第13話 矜持
「なっ、何ですってぇぇっ!?」
「良子! ちょっと待て! 落ち着け!」
「これが落ち着いていられますか!!」
「美子姉さん! 今の発言を謝って!」
「あなたを『世間知らずの小娘』呼ばわりした事を撤回して頂けたら、考えないでもないわ。それにそもそもこちらには、そちらに結婚を『認めて頂く』必要性なんか認めていないのだし。そこの所の認識の齟齬を、どうにかして頂きたいものだわ」
「美子姉さん!!」
すまして言ってのけた美子に美実は本気で悲鳴を上げたが、良子の喚き声がそれに重なった。
「大体! 結婚もしないで、どうやって子供を育てる気よ!? 執筆業なんて言ってるけど、大手の出版社に勤務してるわけじゃなし、いいとこ雇われゴーストライターでしょう!? それで子供を抱えて、安定した生活ができると思ってるわけ? ふざけないでよ! 後からしおらしく頭を下げて頼ってきたって、面倒なんか見ませんからね!?」
「ご心配無く。美実は既に何年か前に商業デビューを済ませている、れっきとした作家です。これまでに六冊出して、全て重版がかかってますわ」
「え?」
「はぁ?」
相変わらず淡々と説明を加えてきた美子に、潔達は当惑した顔を向けた。そんな二人に向かって落ち着き払ったまま、美子は話を続ける。
「流石に押しも押されもせぬベストセラー作家とまではいきませんが、印税収入から十分な生活費を入れていますし、余った分はきちんと貯蓄に回しています。因みに……、こちらがこの子のデビュー作になります」
そう言いながら畳に置いてあった本を持ち上げ、美子がそれを座卓の上に置いて向かい側に押しやったのを見て、美実は激しく動揺した。
「美子姉さん!? どうしてここでそれを出すのよ!」
「だって『百聞は一見にしかず』と言うし。実際に見て頂いた方が、納得して頂けるかと思って」
「……拝見します」
「あ、あのっ!」
相変わらず険しい表情ながら、取り敢えず怒鳴り散らすのを止めた良子が手を伸ばしてその本を手に取り、美実が一人狼狽する中、潔が感心した様に声をかけてきた。
「そうでしたか。美実さんは作家さんでしたか。存じ上げずに失礼しました。淳の奴、最近は細かい事に言及しないで、話を切り上げるもので」
「小早川さん位のお年になれば、実家にこまめに連絡を入れたり、何でもかんでも話す様な事はされないと思いますから」
「はぁ、お恥ずかしながら。変に心配する様な事も、これまでありませんでしたし」
「男の方ですしね。これが娘さんを外に出していたら、心配で仕方が無いんじゃありませんか?」
「きっと毎日電話していましたね。いや、何時間おきかもしれません」
そんな風に潔と美子の間で、少々場違いな和やかな空気が流れる中、ただ一人、パラパラと自分の本を流し読みしている良子の様子を窺っていた美実は、気が気では無かった。
(ちょっと待って。お父さんと美子姉さんが一見和やかに話してるけど、お母さんの顔が益々険悪になってきた様な……)
そして十分と経たずに、良子は先程以上に怒りを爆発させた。
「ふざけるんじゃないわ! 何なの? この話は!?」
「よ、良子? 一体どうした?」
叩き付ける様に座卓に本を置きながら喚いた良子に、驚いた様に潔が声をかける。それに美子のすこぶる冷静な解説が重なった。
「読んでお分かりになりませんでした? BL、所謂男性同士の恋愛をテーマにした作品ですが」
「へ?」
それを聞いた潔の目が丸くなり、益々ヒートアップした良子の怒声が室内に響き渡る。
「あっ、あなた! 本当に、こんなふざけた本を六冊も出してるの!?」
「あの、そのっ!」
「そうお話しした筈ですが。先程から随分とお声が大き過ぎる方だと思っておりましたが、寄る年波で耳が遠くなっていらしたのですね。それなら仕方がありませんわ。美実、耳障りでも我慢しなさいね?」
「美子姉さん!」
「信じられないのはあなたもよ!! 妹にこんな汚らわしい物を書かせて平気なの!? 常識と正気を疑うわ! さすがは金に汚い、恥知らずな成金一家だわね! 淳も、こんなろくでもないのに騙されるなんて、なんて情けない!」
