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永いメイドの手記  作者: 稲見晶
XIV 霧中
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瓶の中

 閉め切った家の中では、今が朝なのか夜なのか、幾日が経っているのかもわかりませんでした。私は静かに過ごし、時折ロザリー様のお望みに応じて歌を歌いました。春の光のように明るくゆったりとした曲をよく選びました。

 瞼が閉じていたためにはっきりとはわかりませんでしたが、ロザリー様はこの頃にはもうほとんどずっと起きていらしたのではないかと思います。

 ロザリー様は慎重に部屋の中を立ち歩かれるようになり、ベッドはほとんど私が眠る時に使われるだけとなりました。


 ある時、私が目を覚ますと、灰色の瞳がありました。

「やっと君の顔が見えるようになったよ」

 私は「ロザリー様……」と一言だけ言って、ずっとその穏やかな色を見ていました。


 ロザリー様がすっかりとお元気になられて、もう心配することなど何一つないように思えました。

「ロザリー様、何か召し上がりますか?」

「ああ、頼むよ。そうだ、食べ物を取りに行くのなら私も付いて行こう」

 ロザリー様と私は台所へ向かいました。私が葡萄酒の瓶を引き出すと、ロザリー様は「なるほど、ここに隠していたのか」と呟かれました。


 堅いパンと干した果物、そして一本の瓶を持って部屋へ戻りました。

 ロザリー様はささやかな食卓の支度をする私を常に目で追っていらっしゃるようでした。

「イラ、グラスは2つでいいのかい」

「ええ、ロザリー様……?」

 鍵盤奏者が入ってくることもないでしょう。ロザリー様と私の分だけの用意で良いはずでした。


 干した果物をかじり、パンを口にします。ロザリー様はそれらを召し上がるよりもグラスを傾けていらっしゃいました。

 口の中が乾いてきたのを感じて、私もグラスに手を伸ばしました。不意にその手に冷たい感触が巻き付きました。ロザリー様が私の手を掴んでいらっしゃいました。グラスの中の赤色が円を描くように揺れました。

「何をしているんだい、イラ」

 ロザリー様は険しい表情で私を見据えていらっしゃいました。そのお顔には、何か言いようのない不安げなものが滲んでいました。

「私も葡萄酒をいただこうかと……。……いけませんでしたか?」

 こわごわと申し上げると、ロザリー様の眉が寄せられました。「葡萄酒……?」と私の手首をご自身の方へ引き寄せられ、グラスの中を嗅がれます。何もおっしゃらずに首を小さく振られました。


「……イラ、君はこれが葡萄酒だと思うのかい」

 ロザリー様のお言葉に戸惑うばかりでした。

「ええ、もちろんでございます……」

 ロザリー様はそっと私の手からグラスを取られました。ベッド脇の台にそれを置き、長くそれをご覧になっていました。幾度か灰色の瞳が重く瞬きました。

「いかが……、なさったのですか、ロザリー様……?」

 ロザリー様は「本当に、わからないのかい」とだけおっしゃいました。私はただ首を横に振りました。

 ロザリー様は答えを告げることを怖がっていらっしゃるようでした。

「……イラ、私が言うことを受け入れてくれるね」

「もちろんでございます、ロザリー様」

 得体の知れないことへの怯えは募るばかりでしたが、私はロザリー様のお顔を見上げました。

「これが……、これが葡萄酒なものか。イラ、これは血だ。……人間の血液だよ」

 嘘偽りは一片たりとも感じられませんでした。私はこれまで気付いていなかったことへのおぞましさに震えました。


「おかしいと感じなかったのかい? 葡萄酒にしては金臭く、生臭いと」

「え……?」

 そのお言葉に引っかかるものを感じて、私は「少し、貸していただけませんか」とロザリー様にお願い申し上げました。

 ロザリー様は迷いながらもグラスを私の前へ差し出してくださいました。指先はしっかりとその脚を握っていて、私に手渡されるおつもりはないようでした。

 手を添えて顔を近づけます。気を付けて匂いをかいでみましたが、金気も生臭さも感じとることはできませんでした。

 私の戸惑った表情から、ロザリー様もそのことを察したご様子でした。

「イラ、君は……。匂いがわからないのかい」

 乾いた唇からは「ええ……」と申し上げるのが精いっぱいでした。

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