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永いメイドの手記  作者: 稲見晶
XIV 霧中
197/213

歌のために

 それから私は、鍵盤奏者から音楽を習いました。その間隔は実に気まぐれで、2、3日続けて呼ばれることもあれば、ずっと声がかからないこともありました。

 ロザリー様に言っていた言葉に違わず、鍵盤奏者は音楽に対してはとても真摯でした。私は音符とそれに対応する高さや長さなどを叩き込まれました。

「感覚で歌わないで。楽譜をしっかり見て」

 彼は何度も私にそう言いました。楽器はほとんど使われず、私が楽譜から音を取れるようにするための訓練が主でした。

 彼の指示は曖昧なうえにとても厳しいものでした。聞いたことのない言葉も数多く出てきて、私はそれをひとつずつ必死で頭に入れました。


 そして彼は私の声の変化には私自身以上に敏感でした。

「しばらく休んで。一言もしゃべっちゃだめ」

 その言葉はいつも唐突に出てきました。私は椅子に座ってじっと休憩していました。その間彼は自分の演奏の練習をしていました。何度聴いても彼の音楽は素晴らしく、私はほうっと聴き惚れました。

 練習を終えると、彼はとろみのある飲み物を一杯私に飲ませました。それは緑がかっていて、何か色々なものを混ぜて漉して作られているようでした。

「……それが飲めるなら、舌が利かないままの方がいいな」

 ぽつりと呟かれた言葉にひどく不安を覚えました。中身を訊きましたが、「言ったらたぶん飲まなくなるだろうから、言わない」と拒否されてしまいました。


「イラに変なものを飲ませないでくれ」

 ロザリー様はそのことを知ると鍵盤奏者に言ってくださいました。

「人間が普通に食べるものしか入れてないよ」と鍵盤奏者は取り合いませんでした。

「それなら私が確かめてみよう。持ってきてくれ」

 ロザリー様は薄緑の液体がグラスに少量注がれた時点で眉を寄せられました。一口召し上がり、すぐに鍵盤奏者にグラスを返されます。

「別におかしなものは入ってなかったでしょ」

 顔をしかめられたままのロザリー様に、鍵盤奏者が涼しい顔で言います。

「……君もこれを飲んでいるのかい」

「なんで? 僕は別に歌うわけじゃないし」

「自分が飲めないものを人に飲ませるのはいかがなものだろうかね」

 苦々しいお声でした。

「彼女が飲めてるんだから、いいじゃないか。君はもう口出ししないで」

 鍵盤奏者はそれ以上その液体について話そうとはしませんでした。ロザリー様もその味や中身については言葉を濁されていらっしゃいました。

 結局、自分があの時に何を飲んでいたのかは今でも分からずじまいです。


 だんだんと私は鍵盤奏者と言葉を交わすようになりました。彼は私に対しては、たいていロザリー様に向けるようなぶっきらぼうな態度をとっていました。その話を聞いているのか聞いていないのかわからない様子に、つい弱音が漏れました。

「……私は、歌など歌っていてよいのでしょうか」

「今の君、歌う以外に取り柄ないじゃないか」

 書見台に向かってペンを走らせる彼は、私には目もくれず答えました。

「だとしても……。これから行くあても決まっていないのにこのような……」

「僕の別荘使う?」

 思わず聞き流してしまいそうになるほど、自然な口調でした。

「……別荘があるのですか?」

「どこかにいくつかあったと思うけど。昔もらったから」

「使わせていただけるのなら、ええ……。本当によろしいのですか?」

 降って湧いた幸運にぽかんとしていました。

「別に僕は使ってないし」

「まあ……。ありがとうございます」

「それじゃあこれ、歌って」

 鍵盤奏者は書き上げたばかりの楽譜を私に手渡しました。もしかしたら私を歌に専念させるための方便かもしれないという疑いがちらりと頭をよぎりましたが、地下室を出ると彼は別荘の地図を何枚かくれました。


 ロザリー様は私が音楽を習っている間は、この家を出てからのことをお考えのようでした。部屋にはロザリー様の筆跡の書き付けが増えていきました。

 ロザリー様は、私にはいつも明るい未来ばかりを話してくださいました。

 今思えば、お金のことや家を出てからの道のり、暮らしを立てていく手段など、考えなければならないことはロザリー様がすべて考え、飲み込まれていたのでした。

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