良子の台詞に美実が顔色を変え、美子はピクリと眉を動かしたものの、傍目には落ち着き払って説明を続けた。
「今、汚らわしいと仰った美実の作品については、小早川さんはとっくにご存じですわ。何と言ってもその本の主人公の一人は小早川さんで、相方は私の主人がモデルですから」
「何ですって!?」
これまでで一番の驚愕の表情になった良子だったが、美子は容赦なく追い打ちをかけた。
「二人とも本当に有能な人間ですから、才能を持っている人間を見ると、それを伸ばしたくて堪らないんですの。主人は勿論小早川さんから、これまでどれだけ美実の作品の参考になる話をして頂いたか……。とても感謝しておりますわ。ねえ? 美実?」
「え? あ、あの、それは確かに、色々参考になる話は聞いたけど、でも、それとこれとは」
薄笑いで同意を求められた美実は、涙目で狼狽しながら弁解しようとしたが、その声を良子の金切り声が切り裂いた。
「もう結構よ! こんな恥も外聞も気にしない、伝統なんか皆無の成金とうちが、話が合うわけは無いわ! 大方、うちの財産が目当てで、子供を作っておけば後でどうとでもなるとか思ってるんでしょうけど、そうはいきませんからね!!」
「良子、止めろ!」
「五月蠅いわよ! ここまで馬鹿にされて黙ってろって言うの!?」
「はっ……、たかが七・八十年ダラダラ続いてるだけの、二流旅館の女将風情が、何を偉そうにほざいてるのよ」
「何ですって!?」
「美子姉さん!?」
急に愛想をかなぐり捨て、低い声で悪態を吐いた美子に美実は更に動揺し、良子は眦を吊り上げたが、彼女はいかにもつまらなそうに話を続けた。
「大方、先代から引き継いだものに胡座をかいて、大した企業努力もせずに猿山の大将気分を満喫しているだけでしょうが。一代目で興して二代目で栄えさせて三代目で傾かせて四代目で潰す、典型的なパターンね。ありきたり過ぎて、面白くもなんともないわ」
「誰が猿山の大将よっ!!」
「妹は驕り高ぶる事は勿論、間違っても他人を誹謗中傷したり、粗探しをしたり、妬んだり、陥れたり、奪ったりする様な事はせず、自分の文才だけで真っ当にお金を稼いで生活しています。その姿勢を褒める事はあれ、恥ずかしいなどと思った事は一度もありません」
「美子姉さん……」
「それにさっき、財産目当てとか仰いました? むしり取れるほどの財産も無い癖に、見栄を張るのも大概にして下さい。見苦しい以外の何物でもないわ」
そんな事を面と向かって堂々と言い切った美子を、美実は呆然と見やったが、とうとう怒りが振り切れた良子は、手元にあった本を掴み上げて力一杯美子に向かって投げつけた。
「どこまで人を馬鹿にする気!?」
「姉さん!?」
「……っ」
咄嗟に左手で顔と頭を庇った美子だったが、その手の甲に本の角が突き刺さる様にぶつかり、鈍い音を立てて座卓に落ちた。それを見た美実と潔が顔色を変える。
「美子姉さん、大丈夫!?」
「良子、何をするんだ! 美子さん、申し訳無い。お怪我は?」
「あなた! こんな無礼な女に、謝る必要なんか無いわ!!」
「それとこれとは話が違うだろうが!」
潔は妻の手を押さえて盛大に妻を叱りつけ、美実は明らかに痣になった上、紙の縁で切れたらしい跡が残る美子の左手を、狼狽しながら見下ろした。そんな彼女の視線から左手を隠す様に右手で覆いながら、美子が「大丈夫だから」と小声で宥めていると、ここで予想外の声が襖の向こうから聞こえてくる。
「美子さん、お話中に申し訳ありません。ただいま戻りました」
そしてすらりと開けられた襖の向こうに、何も考えていない様な笑顔の康太と、引き攣った顔の美恵を認めて、美実は一気に緊張の糸が切れて泣きそうになる。
「谷垣さんっ……」
「あら、谷垣さん。ちょうど良い所に。こちらのお二人をつまみ出して頂けないかしら?」
「は?」
「何ですって!」
美子に笑顔でそんな事を言われた康太は、顔を引き攣らせた潔と怒りの形相の良子を眺めてから、ぽりぽりと人差し指で頬を掻きながら問い返した。
