どうかしたの?」
お盆片手に近付きながら尋ねると、秀明は手元の箱型の機器に繋いであるヘッドフォンを耳から外し、忌々しそうに彼女を見上げながら答える。
「あの野郎……。俺が予め仕掛けておいた盗聴器を、全部沈黙させやがった」
「さすが、その道のプロね……」
やっぱり人畜無害なのは見かけだけみたいだわと、美子が思わず遠い目をすると、若干腹を立てたまま秀明が言いつける。
「少ししたら、新しい茶を持って行って、様子を見て来い」
「分かったわ」
それに一応素直に頷きながらも、美子は(別に家の中で変な事をする筈もないのに、心配性ね)と心の中で密かに呆れたのだった。
その頃、暫く掛け軸を堪能した和真は、元通り座布団に座ってから、謝罪の言葉を口にしていた。
「美実さん、すみません。一人で興奮してしまって」
しおらしく頭を下げる和真に、美実は軽く手を振りながら笑って答える。
「お構いなく。最初から変に気を遣われるより、こちらもリラックスできましたから」
「それは良かった。じゃあ見合いらしく、お互いの話でもしましょうか。美実さんは、私の職業についてはご存知ですか?」
そんな風に唐突に振られた話題に、美実は正直に答えた。
「あの……、釣書では『桜査警公社』勤務となっていましたが、不勉強で。ネットで調べても、何故か情報が出ていなくて、存じ上げていないんです。申し訳ありません」
「分からなくて正解です。それは我が社の担当者が、ネット上から我が社に関する情報を悉く排除していますから、知らなくて当然ですから」
「え? どうしてですか? それに、どうやってそんな事を?」
恐縮して頭を下げた美実だったが、和真が笑って応じた為、慌てて頭を上げた。すると和真が微笑んだまま説明を始める。
「我が社は法人個人を対象にした各種特殊調査と、私的な要人警護を主な業務にしています。それで社員の顔や名前、所属人数、業務内容に至るまで、外部に対して徹底的な情報封鎖をしておりまして。情報管理部が二十四時間体制で、社内の機密保持の管理をすると同時に、外部に情報が出た場合の削除や消去を担っているんです」
「そうなんですか。何かコンピューターの専門家がゴロゴロいそうで凄いですね……。でも世間に知られていないと、仕事の依頼がこないんじゃ無いですか?」
素朴な疑問を口にした美実だったが、和真はそれにも笑って答えた。
「過去の依頼者からの紹介で、経営は十分成り立っていますから」
「かなり特殊な職場みたいですね」
物騒な所は口にせず無難な説明をしてきた和真に、美実はあっさり納得して確認を入れた。
「要するに……、探偵とボディーガードを足して二で割った感じの所ですか?」
「足して二で割ると言うよりは……、足して二乗でしょうか?」
苦笑混じりに和真がそう口にした途端、美実が好奇心丸出しで座卓越しに身を乗り出してくる。
「うっわ! 凄いハードで濃い感じ! 良かったらもう少し、お仕事の話を聞かせて頂けません!?」
「妙齢の女性が聞いて、喜んで頂ける話かどうか分かりませんが……。美実さんがお望みなら、業務に支障の無い程度で、幾らでもお話ししますよ?」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
その美実の食いつきっぷりに笑いを堪えながら、和真はそれから比較的穏便な事例の数々を具体的な社名や人名を伏せた上で、次々語って聞かせたのだった。
その日の夕食時、一家全員がテーブルを囲んで食べ始めてから、日中の見合いの事を心配していた昌典がその事について尋ねると、それ以降は美実の独壇場となった。
「それでね!? 小野塚さんって調査部門所属でしょう? 調査対象の企業に潜入してた時の話が、荒唐無稽で面白すぎて! 半分は冗談と作り話にしても、非日常極まりないのよ! 作り話だとしたら、十分作家としてもやっていけるわ!」
