第11話 傍迷惑な勘違いと不幸な行き違い
「佐久間さん、お世話になりました。事務所運営、頑張って下さい」
「おう、小早川。お前は覚えは良いし、万事そつが無いし、あまり世話した覚えも無いがな。ほら、お前も飲め」
「頂きます」
自身が所属している榊総合弁護士事務所から、この度独立する事になった佐久間の送別会で、淳はかつて世話になった先輩にビール瓶とグラスを手に酌をしに行ったが、二人で機嫌良く飲んで喋っている所に森口がやって来て、控え目に声をかけた。
「佐久間さん、その辺で。こいつ明日は、朝から一仕事控えてるんで」
それを聞いた佐久間が、不思議そうな顔付きになる。
「あ? 事務所の各人のスケジュール板では、こいつは明日の午前中、有休取って無かったか?」
「それが……、恋人の父親に会いに行く為に、有休を入れたんですよ。それなのに酒臭い姿で、出向くわけに行きませんから」
この間、色々相談を受けて事情を把握していた森口が小声で囁くと、何となく大っぴらに言えない空気を察した佐久間が、声を潜めて淳を軽く睨んだ。
「何だ、そうだったのか? そういう事なら早く言わないか。何を遠慮してるんだ、この馬鹿が」
「すみません。まだ大丈夫なので、もう少ししたら遠慮させて貰おうかとは思っていたのですが……」
「甘い。お前は変な所で詰めが甘いからな。それで今回の騒ぎになってるんだろうが。自覚しろ」
苦笑いした淳を、今度は森口が軽く睨むと、流石に佐久間が怪訝な顔になる。
「うん? 騒ぎって何だ? まさか恋人の父親に会いに行くって、別れ話で揉めてるわけじゃ無いよな?」
「いえ、どちらかと言うと、正式な結婚の申し入れと、説得をお願いしようかと思いまして」
「それはめでたい話だが……、父親が『誰』を『どうして』説得するんだ?」
「…………」
今一つ要領を得ない顔付きで佐久間が首を捻ったが、淳と森口は困った様に顔を見合わせる。それだけで年長者の佐久間は、あまり触れてはいけない内容らしいと察し、明るく笑って淳の肩を叩いた。
「まあいい。頑張れ、小早川。面倒な案件程、最後まで闘志を燃やしてきっちり捌いてきたお前だったら、何とかなるだろう。何かの折りにでも、朗報を聞かせてくれ」
「上手く纏まったら、披露宴の招待状を送ります」
「おう、楽しみにしている」
そして他の者が寄って来たのと入れ違いに淳と森口はその場を離れ、座敷の隅でこそこそと会話を交わした。
「おい、本当に、今日はほどほどにしておけよ?」
「はい、勿論です。藤宮氏の所に出向いた後は、そのまま高裁に行く予定ですし。事務所に顔を出さない分、朝は余裕はありますが」
「そうだな」
互いに真剣な顔でそんな事を言ってから、森口は腹部を軽く手で押さえながら訴えた。
「何か不安だ。俺は最近、胃の調子が悪くなってきたぞ」
「これ以上先輩の胃を荒らさない様に、藤宮氏とは上手く話し合ってきます」
「マジでそうしてくれ。周りに詳細を言えない分、余計にストレスが溜まってしょうがない」
「余計な心労をおかけして、本当に申し訳ありません」
淳は森口に心底申し訳無く思いながら、羽目を外さない程度に飲んで帰宅したのだが、滞り無く翌日の服装や持ち物を揃えたりしているうちに、自身の携帯の着信履歴のチェックをすっかり怠って、眠りに就いてしまった。
そして淳は全く知らなかった事ながら、送別会に参加している時間帯に、藤宮家の固定電話に一本の電話がかかってきた。
(あら? この番号は見覚えが無いけど、どこからかかってきたのかしら?)
