第10話 様々な伝聞
半月に一度定期的に訪れている、桜査警公社の広々とした一階ロビーに美子が足を踏み入れた途端、同伴してきた美樹が笑顔になってぶんぶんと勢い良く右手を振った。
「かづちゃ~ん! さくちゃ~ん!」
その場違いな声と姿に、フロア中の人間が驚いて美子達に視線を向ける中、美樹に呼び掛けられた老夫婦が、満面の笑みで歩み寄って来る。
「おう、美樹ちゃん。今日も元気で可愛いな」
「待ってたのよ? 今日もお母さんがお仕事中は、私達と遊びましょうね?」
「うん!」
「それでは美子さん、また後で会おう」
「はい、美樹を宜しくお願いします」
「任せて頂戴。さあ、行きましょうか」
あっさり二人に付いて上機嫌で歩き出した娘を見送った美子だったが、未だに社内で絶大な影響力を保持している元会長と元社長に子守をさせるのかと、事情を知らない社員や偶々居合わせた訪問者達の驚愕と戦慄の視線を一身に浴びてしまった美子は、小さく溜め息を吐いた。
(来る度に視線を集めるのは、何とかならないものかしら? 加積さんも桜さんも、わざわざ一階ロビーで美樹を待ち構えていなくても良いのに)
思わず愚痴っぽく考えていた美子に、控え目に声をかけてくる人間がいた。
「それでは会長、今日も宜しくお願いします」
「分かりました」
ひょんな事から、ここの会長職を桜から押し付けられて早三年。美子はこの間に色々達観し、恭しく出迎えに来た副社長の金田と彼の秘書の寺島に先導されて、会長としての業務をする為にエレベーターへと向かった。
そして会長室に入った美子が、寺島の指示に従い黙々と書類と格闘する事一時間強。一般的な興信所では不可能な組織や企業の内偵調査や、国内外の要人の警護や監視移送を高額で請け負う、特殊な組織であるこの桜査警公社で、門外漢の彼女がする仕事と言えば、諸々の事項の承認に必要な署名と捺印位の物ではあるが、溜められていた書類を何とか全部捌いて、溜め息を吐きながら顔を上げた。
「ええと……、これで全て終了かしら?」
「はい、ありがとうございます。そちらの応接セットにお茶の支度をさせますので、少々お待ち下さい」
一応確認を入れると、最後の書類を受け取った寺島が深々と頭を下げた。それに美子は頷いてから、静かに立ち上がる。
「分かりました。じゃあ加積さん達はお隣ね? 声をかけてきます」
「お願いします」
そして美樹を同伴して出向く様になってから、彼女の遊び部屋と化してしまった絨毯敷きの隣室へと続くドアをノックをしながら、顔を出した美子だったが、室内の光景を見て呆気に取られた。
「失礼します。書類を片付けましたので、今、お茶の支度を……」
「ぽいっ! まるっ! ぽいっ! かくっ! かくっ! ぽいっ!」
何やらしゃがみ込んだ金田が手にしている書類の山から、美樹が一部ずつ取り上げては、何やら声を上げながら加積や桜が持っている箱の中に、または床にそれを投げ捨てているのを見て、美子は戸惑いながら声をかけた。
「美樹? 何をしているの?」
しかし美樹は、簡単に答えて作業を続行する。
「よしき、しごと! ぽいっ! まるっ! ぽいっ! かくっ! おありっ!」
「やあ、綺麗に片付いたなぁ、美樹ちゃん」
「本当、お利口さんね」
「うん!」
誉められて嬉しそうに頷いた美樹だったが、美子には散らかした様にしか見えず、困惑した視線を夫妻に向けた。
