itinoroku
上空で生じた風が、全てを押し流すような勢いで下ってゆく。その力は絶大で、比類するものが無かった。しかし、どんなにその力が強かろうと、どんなにその力が絶対的であろうと、それには関係なく、全ての物は徐々に拡散し、やがて消えてゆく。風も同じだ。その風が木々の頂上を撫でるころ、力は無に等しくなり、そして完全に消滅していった。今では、その風が本当に存在していたのかさえ、知る事はできない。
絶対的な力を持った風すらも行き着けなかった場所。圧倒的な力を持った風すらも触れることのできなかった場所。そんな場所に、風よりもはるかに弱く、はるかに小さな影が三つ、動いていた。
アマとハル、それからツルが旅に出てから、約一週間が過ぎた。行程は概ね順調とは言えたものの、それでも予定よりも大幅に遅れているのも事実だ。その主な理由は、ツルが持っている大きなカバンにある。彼はなんと、食肉用乾燥機をそのまま持ってきてしまったのだ。
「なあおい、いいかげんにしろよ」
ツルが今日六度目の休憩を申し出たとき、ついにアマが不満を漏らした。
「そんな巨大なゴミなんて、捨ててしまえ」
ツルはびくりと震えた後、そろそろと背中のリュックに手をやった。
「えっ、でも……。これが無くなったら、何も食べられないじゃないか」
「良いんだよ。まだ干し肉がたくさんあるんだから」
「けど、それが無くなったら?」
「そんなもん、どうにでもなる。そこら辺から捕って食えばいいだけだろ」
アマの言葉を聞いて、ツルは困ったようにハルを見た。ハルはやれやれと口を出す。
「もう少ししたら、大きな道に出るはずだよ。そこではオトナに見つかる危険性が高くなる。もし見つかったら、その荷物は邪魔だと思うけど」
「ほらみろ。俺の言う通りじゃないか」
アマが得意げに胸を張った。二人から否定されて、しぶしぶと頷くツル。それから、縋るような目でアマを見た。
「うう……。分かったよ。でも、浄水器は捨てなくても良いよね?」
「あたりまえじゃねえか。浄水器を持って行くより、水を持って行った方がかさばるだろ。少しは考えろ、馬鹿」
「馬鹿って……。そこまで言わなくても」
ツルは瞳を小鹿のように潤ませて俯いた。それを見て、アマが慌てたように取り繕う。
「い、いや、馬鹿は言い過ぎた。悪かったよ。ほら、思ってもいないことが、つい言葉に出ちゃったと言うか……」
「でも、思ってなかったら口に出るわけないじゃんか」
ツルが口を尖らせた。ハルは経験から知っているが、こうなった時のツルは強い。周囲の言葉を、全て歪曲して捉えてしまうのだ。意図せずしてやっているのか、それともわざとなのかはハルには分からないが、アマはいつもこの状態のツルに手を妬いていた。
「ほら、あそこだ。あの道沿いに進めば、やがて薬缶横丁に着くはずだよ」
ハルはこの場を救うため、あえて明るい声を出した。ハルの指差す先には、大きな道が横たわっている。これまでのように土がむき出しの道ではなく、しっかりとコンクリートで固められた道路だ。
「さっきも言ったけれど、ここからはオトナ達に見つかる可能性が高い。いつでも対応できるようにしておいた方が良いよ」
言い終わると同時に、ツルとアマが緊張したように唾を飲むのが分かった。さすがのアマも、多少の緊張は隠せないようだ。
「おい、早くそれを捨てろ」
アマが低い声で促す。ツルは言葉もなく、すぐにその声に従った。それでもリュックから食肉用乾燥機を取り出すと、その歪な形をした機械を見つめ、暫し躊躇うように手を止めた。
「安心しろ。たとえ食い物がなくなっても、俺が何とかしてやるからよ。お前は黙って俺の言うとおりにしていればいいんだよ」
アマの力強い言葉に一つ頷いてから、ツルは食肉用乾燥機を思い切り放り投げた。投げられたそれは、自らの重さのために一メートルほど先に鈍い音をたてて落ちる。それを見届けて、ツルは問いかけるようにアマに目をやった。
「ああ。それで良いんだ。お前は間違ってない。もし後悔する事があったら、その時は俺のせいだ。ほら、さっさと行くぞ」
そう言うとアマは、すたすたと歩き出した。そんなアマを、ハルは片手で遮る。
「何だよ」
苛立たしそうに顔をしかめるアマに、ハルは黙ったまま顎でその建物を指した。そこには最近建てられたのであろう、真新しい木造の小屋が佇んでいた。