居間で鳴り響いた電話に歩み寄った美子は、ディスプレイに浮かび上がった番号を確認し、幾分警戒しながら受話器を取り上げた。
「はい、どちら様でしょうか?」
取り敢えず名乗らずに、慎重に応じてみると、電話越しに女性の声が伝わってくる。
「夜分恐れ入ります。小早川と申しますが、ご主人はご在宅でしょうか?」
そう言われた途端、美子の顔がピクッと引き攣った。しかし先程と変わらない落ち着いた口調で、さり気なく問い返す。
「……失礼ですが、どちらの小早川でしょうか?」
「小早川淳の母です。淳がそちらのお嬢様とお付き合いしているそうで、このたび」
「申し訳ありませんが、その様な小早川様に思い当たる節はございません。どちらかとお間違えでは無いでしょうか?」
「え? でも、あの」
「お手元の番号を良くお確かめの上、かけ直される事をお勧めします。それでは失礼します」
淡々と相手の台詞を遮り、戸惑った声を無視して美子は静かに受話器を戻した。そして即行で今かかってきた番号を着信拒否にする操作を済ませてから、苛立たしげに呟く。
「全く。どうしていきなり、親が電話をかけてくるわけ? 不愉快にも程があるわ。あの男が親に頭を下げてくれと、泣きついたのかしら? 見かけによらず根性無しね」
そのままブツブツと淳に対する悪態を吐いていると、夕食の後部屋に戻り、私服に着替えてきた秀明が、居間に顔を出した。
「美子、さっきの電話はどこからだったんだ?」
どこかで子機が鳴っているのを聞いたのか、秀明が尋ねてきたが、美子はあっさり答えた。
「単なる間違い電話よ。まだ深夜では無いけど、いい迷惑ね」
「そうか」
「それより、今日も寝るまでに少し仕事をするんでしょう? 珈琲でも淹れましょうか」
「そうだな。頼む」
そこで簡単に引き下がってしまった事を、秀明は後々悔やむ事になった。
そんな事があった翌日。
淳の心境とは裏腹に東京の空は晴れ渡っていたが、その天気に感謝するでもなく、腹立たしさと困惑を隠そうともせず、淳の両親は東京駅に降り立った。
「全く! 淳は全然掴まらないし、留守電にメッセージを入れたのに音沙汰も無し。出向く前に、一応先方に連絡したいと思ったのに、違う電話番号を教えてくるとは何事よ!」
「淳も色々忙しいんだろう。暇を持て余しているより良いじゃないか」
「それはそうでしょうけど」
憤然としながら改札に向かって歩き始めた良子と並んで歩きながら、潔は迷う素振りを見せつつ、控え目に妻の翻意を促してみた。
「それより、良子。やはり、いきなり先方の家に出向くのは拙いんじゃないのか?」
しかしそれに、語気強く言い返される。
「ここまで来て、何を言ってるのよ! 電話をかけても繋がらないし、仕方が無いでしょう? 相手は実家暮らしの執筆業で、お姉さんは専業主婦だって聞いているから、いきなり出向いても誰かは居るわよ」
「そうは言ってもだな」
「万が一、留守だったとしても、私達がわざわざ東京まで出向いて、誠意を見せたって事実が重要なのよ。留守ならポストにこの手紙を入れて帰れば証拠になるし、十分お詫びになるでしょうが」
「ああ、うん。まあ、確かにな……」
予め準備しておいた封書をハンドバッグから軽く取り出しつつ良子が訴えた為、潔はそれ以上言えずに黙り込んだ。すると良子は溜め息を吐いて、呆れ気味に愚痴を零す。
「本当に……、何をどんな風に揉めたのかは知らないけど、三十過ぎの子供の尻拭いをする羽目になるなんて、これきりにしたいわね」
「確かに淳らしく無いがな」
「今日だったらオフシーズンの平日で、宿泊客も少ないし、日帰りすれば殆ど影響は無いしね。久々に東京まで出て来たんだから、まず美味しいものを食べて先方にご挨拶してから、銀座で買い物をして帰りましょう。さあ、行くわよ!」
「だがなぁ、やはり連絡は入れておいた方が……。淳とも一応、事前に話しておきたいし」
「さあ、鰻にしようかしら? お寿司でも良いわね」