「加積さん?」
「いや、ちょっと試しに美樹ちゃんに、仕事の仕分けをさせてみただけだ」
「仕事の仕分け……」
呆然としながら呟いた美子に、床に落ちた書類を拾い集めながら、金田が説明を付け加える。
「この一週間で、うちに持ち込まれた依頼の分類です。優先して引き受けるべき仕事は加積様がお持ちの箱に、余裕があれば受ける仕事は桜様の箱に、うちで受けなくても他でできる仕事や、物騒過ぎる仕事は床に捨てて貰いました」
しかしそれを聞いた美子は、本気で呆れた。
「金田さん! 美樹は適当に分けているだけよ? 口は達者でも、まだ読み書きはできませんから! 今の説明も、美樹が聞いても理解できない筈よ?」
その美子の訴えにも、その場の面々は平然と答えた。
「はい。ですから美樹様には『○の仕事は加積様に、△の仕事は桜様に、×の仕事は床に捨てて下さい』とお願いしました」
「別の意味で、益々無茶振りだと思うんですが!?」
「美樹ちゃんは表紙を見ただけで、勘で分けている筈よ? 流石に美子さんとあの子の子供だわ。凄いわねぇ」
「勘って、桜さん!」
「これがなかなか侮れなくてな。分類されたのを軽く見ただけでも、なかなか良い線をいってるぞ?」
「加積さんまで、冗談は止めて下さい!」
「これで桜査警公社は安泰です。美樹様が中学を卒業されたら、是非こちらに。これで私も十三年後には安心して引退できます」
「美樹は今、二歳なんですが!? 青田買いにも程がありますよ!」
とうとう悲鳴じみた声を上げた美子だったが、ここで加積達が唐突に話題を変えてきた。
「ところで『最終兵器投入』とは、何の事かな?」
「え?」
「妹さんが四人もいると、色々賑やかそうね」
「……はぁ」
美樹の話で動揺していた為、咄嗟に誤魔化す事ができなかった美子は、僅かに顔を引き攣らせた。
(する気も無かったけど、美樹に口止めなんて無理だったわね。遊んでいる間に、何をどこまで言ったのよ?)
夫妻の口調は穏やかながらも、うやむやに誤魔化せる空気では無かった為、美子は娘に恨めしそうな視線を向けた。そして状況を全く理解せず、にこにこしている美樹の横から、桜が楽しそうに笑いながら声をかけてくる。
「美子さん?」
そこで美子は隠すのを完全に諦め、入ってきたドアの向こうを指し示しながら提案した。
「分かりました。それでは向こうでお茶の支度をして貰っていますから、飲みながらお話します」
「そうか。じゃあ美樹ちゃん、おやつにしよう」
「うん!」
そして四人で移動し、ソファーで座ってお茶とオレンジジュースを飲みながら歓談に突入したが、美樹が黙々とケーキを食べている横で美子が洗いざらい美実と淳の顛末を語ると、加積は本気で感心した様な表情になった。
「それはまた……、大変だな」
「一人で産んで育てるのを決意するなんて、雄々しい妹さんね」
「はあ……」
桜は最初から最後まで面白そうな表情を変えずに話を聞いていたが、加積は比較的真面目に美子に声をかけた。
「しかし浮かない顔だな、美子さん」
「さしずめ、振り上げた拳の下ろし所が分からないと言った所かしら?」
桜に小さく笑われて、美子は思わず拗ねた様に顔を背ける。
「分かってらっしゃるなら、わざわざ口に出さないで下さい」
「あら、怒っちゃった?」
「……少々」
「まあ、ごめんなさいね」
(全然悪いと思っていなさそうなんですが?)