「はぁ……、つまみ出すんですか? それは構いませんが、暴れるなら両肩に俵担ぎでも構いませんかね?」
「勿論、構いませんわ。お任せします」
「それなら早速」
「ちょっと康太! 真に受けないで!」
「いや、一応お義姉さんの話に合わせてみただけだが」
「あんたが言うと、全然冗談に聞こえないのよ!」
のっそりと立ち上がった康太に釣られて、美恵も慌てて立ち上がって囁いたが、上背も横幅も十分な熊男に上から見下ろされて、それだけで脅威に感じたのか、良子は慌てて捨て台詞を吐きながら立ち上がった。
「あなた、帰るわよ! こんな野蛮人で恥知らずの巣窟なんて、これ以上一分一秒たりともいられないわ!!」
「おっ、おい! 良子! 幾ら何でもそれは失礼」
「うるさいわね! ここまで馬鹿にされる覚えは無いわよ! 二度と来るものですか!! あなた達も、その不愉快な顔を見せないで頂戴!」
「ご安心下さい。二度とお目にかかる機会は無いと思いますわ。ごきげんよう」
最後まで涼しい顔で挨拶してきた美子を、再度憤怒の形相で睨みつけてから、良子は夫を引きずる様にして足音荒く座敷を出て行った。それを見送った康太が、思わずといった感じで感想を漏らす。
「……おっかねぇおばさんだな」
「何を呑気な事を……。あ、ちょっと姉さん! どこに行くの?」
「塩を撒いて来るわ」
立ち上がって歩き出した姉に美恵が声をかけると、彼女は振り返りもせずに答えた。それを聞いて、これ以上余計な事は言わない方が良いと悟る。
「そう……。ここの後片付けはしておくわ」
「お願いね」
そして不穏な気配を醸し出している美子の背中を見送った美恵は、放心した様に座り込んでいる妹の前に座り込んで、申し訳なさそうに声をかけた。
「ごめんね、美実。何が気に入らなかったのか、なかなか安曇が泣き止まなくて。オムツを変えて授乳させて、やっと寝付いた所で康太が帰って来たから、挨拶を口実に割り込んでみたんだけど……」
「何か、一足遅かったって感じだよな。すげぇ、揉めてた感じだったし」
「康太は黙ってて!」
「……決裂」
「え?」
ボソッと呟いた美実に慌てて視線を戻した美恵の前で、美実はボロボロと泣き始めた。
「あ、淳のお母さん……、本気で、うぇっ……、怒らせっ……、ふえぇぇっ!」
「ああ、何か無茶苦茶怒ってたよな。あのおばさんとお義姉さん、一体どんな言い合いしてたんだ?」
「うくっ、……うぇぇっ!」
「康太! いいからあんたは、ちょっと黙ってて!」
悉く余計なコメントを口にする夫を叱り付けてから、美恵は半ば呆れながら指摘してみた。
「だけど美実。あんたはどうして泣いてるのよ」
「ぅえ?」
「だって小早川さんと別れるって決めたんだから、その両親から愛想尽かされようが貶されようが、痛くも痒くも無いんじゃない? 泣く必要だって無いわよ」
「それはっ……」
「家族の心証を悪くしたら、小早川さんから本当に愛想を尽かされそうで、嫌なんでしょ? 本当に素直じゃ無いんだから」
「そ……、そんなんじゃないしっ!」
涙声で盛大に言い返した美実だったが、美恵は(バレバレよねぇ)と生温かい視線を妹に向けた。
「はいはい。そういう事にしておきましょうね。全く、底抜けの馬鹿なんだから」
「ふぇっ、ば、馬鹿じゃないっ……、もんっ! うえぇぇ――っ!」
そうして自分に抱き付いて、盛大に泣き出した美実の背中を軽く叩いて宥めながら、美恵は遠い目をしてしまった。
「はぁ……。もう、どうしたものかしらね」
「取り敢えず、落ち着くまでそうしてるしか無いんじゃないか?」
「それはそうだけど。他人事だと思って……」
すこぶる冷静に口を挟んできた康太を、美恵が軽く睨む。暫くそのまま美実を好きなだけ泣かせていると、バタバタと廊下を走る音がしたと思ったら、勢い良く襖が引き開けられて美野が姿を現した。
「美実姉さん! 美恵姉さんも居る!? あ、谷垣さん、お帰りなさい! 大変なの!?」
「ちょっと落ち着きなさい、美野。どうしたの。今度は何?」