そして未だに迷う素振りを見せている夫を引き連れ、第三者が耳にしたら一体どちらがついでなのかと困惑する様な台詞を口にしながら、良子は意気揚々と足を進めた。
「……なるほど。一応、美実達から経過は聞いていたが、君の話でその裏付けはできたし、君の主張に関しても良く分かった」
「お騒がせして、誠に申し訳ありません」
両親が東京に出向いて来ているなど夢にも思っていなかった淳は、同じ頃、旭日食品の社長室に出向き、仕事の合間に時間を取ってくれた昌典の前で、ひたすら緊張しながら美実と揉めた内容を語った。
厳めしい顔付きの昌典と向かい合い、冷や汗しか出ない話を一通りし終えてから、ソファーに座ったまま頭を下げると、昌典が冷静に問いかけてくる。
「きちんと君の考えを聞きたくて、今日、ここまで出向いて貰ったわけだが。どうだ? 美実と本当に結婚する気はあるのか?」
「勿論です」
顔を上げて真剣な面持ちで頷いた淳だったが、ここで昌典は益々眼光を鋭くし、淳を睨み付けつつ問いを重ねた。
「それは、美実が妊娠しているからか? もし子供がいない状態でこんな風に揉めていたら、それがきっかけで嫌気が差して、あっさり別れていたんじゃないのか?」
「そんな事はありません」
自分の突き刺さる様な視線を真っ向から受け止め、ムキになる事無く自然体で言い返した淳を、昌典は無表情のまま何十秒か観察してから、小さく息を吐いて苦笑の表情を見せた。
「分かった。それでは美子は、私が責任を持って、説得して宥めておこう」
「申し訳ありません。宜しくお願いします」
「それから、今月末に私の誕生祝いをする予定になっているから、その時に家に来なさい。美子もそうだが美実にも言っておくから、その時に当事者同士で、きちんと話し合う様に」
「分かりました。ありがとうございます」
予想外に自宅に招き入れて貰える事になった為、淳は途端に顔付きを明るくして礼を述べた。それを見た昌典が、苦笑を深める。
「美実にも非はあるからな。家に呼びつけるわけにはいかないし、このところ仕事が立て込んでいて、仕事上がりにゆっくり時間が取れなくて申し訳なかった。君はこれから仕事だろう?」
淳が持参した鞄を見ながら昌典が尋ねた為、淳は真顔で頷く。
「はい、軽く食べてから、そのまま裁判所に出向く予定です」
「それなら、もう席を外しても構わない」
「それでは失礼します。お仕事中に時間を取って頂いて、ありがとうございました」
「いや。気をつけて行きなさい」
二人で立ち上がり、握手を交わしてから社長室を出た淳は、廊下を歩きながら胸をなで下ろし、しみじみとした口調で呟いた。
「今まで生きてきた中で、今日が一番緊張したかもしれないな。口調は穏やかでも、威圧感が半端じゃないぞ、あの親父さん。流石は、あの美子さんの父親だ」
感心しきりでそう口にしてから、淳は予想以上の成果を上げられた事で、顔を緩める。
「派手に叱責されるのを覚悟して出向いたが……。予想外に冷静に、藤宮氏と突っ込んだ話ができて良かった。これで取り敢えず、直に美実と話をさせて貰える事を、確約して貰えたし」
そして機嫌良く旭日食品本社ビルから出た淳は、昼を回っていた為、手近なコーヒーショップに入って、サンドイッチと珈琲で簡単な昼食をとり始めた。
「さて、何か緊急の連絡とかは……」
忙しなく食べながらマナーモードにしておいた携帯電話に着信していたメールを確認し、必要な物には返信を済ませていると、サンドイッチを食べ終える頃には、殆ど問題無く処理を済ませる事ができた。
「これで事務所関係の問い合わせには全部返信したし、これからのスケジュールに変更は無い。後は……、うん?」
普段、滅多に連絡していない事から、確認を後回しにしている実家関係のフォルダーに、着信を示す表示が出ていた事に漸く気が付いた淳は、珈琲を飲みながら怪訝な顔になった。