ころころと笑っていた桜だったが、ここで加積が軽く妻を窘めた。
「桜、あまりからかうな。だが美子さんも、もう少し放置したら頃合いを見て、ちゃんと当人同士で話し合いをさせた方が良いな」
「ですが」
「年寄りの言う事は、素直に聞くものだ。特に厄介な年寄りの言う事はな。そうしないと、後が面倒だぞ?」
(そういう理由付けをして、自分を納得させろと、そういう事ですか)
厄介な年寄りのカテゴリーで括ると、長年裏社会を陰で牛耳ってきた目の前の老人以上に厄介な年寄りには、日本中探してもそうそうお目にかかれない事は十分承知していた為、美子は苦笑いしながら小さく頷いた。
「分かりました。加積さんのご指摘に逆らうのは怖いので、頃合いを見て、きちんと当人同士で話し合わせる様にします」
「そうだな」
加積も苦笑いで頷いてからは美樹を交えて話は盛り上がり、それなりに楽しく一時を過ごして美子と美樹は桜査警公社を後にした。
その二人が乗り込んだタクシーを自社ビルの前で見送ってから、桜が同様に斜め後ろに佇んでいた金田を笑顔で振り返り、さり気ない口調で言い出す。
「金田? ちょっと調べて欲しい事があるのだけど」
「どういった事でございましょう?」
「あなたも給仕をしながら、会長室で聞いていたでしょう? 美子さんの妹さんと揉めた、彼氏さんの実家の事よ。温泉街の名称と小早川という名前が分かれば、調べるのは容易よね?」
「はい。それでは、どういった内容を調査すれば宜しいでしょうか?」
旅館の名称や住所と連絡先程度ならものの十分で判明する為、それ以上の事がお知りになりたい筈と、金田が察しを付けてお伺いを立てると、桜は微笑みながら容赦の無い事を言い出した。
「所在地や連絡先は勿論の事、旅館としての評価、温泉街での経営者一家の評判、旅館の経営状態、従業員の内情、主要取引銀行、提携先の旅行会社、不動産の評価、その他諸々、そこを潰そうと思った時に必要な情報全てよ」
すました顔で言ってのけた桜に、金田は僅かに眉根を寄せ、加積の顔色を伺いながら問い返す。
「……潰すおつもりですか?」
しかし加積は素知らぬ顔で微笑み返し、桜は平然と言い返した。
「だって、どう考えてもすんなり纏まる気がしないんだもの。潰すまでには至らなくても、『備えあれば憂いなし』と言うものね」
「恐れながら桜様の行為は、静まり返っている池に、岩を投げ込む如き行為かと」
一応控え目に苦言を呈してみた金田だったが、桜は全く聞いていない風情で、楽しげな笑顔を見せた。
「久しぶりに、信用調査部門の類い希なる調査能力と迅速な行動力を、実感させて頂戴ね?」
「畏まりました。少々お時間を頂きます」
加積が止めない以上、桜にそこまで言われて拒否する事はできなかった金田は、恭しく頭を下げてビル内に戻ってから、早速部下に指示を飛ばし始めた。
その筋では有名で物騒極まりない会社に実家が目を付けられてしまったなど、夢にも思っていなかった淳は、先輩である森口に半ば強引にスケジュールを調整させられ、仕事上がりに居酒屋に繰り出した。そしてテーブルに落ち着くなり言われた内容に、本気で閉口する羽目になった。
「さあ、小早川。洗いざらい吐け」
「席に着くなり、いきなり何を言い出すんですか?」
さすがに呆れて言い返した淳だったが、森口は全く恐れ入る事無く話を続ける。
「乾杯の後の方が良いなら、ビールが来るまでは待ってやるぞ?」
「大して違いはありませんよ。どうしていきなり問い詰められるのかと、聞いているんですが?」
「自覚が無いらしいな。この挙動不審男は」
おしぼりで手を拭きながら、軽く睨んできた森口から若干目を逸らしつつ、淳がぼそりと呟く。
「……そんなに変でしたか?」
「仕事に支障は無いが、それなら他はどうでも良いって事でも無いだろ。気になった連中から、お前の身の上相談に乗ってやってくれと頼まれたんだ」