これ以上の揉め事は勘弁してほしいと、心底うんざりしながら美恵が問いかけると、美野に付いて来た美樹が両手をバタバタさせ、如何にも慌てている様子で言い出した。
「ママ、え~んなの!」
「は?」
「それが! 美子姉さんが、自分の部屋で泣きながら電話してて!」
「はい!?」
「あの美子姉さんが泣いてる!?」
「どうしよう? どうしたら良いの?」
これまでに遭遇した事の無い事態に、おろおろと狼狽えている二人を見て、美恵は舌打ちしながら立ち上がった。
「だから美野、落ち着きなさい。取り敢えず様子を見に行くから」
「あ、私も!」
予想外の事を聞かされてすっかり涙が引っ込んだ美実も同様で、その場全員が一塊になって二階へと足を進めた。そして美子と秀明用の私室を指差した美野が、声を潜めて説明する。
「この中で話してるから」
「ええ。静かにね」
「分かってる」
そして慎重にドアを開けて隙間を作った美野は、無言で姉達を手招きした。
「……だからっ、……あ、あんな事っ、……ふぅっ、言われ……って」
そこでドアに張り付く様にして、背中を向けて座っている美子の嗚咽まじりの声に、姉妹揃って耳を傾ける。
「それはっ……、た、確かに……、大っぴら、にっ……、ほ、褒められない、かもっ……。で、でもっ……。あ……、あの子なり、にっ……、必死にっ……、考えっ……。徹夜とかっ……、何度も、書き直しとかっ……。私……、恥ずかしいとか、本当に、思った事無い……。そっ、それなのにっ……。く、悔しいぃぃーっ!! しっ、しかも! あの女……。汚らわしいとか、うちの事も、恥知らずのっ……、成金……。い、言いたい放題っ……。や、やっぱり……、一回位、蹴りたおっ……」
そこまで聞いて溜め息を吐いた美恵は、無言で元通りドアを閉めた。
「多分、あの電話の相手って義兄さんよね……」
「美子姉さんが、あんな風に悔し泣きしてる所なんて、初めて見た……。普段だって、泣き顔なんか他人に見せた事無いのに……」
「そうなのか?」
呆然としながら口にした美野に、付き合いの短い康太が不思議そうに応じる。ここで美恵が全員に身振り手振りでドアから離れる様に指示し、十分距離を取ってから真顔で言い聞かせた。
「いいこと? あのプライドの高い姉さんの事だから、義兄さんに電話で泣きついた所を見られたと知っただけでも嫌がるから、絶対見た事を言っちゃ駄目よ? 見なかったし聞かなかった事にしなさい。康太も。分かったわね?」
「勿論よ」
「分かりました」
「俺は構わないけど、美樹ちゃんはどうすんだ?」
当然の如く康太が問い質した為、美恵はしゃがみ込んで美樹に尋ねてみた。
「美樹ちゃん? 何も見てないよね?」
「うん。ママ、え~ん、みてない!」
「……無理じゃねぇ?」
ぶんぶんと必死に首を振った美樹を見て、康太は首を傾げ、美恵の顔が僅かに引き攣る。それを見た美野はしゃがみ込み、考えながら美樹に言い聞かせた。
「ええ~っとね、美樹ちゃん。今日は、お客さんが来て、お茶を飲んで、帰ったの。それだけよ? おじいちゃんや美幸叔母さんに『何があった?』って聞かれたら、それだけ言えば良いの。それが事実だからね? はい、言ってみましょう。今日は何があったかしら?」
若干強張った笑顔で美野が念を押してみると、美樹は少し考えながら口にした。
「え~っと、え~~っとね? ……おきゃくで、おちゃで、さよーなら」
「はい、その通り。もう一回言ってみましょうか?」
「おきゃくで、おちゃで、さよーなら!」
「良くできました! うん。これで心配要らないわ。これだけ言っていれば良いからね。またケーキを買って来てあげるから」
「うん!」
自信満々に断言した美樹を見て、美野は笑顔で太鼓判を押した。そんな二人をもの凄く疑わしげに、美恵が見やる。
「……本当に?」
「大丈夫。信用して?」
「分かった。あんたを信じるから。じゃあ取り敢えず後片付けとか、色々済ませましょうか」
「そうね」
そして全員気を取り直してぞろぞろと移動を始めると、美実は背後のドアを何とも言えない表情で一度振り向いてから、姉達の後を追ったのだった。




