滴り
【注意:出血描写があります】
ロザリー様は大きなベッドの上に横たえられました。お顔は目鼻がわずかにわかるばかりで、袖から見える手はひどい火傷を負われたように痛々しく赤くただれていました。
鍵盤奏者はひとつため息をつくと部屋を出ようとしました。私は慌てて彼を呼び止めました。
「待ってください、ロザリー様のお手当てを……!」
「運ぶだけだって言ったじゃないか」
心底面倒くさいと言いたげな声音でした。
「それならばせめて、この枷を解いてはもらえませんか」
私は鎖の音を立てて手枷を持ち上げました。彼は私に歩み寄ってきました。彼への怯えが染み付いてしまっていましたが、私はただ彼を見据えてじっとしていました。
鍵盤奏者は私の手枷を持ち上げ、左右の鎖とのつなぎ目を一度ずつ噛み砕きました。ごとりと音がして、木の枷が地面に落ちました。
「あ、ありが――」
礼を言う間もなく、彼は私の首から下がる鎖の根元を掴みました。彼の顔が首元に近づいてきて、背筋が寒くなりました。喉の左側で冷たい吐息が感じられました。
がちり、という音が弾けました。思わずびくっと身が震えました。鍵盤奏者は一度顔を離して、今度は私の首の右側で同じ音を鳴らしました。
鎖が体を這い下りるように地面に落ちました。首の枷も外してもらえたのだと理解するまでには少し時間が必要でした。
「……ありがとう、ございます……」
私はおそるおそる言いました。鍵盤奏者は私を一瞥すると、何も言わずに部屋を出て行きました。
部屋にあった布張りのスツールをベッドの傍らに持ってきて座り、ひたすらロザリー様のご様子を見ていました。
ロザリー様はぴくりとも動かれません。毛布をかけて差し上げたほうがよいのでしょうか、それともお体に重みを加えないほうがよいのでしょうか。お顔からはじくじくと赤い液が滲み出ています。
「ロザリー様……」
私はつぶやいて目を落としました。膝に置いた手は薄汚れていて、手首には枷で擦れた傷が生々しく残っています。私はその手首を見ました。
スツールを立ち、ロザリー様のお顔の上に左腕をかざします。
枷の跡を強く爪で掻きました。薄くできかけていたかさぶたや皮膚をはがし、爪の間に血が入り込みます。痛みに目もくれずに私は手首を掻きむしりました。
ぽたり、ぽたりとロザリー様のお顔の上に血が落ちます。さざ波のようにロザリー様のお顔の表面が震えました。私の血はロザリー様になじむように見えなくなりました。
腕の傷を深めると血が絶え間なく垂れ落ちます。粘土を少しずつ寄せ集めて形作るかのように、ロザリー様のお顔は少しずつ輪郭が細かになっていきました。ロザリー様が回復していらっしゃることが見てとれて、私は嬉しく思いました。
突然に後ろから私の腕を掴むものがありました。
「……なに、してるの?」
鍵盤奏者の声でした。
「ロザリー様に、血を……」
私は左腕をロザリー様の上に戻そうと力を入れました。
「……死ぬ気かと思った」
彼の腕の力が少し弱められました。
「ロザリー様が助かってくださるのならば、死んでも構いません」
「やめてよ。僕が恨まれる」
鍵盤奏者は強く私の腕を引きました。冷たく湿った感触が傷に触れました。彼の手とその感触はすぐに放されました。
「うわ、ロザリーの味がする」
顔を向けると、鍵盤奏者は顔をしかめていました。どうやら血を舐められたようでした。
「……放っとけばそのうち治るよ」
「本当ですか!?」
ぞんざいな言い方でしたが、その言葉は大きな救いとなりました。
「嘘ついたってしょうがないじゃないか」
私は胸を撫で下ろしました。鍵盤奏者は「……ああ、そうだ」と続けました。
「この家の中のものは使っていいけど、外には出ないで。僕に迷惑をかけないで。いい?」
「はい、ありがとうございます」
「お礼を言うならキスでもしてくれない?」
私はぎょっとして彼の顔をうかがいました。灰色の瞳の整った顔立ちは平然としていて、考えを読み取ることはできませんでした。
何も言えずにいると、「……冗談だよ。君みたいな貧相な子、こっちからお断りだ」と鍵盤奏者は薄く笑いました。
私は息をひとつついて、「そうでしたか……」と答えました。
「つまんないの」と子供のように呟いて、彼は部屋を出て行きました。
私はロザリー様に向き直り、再び手首に爪を立てました。ロザリー様の頬に落ちた赤い雫はお顔の中に溶けることなく、つう、と筋を残して流れていきました。よく見るとロザリー様のお顔には薄い膜ができかけているようでした。
唇はまだ固く引き結ばれていて、私はスツールに腰を下ろしました。手首の血を衣服で拭いました。