見返り
「秋分も過ぎたね。もう出て行くんでしょ」
鍵盤奏者は私にあの薄緑の液体を渡しながら言いました。
「ええ。……長い間、お世話になりました」
「それじゃあ、僕が音楽を教えるのもこれで終わり。ひとりで歌うには不自由しないくらいにはなったよね」
突然告げられたその言葉に驚きながらも、私はうなずきました。
「はい。ありがとうございました」
「……長かったな」
彼は楽譜を畳んで「これ、片付けて」と私に手渡しました。
壁の書棚に向かって楽譜を納めるべき場所を探していると、背後から声がしました。
「ねえ、君」
「なんでしょう?」
不注意に答えてしまいました。右腕に触れるものがありました。それは肘の辺りからゆっくりと肩へ這い上りました。
「見返りがほしいな。君たちを匿ったことと、君に音楽を教えたことへの」
その濃密な気配に、私は振り向くことができませんでした。立ちこめる霧に視界を奪われていくような気分でした。
鍵盤奏者は耳元でささやきかけました。
「別に難しいことじゃないよ。今の君でも充分できること」
「……歌、ですか……?」
私が差し出せるものは、ほとんどそれしかないように思えました。
「ううん」
「それでは、血……?」
軽侮するような笑い声が耳に届きました。
「ロザリーの味の血なんか、いるもんか」
「一体、何だというのですか」
声が震えそうになるのを抑えました。
冷たい手が肩から動いて喉元に搦みつきました。背中に鍵盤奏者の体を感じて身が強張りました。彼の顔がほとんど私に触れるほどに寄せられたのがわかりました。
その声はぞくりとするような冷たさで、耳に入り込みました。
「君を一晩、好きにしたいだけだよ」
「……どういう、意味です」
私は書棚に手を置いて体を支え、足が震えそうになるのを押し隠しました。
「わからないほど子供じゃないでしょ?」
耳が羞恥に熱くなりました。ここで気圧されてはいけないと、自分を奮い立たせました。
「あなたは……、音楽に対して不実な真似はしないと言っていました」
「もう関係ないよ。君に音楽を教えるのも終わらせたからね」
ささやき声が肌に感じられました。心臓が冷たく早鐘を打ちました。
「私のような貧相な女には、興味がないのではありませんでしたか」
「だいぶ健康的になってきたじゃないか。これならいいよ」
肉付きを確かめるように、彼は左の手のひらを私の腰に当てて指先でさすりました。感情が先走るばかりで彼を拒む理由を思いつけませんでした。
ロザリー様に助けを求めようと息を吸うと、喉元の手がすかさず口を塞ぎました。
「よく聞いてよ。別荘だってロザリーに貸すお金だって、僕はいつでも取り上げられるんだ。なんなら、真昼に君たちをここから追い出したっていい」
私は首を振りました。かすかな笑い声が首筋を這い、「それがいやなら……、ね?」と口を塞ぐ手が離されました。背後の冷たさに体が震えました。
「今ならロザリーの警戒も薄いから、ちょうどいい。……君の番犬が油断したせいで、かわいそうだね」
彼の指先が顎をなぞり、耳へと冷たい筋を描きました。歯を食いしばって屈辱を耐えました。
「……ロザリー様には、言わないでください」
「いいよ。上手くごまかしてあげる」
君でもロザリーに隠し事ができるんだね、と彼は面白がっているようでした。
「なら、いいんだね?」
私は一度だけ頷きました。
「じゃあ僕の部屋においで。案内するよ」
彼の右腕は再び私の肩を抱く位置に下りました。
「……離してください。ちゃんとついて行きますから」
精いっぱいの抵抗でした。
「そう? わかった」
彼はあっさりと手を離しました。書棚にぴったり背を付けて振り返ると、鍵盤奏者は目を細めて私を見ていました。
私は彼を強く睨みつけました。彼はその視線を露とも気にしていないようでした。