「お袋から? この時間は仕事中って分かってるだろうに、どうしてわざわざ日中に電話をかけてくるんだ? ああ、留守電も入ってるな。それに昨日の夜もかけてきてたのか?」
該当する箇所を開いてみて、着信の時刻を確認した淳は、我知らず渋面になった。しかし無視すると後々面倒だとも思った為、カウンターに座りながら録音データに耳を傾ける事にする。
「淳。あなた昨夜も全然電話が繋がらないし、何をやってるの? 縁から聞いたけど、あなた付き合ってる彼女と揉めてるんですって? 全く、しょうがないわね」
「やっぱり説教か」
再生を始めるなり、耳に飛び込んで来た棘のある口調に、淳は本気でげんなりした。しかしそんな淳には構わず、良子の話が続く。
「こっちの都合もあるから、さっさと話を纏めて欲しいのよ。だから比較的今日は暇だから、東京に出て来たわ」
「……は? 出て来た!? ちょっと待て、そんな話、全然聞いてないぞ!」
思わず声を荒げて椅子から立ち上がった淳だったが、驚いた周囲からの視線を浴びた事に気が付いて、慌てて再び腰を下ろした。しかしそんな動揺著しい淳を、更に狼狽させる事を良子が言い出す。
「これから相手の家に行くわ。旅館の跡取りの嫁になって、ゆくゆくは女将になるってわけじゃ無いんだから、変に構えたり怖じ気づく必要は無いんだし、あんたの結婚相手としてちゃんと認めてあげるわって、私達が一言言ってあげれば万事丸く収まるんでしょう? 感謝しなさい。それじゃあね。また電話するわ」
「ちょっと待て! 何か激しく誤解してるし、藤宮家に出向いて欲しいなんて、俺は一言だって言って無いぞ! 縁から、何をどう聞いたんだ!?」
言うだけ言って途切れた声に、淳は狼狽し切った声を上げた。そして周囲の視線を物ともせず、急いで支払いを済ませて店を飛び出し、腕時計で時間を確認しながらタクシーを拾う。
そして後部座席に収まり、行先を告げると同時に焦りまくって携帯電話を操作し始めた淳だったが、悉く自分の思い通りにならない事態に、次第に焦燥の色を濃くした。
「くそっ、繋がらない……。親父の携帯は……。電源を落としてるのか、マナーモードにして気が付いて無いのか」
まず両親に連絡をつけようと試みた淳だったが、両者の携帯電話には繋がらず、耳から離したそれを恨みがましく見下ろす。
「今日は口頭弁論だってのに、遅れるなんて真似ができるか。これまでも散々、あれの所有権で揉めまくってたのに」
そして次に藤宮家関係に連絡を付けようとした淳だったが、とことん運に見放されたのか、全て空振りに終わった。
「秀明や藤宮さんにまで、悉く繋がらないとは……。今日は厄日か。美子さん達の携帯電話は、未だに繋がらないし……」
一通り試してみて、どうにもならない事を認識させられた淳は、完全に諦めて秀明のスマホにだけメッセージを残し、マナーモードにした携帯電話をポケットにしまい込んだ。
「仕方がない。もう運を天に任せるしかないな。仕事に集中しないと」
本音を言えばとても仕事どころではない心境だったのだが、淳はそんな不安を捻じ伏せ、鞄から取り出した資料を取り出して、到着するまでのわずかな時間を利用し、最終確認を始めた。
同じ頃、朝から体調が良くなかった為、部屋で休んでいた妹が居間に顔を出した為、美恵は少し驚きながら声をかけた。
「美実、起きていて大丈夫なの?」
「うん、何とか」
「もうお昼過ぎだけど、何か食べる? やっぱり匂いが駄目?」
「匂いが駄目って以前に、相変わらず食欲が無くて気持ち悪いわ」
青い顔でぐったりしながらソファーに腰を下ろした美実を見て、美恵が困惑した様に言い出す。
「全く、普通だったらそろそろ悪阻も収まるって時期に、急に始まっちゃうってどういう事よ。お腹の子が奥手なのかしら?」
「他人事だと思って……」
恨みがましく呻いた美実を見て、美恵は苦笑しながら宥めた。
「まあ、すぐ収まるでしょ。無理に食べないで、楽にしてなさい。しかしジャージとはね」
「だってこれ、楽なのよ。前開きだしお腹の調節も利くし」
