残りの日々
匂いや味の感覚は私の中から失われてしまっていました。ロザリー様は私に目を瞑らせ、色々な食べ物を私の口に入れられました。形が見えない状態では食感からそれが何かを考えるしかなく、舌も鼻も利かなくなっていることを思い知らされました。
うっかりとおかしなものを食べてしまってはいけないため、私がものを口にする前には必ずロザリー様が確認してくださることになりました。
ロザリー様はずっと穏やかに私を慰め、励ましてくださいました。
「イラ、大丈夫だ。暮らしが落ち着いて時間が経てば、きっと治るさ」
「はい、ロザリー様……」
そうお答えしてはいましたが、味気ない食事をとるたびに悲しさは揺り戻されました。
このまま、ロザリー様のお作りになる香水も感じられないのではという考えが、何よりも私の心を打ちひしぎました。
それでもロザリー様がお元気になられ、私も動き回るのに支障はありませんでしたから、そろそろ鍵盤奏者の家を出ることを考えなければなりませんでした。
鍵盤奏者は終始淡々と話していました。
「僕としては早く出ていってほしいんだけど。家に女の子呼べないの、いろいろ面倒くさいんだよね」
「知っているよ。ただ、彼女が治るまでは、あまり動かない方がよいのではないかと思ってね」
「そんなの、いつになるかわかんないじゃないか」
ロザリー様は私を心配なさるあまりに臆病になっていらっしゃるように見えました。私は申し上げました。
「ロザリー様、私ならば平気でございます。今の私にはむしろ外の刺激に触れることも必要なのかもしれません」
「そうかい……?」
ロザリー様はなおも眉を寄せられたままでした。考える時間をとって、ロザリー様はおっしゃいました。
「それならば秋分の次の新月に出て行くこととしよう。私の都合だけれども、昼が長いと身動きが取りにくい」
「あと一か月くらいだね」と鍵盤奏者は言い、「それなら別にいいよ」と続けました。
「助かるよ。それまでに行くあてを考えておこう」
「……お屋敷には、戻れないのですね」
ロザリー様はとても優しい声音で「残念だけれどね」とおっしゃいました。
お屋敷が、あの日の人間たちの手によって焼かれてしまっていたことを知ったのは、ずっと後のことでした。私はその様子を見てはいませんが、ロザリー様はかろうじて燃え残った地下室で太陽の光を避けていらしたとのことです。
あの日以来、お屋敷には帰っていません。戻って様子を確かめる勇気も私にはありません。
……畑やライラックも、燃えてしまったのでしょうか。
「どこへ行ってみたいという望みはあるかい」
この家を出て行くという話が決まり、ロザリー様は明るく私に尋ねてくださいました。
「君は書物をよく読んでいたからね。森の外に憧れることもあっただろう。山の上や、草原や……。ほとぼりが冷めるまでは調香の仕事も止めておくつもりだから、潮の匂いがする海辺もよいかもしれないね」
「ええ、ロザリー様」
私も笑ってお応えしました。けれどもいちばん行きたいところは、もちろんロザリー様と長い年月を送った、森の中のあのお屋敷でした。その気持ちは胸の奥にしっかりと押し隠していました。
人里離れた空き家にこっそりと移り住むというのがロザリー様と私の理想でした。ただそのような空き家がどこにあるのかはわからず、話はいつもそこで止まってしまいました。
食事はいつも味気なく過ぎていきました。
「イラ、この菓子にはブランデーが使われているよ」、「このチーズはだいぶ塩気が強いようだ。少しずつ食べなさい」と、ロザリー様は私の味覚や嗅覚を呼び覚ますために、事細かに味や香りを伝えてくださいました。私はそのお言葉から味を想像して食べ物を口にしましたが、やはり風味は感じとれないままでした。
食べる喜びも失われ、私はすすんでものを食べようとはしなくなりました。
ロザリー様は私の食べるものから食べる量まで、つきっきりで見守っていてくださいました。