馬車の中の時間
帰りの馬車の御者も、行きと同じ人でした。
馬車が動き出すか動き出さないかのうちに、ロザリー様は待ちきれず、といったご様子で話し出されました。
「とうとう私のことをお父様と呼んでくれたね、イラ。私はとても嬉しく思うよ」
改めて私は恥ずかしさを覚えました。言い訳をするかのような言葉が口から出ました。
「その、ロザリー様が私のことを養女だとお伝えになっていたようでしたので、あのようにお呼びしたほうが良いかと思いまして……」
「なるほど。もしよければ、屋敷にいる時でもそう呼んでくれて構わないのだよ」
「そんな、そのようなことなど致しかねます!」
慌ててそうお答え申し上げると、ロザリー様は「そうか、それは残念だ」と笑っておっしゃいました。
「ところでイラ、あの仕立屋はどうだったかい?」
「とても良いところでした。___夫人にも___嬢にも、とても親切にしていただきました」
そこでロザリー様はふと考えられるような素振りをなさいました。私はほんの僅かばかり、やるせない気分になりました。
「テイラー夫人と、テイラー嬢でございます」
「ああ、あの二人はそのような名前だったのだね。すまない、イラ」
きっとロザリー様からの謝罪を受け取るべきなのは、私ではなくテイラー夫人とテイラー嬢なのでしょう。そのようなことを考えて、私は自分の膝に目を落としました。
「……何を、むくれているんだい?」
ロザリー様が優しく話しかけてくださいました。私はゆっくりと首を振りました。
「むくれてなど、おりません」
ロザリー様はそれからは何もおっしゃいませんでした。
やがて私は胸に浮かんだ重大な質問をする決意を固め、慎重に慎重に口を開きました。
「ロザリー様……」
「なんだい、イラ?」
「私が死んでしまったら……、ロザリー様は私のことを、忘れておしまいになられますか」
ロザリー様はフード越しに私の顔を見据えられました。私は不安を抱きながらもそのお顔を見つめました。
ロザリー様の視線が、静かに下へ滑りました。
「少し、考える時間をくれないか。……そのような悲しいことを考えるのはおやめ、とも言えないのだろうね」
「はい」
ロザリー様はフードでお顔を隠すようにうつむかれました。
がたごとと、馬車が立てる音だけが聞こえていました。
「……私にとっても辛いことではあるのだけれどね」
前触れもなくロザリー様は口を開かれました。私は黙って続きのお言葉を待っていました。
「いつまでも絶対にイラのことを忘れない、と約束することはできない。これまで私はどれだけ多くの物事を忘れてしまったのかすらも、わからなくなっているからね」
「……ええ」と私は頷きました。
「このことがどれだけ君の心の慰めになるかはわからないけれど、イラ」
ロザリー様はご自身の手のひらを軽く開き、その中を覗くようにさらに視線を落とされました。それからゆっくりとお顔を上げられました。
「私はきっとライラックの季節を迎える度に、ライラックが香る度に、君のことを思い出すだろう。長い年月のうちに君との思い出が私の中で小さな断片に割れてしまっても、その中のひとつ、せめてひとつは花の香りに浮かび上がってくると……、そうであるようにと願っているよ」
フードを目深にかぶり表情の見えないそのお姿が、ひどく痛々しいもののように見えました。
そんなロザリー様を見た途端、胸を刺されたかのような思いがしました。他ならぬロザリー様こそがいちばん孤独でいらっしゃるのだと。
「……申し訳ありません、ロザリー様」
私は途方もない不安と自分の考えの浅さへの後悔に押しつぶされそうになっていました。ロザリー様は腕を伸ばし、私の髪にそっと触れてくださいました。
「そんな泣きそうな顔をするのはおやめ。君が、もしも君が望むのなら……」
ロザリー様は突然、はっとしたように口を噤まれました。
「ロザリー様?」
「……いや、なんでもないよ、イラ。今の言葉は忘れてくれ」
ぽん、と私の頭に手をお置きになって、ロザリー様はそうおっしゃいました。
ロザリー様が手をお戻しになる拍子に、ひんやりとした指先が私の頬を掠めました。