「そうですか……」
そこで店員がビールジョッキを二つ持って来た為、それを持ち上げた森口が、気分を引き立てる様に明るい口調で言い出す。
「よし、取り敢えず乾杯するか。俺達の明る過ぎる未来に」
「乾杯」
(相変わらずだな)
淳は釣られて笑ってしまい、素直にジョッキを持ち上げて軽く打ち合わせてから、一口煽った。そこで真顔に戻った森口が、静かに声をかけてくる。
「さて、俺は弁護士だ。守秘義務の何たるかを、熟知しているつもりだが?」
「分かりました。降参です。洗いざらいお話しします」
神妙に淳が応じると、森口も瞬時に真剣な顔付きになる。
「粗方、見当はついてるがな。付き合ってる彼女との結婚を、家族に反対とかされたか?」
「反対されたと言うか……、結婚を申し込む前に、恋人に子供ができまして。それで振られました」
「何だそれは……。順序立てて、きちんと話せ」
眉間に数本皺を寄せた森口に向かって、淳は淡々と美実とのこれまでの事を語って聞かせたが、プロポーズしようと思ったら乱闘騒ぎになったという所で、森口は呆れ果てた顔付きになってビールジョッキから手を離し、藤宮邸での刃傷沙汰寸前の顛末の件の所で、両手で頭を抱えてしまった。
「……そういう訳で、今現在、彼女とは手紙のやり取りをしている状態です」
真顔で淳がそう話を締め括ると、森口は盛大に溜め息を吐いてから、ゆっくりと頭を上げた。
「あのな、小早川。今の話、突っ込み所が有り過ぎて、正直どこからどう突っ込んで良いのか分からないんだが。取り敢えず、この状況を何とか改善しようとは思わないのか?」
その問いかけを予想していた淳は、真剣な表情で言い出した。
「毎回彼女の姉に、出した手紙の添削をされて送り返されて来るので、この際ペン習字の通信教育を始めようかとも考えたのですが」
「おい、ちょっと待て!」
「それを美実に手紙で相談したら、彼女から『字の綺麗さを美子姉さんに認めて貰ってもどうにもならないし、そんな時間があったら判例集や法律改正条文に目を通した方が、遥かに有意義だと思うわ』と返事が来たので、思いとどまりました」
「うん……、冷静な彼女で良かったな」
僅かに顔を引き攣らせながら森口が応じると、淳は考え込みながら話を続けた。
「それからせっかくなので、美実に喜んでもらえる様に可愛いレターセットで書いてみようかと、本屋の文具コーナーで一時間程厳選して、五種類ほど購入してみた事もあったのですが」
「不審者として、警備員とかに怪しまれなかっただろうな?」
「美実から『何、この可愛すぎる便箋。淳の事だからこれだけじゃなくて、この類の物を五種類位購入していそうだけど淳のイメージに合わないし、職場で空き時間に書いていたら色々憶測を呼びそうだし、こういうのは使わない方が良いわよ』と微妙に不評なコメントが返ってきまして」
「本当に冷静だな、彼女……」
少々残念そうな表情でそう告げた淳を見て、森口は(こいつ彼女に関する事で、微妙に判断力が低下してないか?)と呆れながら溜め息を吐いた。
「『でもせっかく購入したのに捨てるのは勿体ないから、購入代金は私が払うから、美幸と美野宛てに送って頂戴。あの子達なら有効活用してくれるから』と言われたので、代金は良い事と経過と理由を簡単に書いて、彼女の妹達に贈りました。それで二人から、きちんと御礼状が届きました」
「お前の彼女、すこぶる冷静だし、妹さん達も礼儀正しいな」
「その手の事について、結構厳しい家風なんですよ。それで取り敢えず、今は美実に、猫の魅力を手紙で熱く語っています」
「はぁ?」
いきなり話が変わった上、飛んだ様に感じた為、森口は思わず間抜けな声を上げたが、淳は冷静に話を続けた。
「それに対抗して、彼女は俺に、犬の魅力を語っています」
「……おい」