「でも、まだお腹の膨らみが目立ってくる時期じゃないじゃない」
「気分よ、気分」
そんな他愛もない事を言い合っていると、大きな箱が入った透明なビニール袋を手に提げた美野が、ひょっこり姿を現した。
「ただいま」
「あら、早かったわね、美野」
「今日は講義が午前中だけだったの。それで帰る途中、美味しいって評判のケーキ屋さんに寄って買って来たんだけど、食べない?」
「けーき!」
「ありがとう。貰うわ」
美野の申し出に美樹と美恵は嬉しそうに応じたが、美実は申し訳無さそうに断りを入れた。
「あ~、せっかくだけど、クリーム系は駄目かも」
「そうだろうと思って、ムースやゼリーとかも買ってきたの。どうかしら?」
姉の反応を予期していた美野は、袋から取り出した箱を開けた。その中身を確認した美実が、プラスチックのカップに入ったムースやゼリーを見て、少し安堵した様に頷く。
「……うん、これなら大丈夫かも」
「良かった。じゃあ人数分お茶を淹れてくるから、ちょっと待っててね。美樹ちゃんは牛乳ね」
「うん!」
そして気の利く美野が台所に向かった後で、美実は漸くこの場に居る筈の人間が居ない事に気が付いた。
「そういえば、美子姉さんと谷垣さんは?」
その問いに、美恵が事も無げに答える。
「姉さんは、日舞教室の師範と次の発表会の演目決めを相談する為に、朝から教室に出向いてるわ。康太はこの前の旅行記をどう形にするかについて、出版社に打ち合わせに行ったの。専業主夫生活になったら、落ち着いて話もできないでしょうしね」
「確かに、安曇ちゃんを連れて出版社に行くのは難しいわね」
安曇をおんぶした康太を想像して、思わず笑ってしまった美実だったが、ふと思い付いた事を口にした。
「美恵姉さん」
「何?」
「以前美子姉さんが、自分で教室を開く様な話があったと思うんだけど」
その問いに、美恵は首を傾げながら答える。
「確かにあったみたいだけど、立ち消えになったんじゃない? その後、姉さんが結婚して美樹ちゃんが生まれたし、まだまだ手がかかるでしょ」
「じゃあ、美樹ちゃんの手がかからなくなったら、また考えるのかしら?」
「さぁ……、それはどうかしら。姉さんに聞いて頂戴。でも、どうしてそんな事を聞くわけ?」
いきなり脈絡の無い事を聞かれた様に感じた美恵は、不思議に思いながら尋ね返すと、美実は幾分申し訳無さそうに言い出した。
「その……、私まで出産したら、美子姉さんの行動範囲も、色々制限があるんだろうなとか……」
神妙にそんな事を言い出した妹を見て、美恵は肩を竦めた。
「そんな事、今更でしょう? 第一、姉さんはまだ若いし、これから美樹ちゃんの下にも産まれるんじゃない? もう少し年を取ってから、本格的に弟子を取る事にしたって遅くないわよ。姉さんの日舞歴は三歳からなんだから、この年で力量を認められてるんだし」
「それはそうかもしれないけど」
「つまらない事でうじうじ悩むのは止めなさい。らしく無いわよ」
「……うん」
笑いながら宥められて、美実は僅かに笑顔になって頷くと、そこでタイミング良く美野がお茶を淹れて戻って来る。
「お待たせ。お茶を淹れてきたわ。紅茶じゃなくて緑茶にしたから」
「ありがとう。ごめんね、美野」
「ううん。偶には良いわよね」
最近、紅茶の香りが駄目になった自分に合わせて茶葉を選択してきた美野に、美実は素直に礼を述べた。それに美野も笑い返し、皆で箱の中に手を伸ばす。
「けーき! たべよ?」
「そうそう。美味しい物は、もったい付けずにさっさと食べないとね。美樹ちゃんはイチゴのケーキかな?」
「うん!」
「じゃあ私はこれ」
「はい、どうぞ」
そして各自が皿にケーキを取り分け、和やかに食べ始めたが、そろそろ一つ食べきろうとする時に、門に設置してあるインターフォンの呼び出し音が鳴った。
「あ、私が出るわ」
万事マメな美野がすかさず立ち上がり、壁に設置してある操作パネルに歩み寄って、その受話器を取り上げて相手に問いかけた。