「そうなの……」
「凄いね……」
興奮気味に喋る姉に対して、並んで座っている妹二人は若干引き気味だったが、美実はそんな反応に構わずに話を続けた。
「それに、あの警戒心を抱かせない、安堵感さえ感じさせる顔。大抵の所に難なく紛れ込めるんですって。こうなると、もう天職よね?」
「本当に。営業マンとしても大成できそうよね。あの顔に警戒心を抱く様な人間は、よほど後ろ暗いところがある人じゃ無いかしら?」
「…………」
主に喋っているのは美実ではあったが、時折笑顔で美子が相槌を打つ度に、隣の秀明が徐々に表情を消して無言になっており、それに昌典は勿論、美野と美幸も気付いて内心でハラハラしていたのだが、当の二人はそれには全く気が付かない風情で話し続けた。
「あ、でも、あの顔で、実家のお父さんには嘆かれたんですって」
「あら、どうして?」
「なんでも小野塚さんのお父さんは、九州の広域暴力団の組長さんらしくて」
「暴力団の組長だと!?」
ここで昌典が血相を変えて問いただしたが、美実は何でもない口調で宥めた。
「別に心配する事無いわよ、お父さん。小野塚さんは勘当みたいな事になってて、もう何年も実家に帰ってないんですって。何でも『お前の様な男を、跡目になどできるか。継がせたら1ヶ月でこの組が潰れるわ!』と言われて、弟さんが後継者になったとか。酷いわよね? ああいう顔に生まれたのは小野塚さんの責任じゃないし、寧ろ親の責任なのに」
「本当に。顔の造りで人生を否定するなんて、そのお父さんは狭量な方ね。それで良く組長なんてやっていられるわ」
「でも確かに小野塚さんは、組長向きじゃ無いと思うけど」
「それもそうね。そんな物騒な世界に足を踏み入れなくて、却って良かったわよ」
「本当ね」
そう言って楽しげに笑い合う美実と美子を、昌典は唖然として見やったが、秀明は忌々しい気持ちで一杯だった。
(絶対に違う……。緊張感の無い顔云々が原因じゃなくて、実の親にも相当ヤバい奴だと思われて、うっかり組を任せたら徹底的に荒らされて潰されると判断されて、叩き出されたんじゃないか? いや、絶対そうに違いないぞ)
本音を言えば、この場で美子を怒鳴りつけたかった秀明だが、そうすると桜査警公社の特殊性と、なし崩しに夫婦でそこの会長社長を務めている事までバレそうだった為、我慢して無言を貫いた。
昌典も秀明の内心は把握していた為、注意深く義理の息子の様子を窺って微妙な緊迫感が漂う中、能天気な美実の話が続く。
「小野塚さんって職業柄、凄く交友関係が広くて。所謂LGBTのお友達も多いんですって」
「LGBTって?」
ここで思わず美幸が不思議そうに口を挟んできた為、美実は真顔で説明を加えた。
「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を纏めた略称よ。だからこのお見合いの話が来てから、私の本を読んでくれたみたいで、具体的に『ここら辺が実際と違う』とか、『こんな風に書いたら良いんじゃないか』とか指摘してくれて、その話で結構盛り上がったの」
それを聞いてその場全員、特に美子は驚いた表情を見せた。
「まあ、わざわざ読んで下さったの?」
「うん、出した本全部じゃなくて、デビュー作のみだけど。『なかなか興味深く読ませて頂きました』って。それに私が大学まで女子校で、実際にゲイの人に会った事は無いって正直に話したら、『それでも想像だけであそこまで書けるなんて、凄いですよ』って褒めてくれたし」
にこにこしながら美実が語った内容を聞いて、秀明は思わず眩暈を覚えた。
(あいつ、必要以上に目も鼻も利きそうだから、あれのモデルが俺だと気付いて、心の中で笑い物にしていたわけじゃあるまいな)