「他にも色々な事について、手紙でやり取りを。他愛の無い事が大半ですが、ちゃんと付き合っていた頃より、相互理解が深まった様な気がします」
そんな事を堂々と言い切られてしまった為、呆れ果てた森口は思わず声を荒げた。
「あのな……。ガキまで作りながら、あっさり振られやがって。しかもこの状態で、ほのぼの文通しているとか、一体何の冗談だ!?」
その非難の声に、淳は真顔で頷く。
「ええ。あまりぐずぐずしていられないんですよ。出産予定日まで、あと三十週切りましたし」
「お前、本当に分かってるのか?」
「そのつもりです。取り敢えず父親の勤務先に連絡をして、今度こっそり会って貰う事にしました」
それを聞いた森口は、忽ち意外そうな顔付きになった。
「相手の父親? 世間一般的には、最大の難関だろうが?」
「電話をしてみたら、俺の口から直に詳細を聞きたいと言って貰えましたので。説明がてら、今後の事を相談します」
神妙に応じた淳を見て、色々察した森口はしみじみと述べた。
「そうか……。そうなると彼女の家では、さっき話に出た一番上の姉さんが一番の権力者で、誰よりも怒ってるんだな」
「そういう事です」
「分かった。もう少し黙って見守ってやる事にする。だが、早めにどうにかしろよ?」
「はい。そのつもりです。ご心配おかけして、申し訳ありません」
それからは「よし、景気付けに今日は奢ってやる」との森口の申し出を固辞したものの、幾つかのやり取りの後でありがたく受ける事にし、それなりに気分良く帰宅する事ができた淳だったが、帰宅早々かかって来た電話に、そのほろ酔い気分が吹き飛ぶ事になった。
「もしもし? 淳、ちゃんとご飯を食べてる?」
固定電話の受話器を取り上げて耳に当てるなり、聞こえて来た姉の台詞に、淳は思わずうんざりした声を出した。
「縁……。十八で家を出て以来、俺の一人暮らし歴が何年だと思ってるんだよ。食生活が乱れまくってるならとっくにくたばってるし、自己管理ができない弁護士に、依頼したいと思う人間なんか居るわけ無いだろう?」
わざわざ小言を言う為に、このタイミングで電話をかけてきたのかと、淳が少々気が重くなっていると、明らかに気分を害した声で縁が言い返してきた。
「相変わらず憎まれ口ばっかりね。偶には『心配かけて悪い』位は言えないの?」
「普段大して心配なんかしていないだろ。滅多に電話なんかしてこないくせに、嫌味を言う為にわざわざ電話してきたのか? よほど暇なんだな」
「本当にムカつくわね。用事があるから、電話したのに決まってるでしょう?」
「一体、どんな用事だよ?」
「あんた、少し前に『結婚しようと思うから、そのつもりでいてくれ』って言ってきた後、全然連絡を寄越さないんだもの。そこの所、どうなってるのよ?」
非難する口調でのその指摘に、淳は瞬時に神妙な口調になって押し黙った。
「……ああ、そうだったな」
すると電話の向こうで、縁が苛立ったように声を上げた。
「ちょっと、何黙ってるの? 『そうだったな』じゃないわよ。披露宴とかの具体的な日時が決まったら、早めに教えてくれないと困るのよ。どうせ東京でするんでしょう? 繁忙期の土日や連休中だったりしたら、一家揃って出席するのは無理だろうし」
「その事なんだが……。結婚は無期限延期だ。縁から親父とお袋に、そう言っておいてくれ」
「ちょっと淳! 無期限延期ってどういう事? あんた何かヘマしたわけ?」
言い難そうに淳が口にした内容を聞いて、慌てて問い返してきた縁に向かって、淳は少々八つ当たりめいた愚痴を漏らした。
「確かに、俺がヘマをしたと言えばそうなんだが……。美実と揉める事になったのは、お袋と縁のせいでもあるんだぞ?」
「はぁ? 私とお母さんが、何をしたって言うのよ?」
寝耳に水の事を聞かされて困惑する縁に、淳は溜め息を吐いてから話を続けた。