「はい、どちら様でしょうか?」
その間、他の面々は「美味しいわね」などと言いながらケーキを食べていたが、いきなり美野が素っ頓狂な声を上げた為、揃って何事かと視線を向けた。
「は、はいぃぃ!?」
「ちょっと美野、何事?」
「いきなり変な声を出して」
すると美野は受話器の送話口を手で押さえながら、狼狽しきった様子で姉達を振り返った。
「こっ、小早川さん! 門の所に、小早川さんのご両親が来てるの!」
「はぁ!?」
「何で、淳のお父さんとお母さんが来てるのよ!?」
美樹がキョトンとする中、美恵と美実は目を丸くしたが、美野はオロオロしながら姉達に意見を求めた。
「知らないけど! ど、どうしよう!? やっぱり美実姉さんに会いに来たのよね? 約束してたの?」
「聞いてないし! この格好で会えるわけ無いじゃない!」
「わ、分かったわ」
自分以上に狼狽しながら美実が口走った内容を聞いて、美野は硬い表情で頷いた。
「あ、ちょっと美野! 変な事を言わないでよ!?」
慌てて美恵が釘を刺そうとしたが一瞬遅く、壁に向き直った美野が、口調だけは落ち着き払って手短に告げる。
「こちらは自動音声対応システムです。誠に申し訳ありませんが、現在この家は留守にしております。後ほど、日を改めてご訪問下さい」
そして静かに受話器を戻してから、美野はまだ狼狽しながらお伺いを立ててきた。
「こっ、これで良いわよねっ!?」
それに対し姉二人から、唖然とした表情での感想が告げられる。
「美野……、あんたは私達の中で一番頭が良いし、いつもは誰よりも常識的な筈なのに……」
「パニクると、一番面白いかも……」
「え、えぇ!? 駄目?」
益々狼狽して声を上擦らせた美野だったが、それで我に返った美恵が盛大に叱りつけた。
「駄目に決まってるでしょう! 門前払いしてどうするのよ! すぐに謝って、中に入って貰いなさい!」
「はいっ!」
そして美野が慌てて再度受話器を取り上げるのを見てから、美恵は美実に向き直った。
「美実、あんたはそのジャージを何とかしなさい! 急いで着替える! ジャージやパジャマでなければ、何でも良いから」
「だけど美恵姉さん! いきなりこんな状況、心の準備が」
「そんな物、一分で何とかしなさい!」
「でもっ!」
泣きが入りかけている美実を美恵が叱りつけていると、先程以上に狼狽した美野の声が居間に響いた。
「美恵姉さん! 大変!」
「今度は何!?」
「ちょうど美子姉さんが帰って来て、今門の前で、小早川さんのご両親と立ち話をしてるの!」
「…………」
再び送話口を押さえながら、真っ青な顔で振り向いた美野を見て、最悪の状況に陥った事を理解した美恵と美実の表情が凍り付いた。その室内の不穏な気配を察知したのか、今の今までハイローチェアで大人しく寝ていた安曇が、突然むずかり始める。
「ふぎっ……、ふぇぇっ! うえぇぇっ!」
「ちょっと安曇。こんな時に限ってぐずらないで。お願いだから」
思わず愚痴を零した美恵だったが、それで何とか気を取り直し、矢継ぎ早に妹達に指示を出した。
「とにかく、美実は部屋で着替えて来なさい!」
「でも! 何を着れば良いの!?」
涙目で叫びながらも、美実が部屋を出て行くのを見送ってから、美恵は美野に言い聞かせた。
「美野は受話器を戻して、美樹ちゃんの面倒を見ながら、玄関を開けて出迎えてきて。さっき変な事を口走ったのを、謝ってくるのよ?」
「はい! ごめんね、美樹ちゃん。玄関まで付き合って」
「うん!」
そしてパタパタと二人が廊下に出て行くのと同時に、これまで以上に安曇が声を張り上げた。
「ふぎゃあぁぁ――――っ!」
慌てて美恵はハイローチェアから娘を抱え上げ、狼狽しながらあやし始める。
「安積、オムツ? それともお腹が空いたの? もう! 本当に勘弁してよ!」
そんな切実な美恵の叫びに反して、事態は坂道を転げ落ちる様に、悪化の一途を辿る事になった。