表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永いメイドの手記  作者: 稲見晶
XIV 霧中
198/213

見返り

「秋分も過ぎたね。もう出て行くんでしょ」

 鍵盤奏者は私にあの薄緑の液体を渡しながら言いました。

「ええ。……長い間、お世話になりました」

「それじゃあ、僕が音楽を教えるのもこれで終わり。ひとりで歌うには不自由しないくらいにはなったよね」

 突然告げられたその言葉に驚きながらも、私はうなずきました。

「はい。ありがとうございました」

「……長かったな」

 彼は楽譜を畳んで「これ、片付けて」と私に手渡しました。


 壁の書棚に向かって楽譜を納めるべき場所を探していると、背後から声がしました。

「ねえ、君」

「なんでしょう?」

 不注意に答えてしまいました。右腕に触れるものがありました。それは肘の辺りからゆっくりと肩へ這い上りました。

「見返りがほしいな。君たちを匿ったことと、君に音楽を教えたことへの」

 その濃密な気配に、私は振り向くことができませんでした。立ちこめる霧に視界を奪われていくような気分でした。


 鍵盤奏者は耳元でささやきかけました。

「別に難しいことじゃないよ。今の君でも充分できること」

「……歌、ですか……?」

 私が差し出せるものは、ほとんどそれしかないように思えました。

「ううん」

「それでは、血……?」

 軽侮するような笑い声が耳に届きました。

「ロザリーの味の血なんか、いるもんか」

「一体、何だというのですか」

 声が震えそうになるのを抑えました。

 冷たい手が肩から動いて喉元に搦みつきました。背中に鍵盤奏者の体を感じて身が強張りました。彼の顔がほとんど私に触れるほどに寄せられたのがわかりました。

 その声はぞくりとするような冷たさで、耳に入り込みました。

「君を一晩、好きにしたいだけだよ」


「……どういう、意味です」

 私は書棚に手を置いて体を支え、足が震えそうになるのを押し隠しました。

「わからないほど子供じゃないでしょ?」

 耳が羞恥に熱くなりました。ここで気圧されてはいけないと、自分を奮い立たせました。

「あなたは……、音楽に対して不実な真似はしないと言っていました」

「もう関係ないよ。君に音楽を教えるのも終わらせたからね」

 ささやき声が肌に感じられました。心臓が冷たく早鐘を打ちました。

「私のような貧相な女には、興味がないのではありませんでしたか」

「だいぶ健康的になってきたじゃないか。これならいいよ」

 肉付きを確かめるように、彼は左の手のひらを私の腰に当てて指先でさすりました。感情が先走るばかりで彼を拒む理由を思いつけませんでした。

 ロザリー様に助けを求めようと息を吸うと、喉元の手がすかさず口を塞ぎました。

「よく聞いてよ。別荘だってロザリーに貸すお金だって、僕はいつでも取り上げられるんだ。なんなら、真昼に君たちをここから追い出したっていい」

 私は首を振りました。かすかな笑い声が首筋を這い、「それがいやなら……、ね?」と口を塞ぐ手が離されました。背後の冷たさに体が震えました。


「今ならロザリーの警戒も薄いから、ちょうどいい。……君の番犬が油断したせいで、かわいそうだね」

 彼の指先が顎をなぞり、耳へと冷たい筋を描きました。歯を食いしばって屈辱を耐えました。

「……ロザリー様には、言わないでください」

「いいよ。上手くごまかしてあげる」

 君でもロザリーに隠し事ができるんだね、と彼は面白がっているようでした。


「なら、いいんだね?」

 私は一度だけ頷きました。

「じゃあ僕の部屋においで。案内するよ」

 彼の右腕は再び私の肩を抱く位置に下りました。

「……離してください。ちゃんとついて行きますから」

 精いっぱいの抵抗でした。

「そう? わかった」

 彼はあっさりと手を離しました。書棚にぴったり背を付けて振り返ると、鍵盤奏者は目を細めて私を見ていました。

 私は彼を強く睨みつけました。彼はその視線を露とも気にしていないようでした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