次は桜査警公社内で、美実のデビュー作の話が取りざたされる事になるのではと秀明は戦慄したが、そんな義兄の心境などまったく分かっていない美実が、満足そうに話を続けた。
「普段原稿の内容についてやり取りするのは担当編集さんしかいないし、あとはコアなファンからのファンレターでの反応とかでしょう? 小野塚さんの様に、冷静な第三者的な視点からの批評ってなかなか貰えないから、今日は充実した一日だったわ~」
「それは良かったわね。美実の仕事に関しても、理解のある方で安心したわ」
「それでね? 来週の日曜に、小野塚さんのゲイのお友達の誕生日パーティーがあるそうなの。それで『色々参考になるお話とか聞きたいな』って思わず言っちゃったら、『じゃあ連れて行ってあげますよ。他にも同様の友人達が何人も顔を出しますし』って言われたから、お願いしちゃった」
そこまで聞いたところで、たまらず昌典と秀明が声を荒げた。
「美実! お前まさか、ゲイがゴロゴロ参加しているパーティーに行く気か!?」
「ろくに知らない男と一緒に、あっさりと出掛ける約束をするなんて、不用心だろう!」
「だってお父さん。ゲイの人達なら、却って心配無いんじゃない? それにお義兄さん、小野塚さんも一緒なんだけど?」
不思議そうに反論してきた美実の言葉にかぶせる様に、美子も言い添える。
「そうよね? それにそもそも小野塚さんのお友達だし、心配要らないでしょう。ただ、見ず知らずの人間が、誕生パーティーにいきなり出向いて大丈夫かしら?」
そんな見当違いの心配をし始めた美子に、美実は笑って説明した。
「私もそれはちょっと心配だったから聞いてみたんだけど、小野塚さんが『皆、気の良い人間ばかりだし、花束付きの女の子なら笑って歓迎してくれますよ』って言ってくれて。女の子って年じゃないし、妊婦だから色々恥ずかしいけど、滅多にない本物に会えるチャンスだもの! 多少厚かましいけど、この際、小野塚さんを口実に押し掛けさせて貰うわ!」
「あまり興奮して、周りの皆さんのご迷惑にならない様にだけ、気をつけなさいね?」
「は~い。気をつけま~す」
握り拳で行く気満々の美実を、美子が困った様に笑いながら注意したが、秀明は(気をつける方向性が違うだろう!?)と盛大に顔を引き攣らせながら、心の中で怒声を浴びせた。すると昌典が、不安を隠そうともせずに確認を入れてくる。
「その……、美実?」
「何? お父さん」
「結局、小野塚さんとの事は、どうする気だ?」
そう尋ねられた美実は、一瞬きょとんとしてから、漸く言われた内容を理解した。
「どうするって……、ええと……、縁談の事?」
「勿論そうだが」
「それなら、小野塚さんが『あまり堅苦しく考えずに、お友達から始めませんか?』って言ってくれたから、『はい、そうですね』ってお返事したけど?」
「は?」
あまりにもあっさりとした返事に、昌典は勿論、話に付いて行けなかった美野や美幸まで目を丸くしたが、他の者より立ち直るのが早かった秀明が、美子に尋ねた。
「おい、美子。それで良いのか?」
しかし美子は、落ち着き払って笑みを浮かべつつ答える。
「良いんじゃない? 当人同士がそう言ってるんだし。美実だってすぐに結婚とか考えていたわけじゃないんだし、寧ろその方が良いでしょう。小野塚さんもそこら辺を汲んで下さったんじゃないかしら? 本当に今時の方には珍しく、物の道理を弁えた謙虚な方ね」
「…………」
そう満足そうに頷いている美子を、秀明は無言で軽く睨んだ。その様子をテーブルの反対側から窺っていた美幸と美野が、小声で囁き合う。
「美子姉さんって、時々もの凄くオバサン臭い台詞を口にするよね?」
「しっ! 美幸、黙って! 余計な事は言わないの!」
しみじみと感想を述べた美幸を、慌てて美野が叱り付け、そんな妹達の様子を横目で見ながら、美実は上機嫌なまま夕食を食べ進めたのだった。