「去年、美実をそっちに連れて行った時に、奥の部屋で色々言ってたそうじゃないか。満足に挨拶もできないで、躾がなってないとか、手土産の一つも持ってこないなんて常識が無いとか」
「言ってたかしら?」
「他人事だと思って……。それこそ『言ってたかしら』じゃ無いぞ。大体、人の悪口なんて言った方は忘れても、言われた方はしっかり覚えているものだろ?」
「だってさすがに面と向かって、そんな事言ったりしないわよ?」
「だから親父と俺達が話してる時に、トイレを借りた美実が、通りすがりに聞いたんだよ」
少々恨みがましく淳が口にすると、縁が怪訝な口調で問い返した。
「何? その子、私とお母さんの話を立ち聞きしてたわけ?」
その物言いに、淳は僅かに声を荒げた。
「だから、通りすがりって言ったろ! そもそも悪口を言うなら、せめて相手が帰ってからにするのが、常識とか最低限の礼儀って物じゃないのか!? そのせいで美実は、俺の実家とは上手くいきそうに無いって、結構落ち込んでたんだからな?」
「怒鳴らないでよ。第一、今頃そんな事を言われても。文句があるなら、その時にきちんと言いなさいよ」
縁としてみれば当然の主張だったのだが、淳は疲れた様に溜め息を吐いてから続けた。
「美実が、今まで黙ってたんだよ。自分の家族に言ったら怒ると思って。第一、あの時はあいつに実家に連れて行く事は、全然言って無かったんだ。本当にスキーに行ったついでに、ちょっと顔を見せるだけのつもりで寄ったし」
「そうなの? だって淳が家に彼女を連れて来たのは初めてだったから、本気で結婚を考えてると思ったんだけど」
「勿論、そうだよ」
「だけど、かなり年下っぽいから凄く驚いたし、なんか落ち着きの無い子だなぁって思ったのよね」
「普段は落ち着いてるし、躾に厳しい良い家の娘なんだよ! それなのに今回、躾がなってない云々言われた事が明るみに出て、彼女の一番上の姉さんが激怒していて!」
思わず声を荒げた淳だったが、すぐに閉口したらしい縁が言い返してきた。
「分かったから、電話で喚かないで! じゃあその美実さんの、自宅の住所と電話番号を教えて頂戴」
「何でだよ?」
予想外の事を言われた淳が困惑しながら問い返すと、縁は若干疲れた様に提案してきた。
「お父さんとお母さんと相談して、先方に詫び状の一通でも送るわよ。その美実さんに、不快な思いをさせた事は間違い無いみたいだし」
「それはそうだが……。今更じゃないのか?」
「勿論そうでしょうけど、何もしないよりはましでしょう? それにあんたの話だと、あんた自身の問題もあるみたいだし、根本的な所は自分で何とかしなさいよ?」
尤もな意見に淳は真顔で頷き、その提案に乗る事にした。
「それは分かってる。じゃあ美実の住所と電話番号は、後から縁のアドレスにメールで送るから」
「そうして頂戴。あんたの結婚に関しては、今の所は未定だって、私からお母さん達に伝えておくけど、目処が付いたら本当に早めに連絡を寄越しなさいよ?」
「ああ、分かってる。他に話は無いなら、切るからな」
「ええ。それじゃあね」
そんな風に、最後はいつも通りの口調で会話を終わらせた淳だったが、受話器を元に戻しながら低い声で呟く。
「全く……。縁相手に、愚痴っても仕方が無いだろう。本当に今更だよな」
淳にしてみればその些細な出来事が、とんでもない騒動の幕開けだったとは、現時点では微塵も想像できなかった。
一方で、弟と久しぶりの通話を終わらせた縁は、その足で両親が揃って寛いでいる筈の居間に出向いた。
「縁、淳は何て言ってたの?」
顔を出すなり、座卓を囲んでお茶を飲んでいた母の良子が見上げながら尋ねてきた為、縁は母の反対側に座りながら正直に述べた。
「それが……、結婚話は無期限延期だそうよ」
「あら、どういう事?」
「何か、淳がヘマしたみたいで。それと、うちも原因の一つみたい」
「は? 何よ、それ?」
「どういう事だ?」
