木箱
ロザリー様の唇がかすかに動きました。
「イラ」
私がいることをご存知のお口ぶりでした。
「はい、ロザリー様」
「私はどれくらい眠っていたのかな」
答えを申し上げようとして言葉に詰まりました。この家の中はずっと暗く、私は時間の感覚をすっかり失ってしまっていました。
「……申し訳ありません、私にもわかりかねます……。ですが、それほど長くはなかったかと存じます」
「そうか」とロザリー様は応じられました。
「ところで、君は何か口にしたかい」
「いいえ……」
私は途切れ途切れに、台所にあった食べ物のこと、鍵盤奏者への贈り物に手をつけるのがためらわれることをお話しいたしました。
ロザリー様は静かに聞いてくださいました。
「確かに君の言うことはもっともだ。ただ、やはりそれらは君が食べてしまってよいものだと思うよ」
ロザリー様は瞼を閉じたまま私に顔を向けられました。
「君が食べなければ、この家の中でただ悪くなっていくだけだろうからね。まったくの無駄にしてしまうよりはよいだろう」
「……はい、ロザリー様」
ロザリー様は安心したように笑われました。
「それならば、早速行っておいで。ここに食べ物を持ってきてもいい」
私はそれに従って再び台所へ向かいました。鍵盤奏者と出くわさないようにできるだけ足音を忍ばせました。
棚から木箱をひとつ取りだします。中身は木の実の入ったずっしりとしたケーキでした。表面はつやつやと白っぽい衣で覆われていました。
まだ食べられそうなことを確かめて、私はそれを持っていくことにしました。かろうじて見つかったスプーンを、切り分けるためのナイフの代わりに手にしました。
戻ってみるとロザリー様はベッドの上に起き上がっていらっしゃいました。
「木の匂いがするね」
「木箱でございます。中にはケーキが入っておりました」
私は箱をベッドの横の台に置いて蓋を取りました。ロザリー様は「よい香りだ」と呟かれました。
「ロザリー様も、どうぞ召し上がってくださいませ」
ざくりとスプーンを差し入れて大きな塊を小さくしました。私は形の良いひとかけを木箱の蓋に載せてロザリー様に差し上げました。
「ああ、ありがとう」
端から削るようにして少しずつケーキを食べました。焼けた木の実の歯触りが快く感じられました。
一切れ分を食べただけで充分でした。木箱の蓋を閉めて残りは置いておくことにしました。瓶がほとんど空になっているのに気付き、私は台所へ向かおうとスツールを立ちました。
血が下がっていたのか、くらりとして思わずしゃがみ込みました。
「どうしたんだい」
「少しめまいがしてしまって……。もう平気でございます」
私はスツールに手をついてゆっくりと立ち上がりました。
「イラ……。私が知る限りでは君はずっとそこにいるようだけれど、きちんと休んでいるのかい」
ロザリー様にご心配をかけまいと、「ええ、ロザリー様」とお答えいたしました。ロザリー様はため息をつかれて、「目が見えないと、君の声音にも敏感になるようだ」とおっしゃいました。
「君のベッドはどこだい。私のことはもう心配いらないから、気にせず眠っておいで」
お返事を申し上げられずにいると、ロザリー様は再び息を吐き出されました。
「君は自分の体が脆いことを自覚しておくれ。ベッドを代わるから、横になりなさい」
「いいえ、ロザリー様、私は……」
ロザリー様は両足を床に着けて、今にも立ち上がられそうでした。ロザリー様は私にじっと顔を向けられました。閉じた瞼の奥から観察されているような気分でした。
やがて諦めたように首を振って、ロザリー様は口を開かれました。
「それならば、少しだけ手を貸してくれないかい。彼に礼のひとつでも言いに行っておいた方がよいだろうからね。案内を頼むよ」
ロザリー様は右手を差し出されました。
「かしこまりました、ロザリー様」
ベッドに近づき、ロザリー様の手をとった瞬間に腕を強く引かれました。私は小さく悲鳴をあげてベッドに倒れ込みました。
ロザリー様は私の右手を握ったまま、左手で私の背に触れられました。手はだんだんと上がってきて、私の頭をくしゃりと撫でられました。
「君が言うことを聞かないからだよ」
そのお声は髪を震わせるほどの近くで聞こえました。
恥ずかしさと決まり悪さと、ほんの少しばかりのロザリー様を責める気持ちを込めて、私はロザリー様のお名前をお呼びしました。
「イラ、騙してしまって悪かったね。ただ、こうでもしないと君は休んでくれないだろう」
ロザリー様の手は変わらずに私の頭に置かれていました。感触は柔らかいものでしたが、私が起き上がろうとするのを防ぐためのようにも思えました。
「さあ、上がってお眠り。もう諦めの悪いことは言わないね?」
私はしぶしぶとベッドの上で体を丸めました。
「目を閉じてゆっくり休むといい。休養と時間が、今は何より必要だ」
ロザリー様の左手は私の顔を触りました。冷たい指先が私の目を覆います。私は「はい、ロザリー様」と小さく息をつきました。