情念
ロザリー様は私の肩を抱き寄せ、迷うような声を小さくあげられました。
「君はとにかく栄養を付けたほうがいいようだ。……ここにまともな食べ物はあるのかい」
「ええ、お料理はできませんが、簡単なものならば」
ロザリー様は小さく頷かれました。
「それならば遠慮することはないから、しっかりと食べなさい。どうせ彼は食べないのだから」
まだためらいは残っていましたが、私は「承知いたしました」とお返事を申し上げました。
瓶を閉ざしていた布を引き抜き、中身をグラスに注ぎます。そうしてロザリー様の手をグラスへと導きました。
「ああ、彼が貯めていたものか」
ロザリー様は匂いをかいでそうおっしゃいました。私はロザリー様がグラスを傾けられるご様子ばかりが気になっていました。
「ありがとう、力がついたよ」
ロザリー様の手から空いたグラスを受け取りました。私は明るい声を作ってお訊きしました。
「他に何か要るものはございますか?」
「……いや、大丈夫だ。もう少し休むことにするよ。君は自分の傷を手当てしておいで」
「いえ、ロザリー様、私は……」
どきりとしてしまいました。ロザリー様からは見えていらっしゃらないことはわかっていましたが、思わず手の掻き傷を隠しました。
「イラ、私の鼻はごまかせないよ。それ以上膿んでしまっては大変だろう。早く傷口をきれいにしなければ」
静かなお言葉に、私は「はい、ロザリー様」と頷くほかありませんでした。
ロザリー様は再びベッドに横たわられました。私はロザリー様にことわって部屋を出ました。
台所へ向かい、布を水で濡らして絞ります。乾いてこびりついていた手首の血を拭いました。自分で広げてしまった傷口は治るまでに時間がかかりそうでした。包帯が見当たらなかったので、乾いたきれを巻いておきました。
それから血の付いた布をよく洗い、腕や顔をごしごしとこすりました。これまではそのようなことを気にかけてはいられませんでしたが、みすぼらしい姿をロザリー様にお見せするわけにはいきませんでした。
髪を布で挟むようにして拭いていると、足音が聞こえました。
「ここにいたんだ」
「ええ。あの、ロザリー様が、お目覚めになりました」
「そうなんだ」
鍵盤奏者は興味もなさげに言うと、手にしていた四角い包みを棚に置きました。
「それは……?」
「知らない。贈り物らしいけど」
私が贈ったわけではありませんでしたが、そのぞんざいな口調に胸が痛みました。
「そのような言い方……」
つい声を漏らすと、彼は不機嫌そうに「なに?」と尋ねてきました。
「断ったのに押し付けてきたんだ。いちいち受け取ってたらきりがない」
中身を見ようともせずに鍵盤奏者は棚に背を向けます。じわりと悲しみのような怒りが滲みました。
「あなたは――」
知らず知らずのうちに口を開いていました。彼の目が私を見ました。
続く言葉を見つけられずに、私はもう一度「あなたは……」と呟きました。鍵盤奏者はゆっくりと私に体を向けました。
彼はにこりと微笑みました。警戒すべきだとはわかっていたのに、その表情はあまりにも美しくて、私は一瞬すべてを忘れて彼に見とれてしまいました。無邪気な笑顔の裏に狡猾さが薄く透けていましたが、それすらも彼の美しさの一部をなしていました。
「君が、ロザリーから僕に乗り換えるって言うなら、その続きを聞いてあげる」
軽やかな笑みを交えてその言葉は発せられました。私はやっとのことで首を横に振りました。
「そう? ……残念」
唇からため息を生んで鍵盤奏者は踵を返しました。私は彼のほうを見ませんでした。
「気が変わったら教えて。僕はいつでもいいから」
耳元で囁きかけられたかのようでした。びくりと振り向くと、もう台所を出る彼の背中しか見えませんでした。
憂鬱な思いを消し去るように髪の汚れを落としました。台所を見渡して、唐突に確信が芽生えました。ここにある食べ物はすべて鍵盤奏者が受け取った贈り物なのでしょう。彼はそれを食べるどころかろくに見もしないで、棚に置き去りにしているのでした。
そうわかってしまうと、贈り主たちの感情が見世物のように並べられ、重くひしめいているように感じられてなりませんでした。
私は逃げるように台所を後にしました。
ロザリー様は先ほどまでと変わらないご様子で横になっていらっしゃいました。どうやらお休みになっているようです。その静けさと穏やかさに心が安らぎました。
私はロザリー様の手の甲に自分の手を重ねました。そうしてお辞儀をするように膝を折り、閉ざされたままのまぶたに触れるか触れないかというくらいにそっと唇を落としました。
一瞬だけ幻のような冷たさを感じて顔を上げます。ロザリー様は表情を少しも動かされずに眠っていらっしゃるようでした。
スツールに座ると、ほうっと充ち足りた息が漏れました。自分の唇に触れてはロザリー様のまぶたを何度も思い返しました。