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永いメイドの手記  作者: 稲見晶
XIV 霧中
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楽譜

 心配事は尽きませんでしたが、私は自分の心を慰めるために歌を歌いました。ロザリー様はそれに耳を傾けてお褒めの言葉を下さいました。この時となっては、歌だけが、唯一ロザリー様のために差し上げられるものでした。


 そんなある時に、突然扉の開く音が音楽に割って入りました。鍵盤奏者が立っていました。

「ねえ、今歌ってたの……、君?」

「はい……。あの、すみません――」

 もしかしてうるさかったのだろうかと、私は謝りかけました。鍵盤奏者はつかつかと近付いてきて私に紙を突き付けました。

「これ歌ってみて」

 思わず受け取ってしまいました。たくさんの線と丸や記号が規則的に描かれていました。私は困惑して彼を見ました。

「……楽譜が読めないの?」

 楽譜というものがあるということは知っていました。けれども実際にそれを見るのは、この時が初めてでした。


「これが、楽譜……なのですね」

 そう呟くと鍵盤奏者はため息をつきました。

「そこから? ロザリー、この子借りてくね」

「何をするつもりだ」

 ロザリー様は声音を鋭くされました。

「楽譜の読み方を教えるんだよ。悪い?」

「私も行こう。イラを君と二人きりにはさせられない」

 腰を上げられたロザリー様に、鍵盤奏者は冷たく言いました。

「君はこの子甘やかすだろうから、いらない。……それに僕は、音楽に対して不実な真似だけはしない」

 灰色の視線がぶつかり合いました。

「……信じるぞ」

 ロザリー様が彼を睨みつけたままスツールに座り直されました。鍵盤奏者は小さく頷きました。

「行っておいで、イラ。万が一のことがあれば、逃げるなり大声を出すなりしなさい」

「はい、ロザリー様」


 ロザリー様はなおも続けられました。

「部屋の扉は開けていてもらえるのだろうね。話し声とまではいかないにしろ、歌や楽器の音は届くようにしていてくれ」

「はいはい」

 鍵盤奏者は受け流すように答えました。

「君、おいでよ」

 彼に促され、私はロザリー様を振り返りながら部屋を出ました。


 連れて行かれたのは地下室でした。絨毯が敷かれた階段を下り、厚い扉をくぐります。

 最初に壁一面の書棚が目に入りました。大きな鍵盤楽器が2台、壁から距離をとって置かれています。楽器の傍らと壁沿いには書見台が立っていました。

 ぽかんとしていると「こっち」と鍵盤楽器の近くに私を呼びました。彼は既に椅子に座って演奏の手筈を整えていました。

「楽譜は持ってきたよね」

「はい……」

 私は楽譜をちょっと持ち上げました。

「今からそれ弾くから、よく聴いてて。単音だから聞き取れるよね?」

 そう言うなり彼は息をつき、鍵盤に指を落としました。私は訳もわからないまま必死で楽譜を見ていました。


 やがて彼の演奏は終わりました。私は呆気にとられるばかりでした。

「どう、わかった?」

 何をどうわかれば良いのかすらもわからずに首を振りました。彼はため息をついて「来て」と言いました。

 楽譜を手に近付くと、彼は楽譜を長い指で指し示しました。

「これがそれぞれ一音。上の方は音が高くて、下の方は音が低い。今僕が弾いたのはここ。いい?」

 私は頷きました。そう思って楽譜を見ながら先ほどの音楽をたどります。音符を指でなぞって鼻歌のように記憶を口ずさみました。

「飲み込みがいいね」

 彼は満足そうに笑いました。初めて彼が素直に感情を表に出すのを見たように思いました。


「じゃあ、僕と合わせて……」

 鍵盤奏者は片手で拍をとり、私に合図を出しました。不思議なことに、楽器と合わせると私の歌声はどこかちぐはぐなような、感覚となじまないところがありました。ついに鍵盤奏者の手は途中で止まってしまいました。

「あの……」

 申し訳ない気分になって私は声をかけました。

「君、楽器と合わせたことある?」

 彼は私を見ずに尋ねました。

「いいえ……」

「誰かと歌ったことは?」

「ありません」

 鍵盤奏者は天井を仰ぎました。

「……それなら他の子を最初から仕込んだ方がいいや」

 理由はわかりませんでしたが、私は彼を落胆させてしまったようでした。


「君、ほかのものと合わせられる歌い方じゃないんだ。音律を自分の歌いやすいように変えてるでしょ」

 彼の言葉の意味もわからず、首をかしげました。

「本当に、ロザリーの籠の鳥じゃないか」

 鍵盤奏者は深くため息をついた後に私に灰色の瞳を向けました。

「このままじゃ僕の気が済まないし、楽譜の読み方は教えてあげる。……君ともっと早く出会えればよかった」

 愁いを帯びた声でした。ふとロザリー様と似通った雰囲気を感じてしまい、私はどきりとしました。

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