払拭
風のように静かにロザリー様は森の中を進まれました。物音や気配を注意深く探っていらしたためか、道中で魔の者に出くわすことはありませんでした。
お屋敷に着くとロザリー様はしっかりと戸を閉められました。
「イラ、大丈夫かい? 手当てをしておいで」
「はい、ロザリー様。失礼いたします」
自室に入って改めて自分の体を見ると、転んだ時に擦りむいた脚だけでなく、手のひらや頬などあちこちに小さな傷を作っていることがわかりました。
濡らした布で血を拭い、大きな傷口には薬を塗って包帯を巻きました。傷が目に見えなくなるとそれだけで痛みが幾分か引くようでした。
ロザリー様は台所でハーブを煎じていらっしゃいました。帰ったときのままでいらっしゃるようで、袖口やお顔には乾いた血の色が見えました。
私は鍋をご覧になるロザリー様の隣で、新しい布を水に浸して軽く絞りました。
「ロザリー様」
お名前をお呼びすると、ロザリー様は私の方を向かれました。
「お顔に血が付いてございます」
布を掲げるとロザリー様は「ああ、ありがとう」とそれを受け取られました。一度お顔を拭われると、薄く残っていた口元の血もきれいに消え去りました。
それから「腹は減っていないかい? 簡単にでも食事をとるといい」と促され、私はパンと固いチーズを切り分けました。
ロザリー様が淹れてくださったハーブティーを飲むと、やっと安心できる場所に帰ってきたという実感が湧きました。
「ロザリー様、ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いや。……なんとか手遅れになる前に君を見つけられてよかった」
ロザリー様がお持ちのカップが机と触れあって、カタカタと小さな音を立てました。そのご様子から、ロザリー様も動揺していらしたことを悟りました。
「王国の巡邏兵……と言っていたのか」
「はい、ロザリー様」
ロザリー様は重く首を振られました。
「あのような輩が王国兵であるはずがあるものか。大方山賊崩れの傭兵がいいところだろう」
「そうでしょうか……」
私は自分の胸元でぎゅっと拳を握りしめました。
「いくらか取り逃がしたが、今夜は満月だ。私が追うまでもなく亡霊どもの餌食になるだろうさ」
ロザリー様は月が出ているであろう方向をはるかに見上げられました。
昨日までは色とりどりの花や小鳥の歌を与えてくれていた森が、突然おどろおどろしく牙をむいたように感じられて、改めて身に震えを覚えました。
「イラ。君を一人で森へ行かせるべきではなかった。……危険な目に遭わせてしまい、すまなかった」
「いいえ、決して、ロザリー様のせいではございません」
ロザリー様は目を伏せられました。
「これからは……。いや……」
口ごもり、幾度か首を横に振り、ロザリー様は揺れる瞳で私の顔を見つめられました。
「これからは、一人で外に出るのは屋敷が見える距離までにしておいで。何かあったらすぐに帰ってこられるように」
「かしこまりました」
ロザリー様は眉をひそめられて「……君にこのような不自由な暮らしをさせるつもりはなかったんだ」と苦しげにつぶやかれました。
「承知しております、ロザリー様。すべて私を守ってくださるためのことと心得ております」
「……君がそう言ってくれるならば、少しは救われるよ」
草に敷き詰めたような花やこれから盛りを迎えるライラック、そして甘い野苺などを摘みに行けなくなるのは残念でしたが、それよりも森の中に蠢く得体の知れないものに遭いたくないという気持ちが勝っていました。
それから、自分が何も持たずにお屋敷へ帰ってきていたことをはっと思い出しました。
「申し訳ありません、ロザリー様」
「何だい?」
ロザリー様が声音を鋭くされました。
「あの、籠を……、すみれを摘んでいた籠を森へ落としてきてしまって……」
「なんだ、そのようなことか」とロザリー様はほっとしたようにため息をつかれました。
「それならば私が森へ行くついでに拾っておくよ。くれぐれも、自分で探しに行こうなどと考えるのではないよ」
「はい、ありがとうございます、ロザリー様」
パンとチーズをかじる私に、ロザリー様は尋ねられました。
「イラ、今屋敷にはどのくらい食物があるかな」
私は手にしているパンに目を落としました。
「相変わらずでございます。まだ充分な量のお食事を用意することはできなくて……」
「そうか……」
ロザリー様は何事かを考えるように頷かれました。その質問は唐突で不思議なものに思えました。
「……眠れそうかい?」
お部屋へ戻らせていただこうとする私の背に、ロザリー様はお訊きになりました。
「……ええ」
ロザリー様は優しくほほえまれて、「ゆっくりお休み」とおっしゃいました。
部屋に戻ってベッドに横たわると、蹄の音や野卑な声がぐるぐると蘇るようでした。
頭を抱えて耐えていると玄関扉が開く音が聞こえました。
魔の者が活発になる満月の晩にはいつも森へ向かわれることは知っていましたが、この夜ばかりはお屋敷に一人残されることが怖くて寂しくて、毛布にきつくくるまって目を瞑り、朝日の訪れを待っていました。