良子とは直角の位置に座っていた父親の潔も、読んでいた新聞を畳みながら尋ねてきた為、縁は二人に向かって詳細について語り出した。
「去年、淳が彼女を連れて来たじゃない? その時の事が、原因の一つらしいわ。何でも淳は実家に寄るって事を彼女に全く言わずに、不意打ちで連れて来たらしいの」
それを聞いた潔は、少々申し訳なさそうな顔付きになった。
「そうだったのか? それは緊張させてしまって、悪い事をしたな。確かに最後の方は、ちょっと様子が変だったし」
「ひょっとしてそれって、トイレに中座した後じゃない? 私とお母さんが、今時の子は躾がなってないとか、手土産の一つも寄越さないなんて常識知らずだとか言ってるのを聞いちゃったみたいで、うちとは上手く付き合えそうに無いとか、思ったみたいなのよ」
「そんな事があったのか?」
潔は驚いて良子と縁の顔を交互に見やったが、良子は平然とお茶を飲みながら述べた。
「あら、怖じ気づいたってわけ? それは確かに年がら年中着物を着てるような生活、ああいう子には馴染みは無いと思うし、いきなり実家がここだと言われて旅館を見せられれば、圧倒されるのは分かるけどね」
「確かに驚いて動揺はしていたが、別に怖じ気づいたとかでは無いんじゃないか? あの子、正座して話している時の姿勢は良かったし、言葉遣いもおかしくは無かったし、良い所のお嬢さんの様に見えたがな」
「あ、それは淳も言ってたわ。それで躾がなって無い云々を言われて、彼女のご家族が激怒してるとか」
潔がさり気なくフォローし、縁も相槌を打つと、それが微妙に面白くなかったのか、良子が不機嫌そうに尋ね返した。
「でもそれは去年の事なのに、どうして今頃そんな話が出るわけ?」
「彼女が黙ってて、最近それを口にしたらしいのよ」
「それなら別にそれほど、気にしてはいなかったんじゃない? 凄く気に障ったのなら、すぐに抗議すれば良いじゃないの。大方、他の事で淳と揉めて、ついでの様に話題に出ただけよ」
素っ気なく切り捨てた良子だったが、縁は困った様に両親の顔を見やった。
「確かに淳も、揉めてる理由は他にもあるって言ってたけど……。やっぱりうちとしても不愉快な思いをさせた事に対して、謝罪する姿勢は見せた方が良いと思うのよ。住所と電話番号は淳から教えて貰ったから、謝罪の電話か詫び状の一通でも、お父さんとお母さんから先方に出してくれないかしら?」
その提案に、潔は難しい顔で少し考えてから、重々しく頷いて見せた。
「それは確かにそうだな。結婚するとなったら親戚付き合いをする事になるし、その前に変なわだかまりは、極力解消しておいた方が良いだろう。私達で何か考えよう」
「そうしてくれる?」
「確かにね。この家と旅館はあんた達夫婦に任せる事にしてるのに、変に恨まれて『自分達にも経営に口を出す権利がある』なんて、相続時に横槍を入れられたらたまらないわ。穏便に纏めて、きちんと結婚前にそこの所をわきまえて貰わないとね」
突然真顔でそんな事を言い出した良子を、潔が軽く窘めた。
「良子。そんな財産狙いとも取れる様な発言は、止めた方が良いぞ?」
「だってそこの所をはっきりさせておかないと、後々揉めるわよ。せっかく縁に婿養子を取ったんだから、家を出た淳にはきちんと相続放棄をして貰わないとね。良い所のお嬢さんって言ったって、せいぜい都内で一軒家を持っている程度でしょう? たかが知れているわよ。うちを当てにして貰ったら困るわ」
「とにかくお願いね。余計に揉める事にだけはしないでよ?」
両親の会話を聞いて、微妙に心配になってきた縁だったが、潔と良子はあっさりと話を纏めにかかった。
「分かった。私達の方で、早々になんとかするから心配するな」
「もう休みましょう。明日も早いんだから」
確かに夜更かしも早々できない客商売に従事している為、縁はそこで全面的に両親に対応を任せる事にした。