「何だ、ありゃ」
目を細めるアマ。ハルは小声で答えた。
「分からない。私が前に来たときには、あんなものは無かったはず」
「もしかして……」
ツルが怯えたような声を出す。
「もしかして、オトナたちがいるんじゃ」
「分からない。けど、誰かはいるみたいだな」
アマの視線の先を見ると、明るいにも関わらず煌々とネオンボードが輝いていた。
「なんて書いてあるのかな」
ネオンボードがよく見えるように、一歩踏み出しながらツルが聞いた。
「さあな。そんなもん、俺にわかるわけがねえだろ」
「バー・サイモン」
「えっ?」
ツルがハルに問い返した。
「だから、『バー・サイモン』って書いてあるんだよ」
「ばーさいもん? なんだそりゃ」
「うーんと、オトナたちがお酒を飲む場所」
「ふうん。なんだかよく分かんねえけど、まあいいや。んで、どうする?」
「どうするって?」
「あそこに乗り込むのか、それとも乗り込まないのか」
アマの意外な台詞に、ハルは思わず息を飲んだ。そんな彼女には関せずに、アマは勝手にバー・サイモンの方向へ歩を進める。既に彼の中では、自分たちがこれから何をするのか決まっているようだった。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
ツルがアマに駆け寄り、その腕を掴んで引き止める。
「どうしてあんな場所に行くんだよ」
「あ? 決まってるだろ。アイツらを倒すためだよ」
アマは面倒くさそうに、ツルの束縛を振りほどいた。
「そんなのできっこないよ。僕たちが敵うはずがないじゃんか」
「ふん。そんなの分からねえぞ。アイツらは俺たちが近くにいるのを知らない。充分に勝てるはずだ」
「そんなこと……。今ここで倒す必要なんて、どこにもないじゃないか」
「必要なくったって、やらなきゃいけないことはあるんだよ。お前らが付いてくるかどうかは勝手だけどな」
それだけ言い残すと、アマは再び歩き始めた。これまでオトナのせいで不便な生活を強いられてきたアマである。彼がこのような行動に出るのも、無理のない話だろう。
「あーあ、行っちゃった」
ツルがアマの背中を見送りながら、諦めたように呟いた。
「は、ハルは行かないよね?」
ツルの問いかけに、さあ、とハルは肩をすくめてみせる。
「どっちでも。ただ、あのまま一人で行かせるのも危ないかな」
「うーん、やっぱりそうだよね。けど、嫌だなあ。大丈夫かなあ」
ツルは、アマの後姿とハルを交互に見比べた。
「さあ。それは分からないよ。多分、大丈夫じゃないと思うけど」
「だよねえ。どうするのが良いのかな」
「自分で決めることだよ。私は……やっぱり行こうかな。あのままほっとけないし」
あえて、ハルは自分でも冷たいと思える言葉を選択する。そうするのが、ツルにとって一番良いと思ったからだ。
「そう……だよね。やっぱり。友達だもんね。それに、ハルも付いているんだったら……」
ツルはその言葉を自分自身に言い聞かせるように、視線を下に落とした。
三十メートルほど先には、既にアマが建物の前で身をかがめている。どうやら中の様子を窺っているようだ。それから確認するように、ちらりとハルたちがいる場所を振り返った。
「よし、行こう」
ツルは両拳を握り締め、早足でバー・サイモンへと近づき始めた。一拍遅れて、ハルもその後に続く。四本の足で落ち葉を踏む音が、今までよりもはるかに大きく聞こえた。
扉の前に着くと、二人はアマと同じように身をかがめた。耳を澄ますせば、中から甲高い笑い声が聞こえてくる。ハルは、手のひらが汗ばんでいる事に今ごろ気が付いた。そっと、ズボンでその汗を拭う。
「どうやら、三人ほどいるみたいだ。いいか、ハル。お前は絶対にしゃべるなよ」
アマは低い声でそう言うと、そのまま口を閉じて刺すような視線を扉へと向けた。そのまま、さらに腰を落とす。踏み込む機会を窺っているのかもしれない。
ふと、森のどこかで鳥が鳴くのが聞こえた。その声は、湖面のように滑らかで、ナイフのように研ぎ澄まされている。そして、その音はどこかに吸い込まれるように消えてゆき、やがて再び静寂が訪れた。
そのとき、中から何かが割れる音と共に、男の甲高い声が耳に届いた。間髪を入れず立ち上がり、ドアを蹴破るアマ。その手には鈍く光るナイフが握られていた。