闊歩する魔の者
気付けば空には円い月が昇っていて、私はロザリー様を思い出しました。
このまま夜に紛れてお屋敷へ帰ろうと立ち上がったとき、遠くでがしゃりと金属音が聞こえました。あの男たちかと背筋が凍りました。息を潜めて目を凝らしていると、ずいぶんと小柄に見える白い骸骨が木々の間を縫って向こうへと歩き去るところでした。亡霊は私に気付いた様子はありませんでしたが、その姿を見ただけで恐ろしさに体が強張りました。
夜が更ければ人間から身を隠すのは容易になっても魔の者からは見つかりやすくなってしまいます。どこにどれだけの亡霊が潜んでいるのかわからないことが、お屋敷へ帰ろうとする私の心を萎えさせました。
助けを求める術も身を守るものもなく、不安に押しつぶされそうでした。
夜が明ければきっと亡霊も消えあの男たちも立ち去ることでしょう。ロザリー様がご心配なさっているでしょうことが気がかりでしたが、私はそう心を奮い立たせて森で一夜を過ごす決意を固めました。
初めて亡霊を目の当たりにした時の記憶を掘り起こします。あの時ロザリー様は、私を樹上の枝に座らせてから魔の者と戦っていらっしゃいました。少しでもその時の様子に倣おうと考えて、私は木に登ることにしました。
月明かりに目を凝らし、木のこぶや枝に手をかけて身を引き上げます。体じゅうが痛みましたがそのようなことに構ってはいられませんでした。
次の枝へ、次の枝へと身を運ぶうちに、いつの間にか私の身長をはるかに超す高さまできていました。私は足を滑らせないように気を付けて太い枝に腰をかけ、幹にしっかりと掴まりました。
どっしりとした枝振りに身を寄せるとやっと僅かに安心しました。このまま夜明けを待ってお屋敷へ帰り、ロザリー様にご心配をおかけしてしまったことを謝るつもりでした。
どっと疲れを感じていましたが、眠れば地面へ落ちてしまいそうで、木々のざわめきにひたすら耳を傾けていました。
国境巡邏兵だと名乗る彼らはどこへ行ったのでしょうか。お屋敷を見つけてロザリー様に危害を加えようとはしていないでしょうか。考え事が頭の中で膨らんでいきました。
風と木の葉の擦れる音に交じって、声が聞こえたような気がしました。ぼんやりとしていた私はそれを聞いて思わず身を固くしました。
その声は次第に近づいてきていました。張り詰めた声音が私の名を呼んでいることに気付くのとほとんど同時に、走る黒い影が見えました。その影が発するお声に、私は木の上から応えました。
「ロザリー様!」
ロザリー様は過たずに私のいる樹上を見上げられました。
「イラ……!」
木の下に駆け寄ったロザリー様は、「下りられるかい」と尋ねてくださいました。
「はい」とお答えして枝に足をかけましたが、真下を見ると震えが走ってしまって、なかなかそこから足を進めることができませんでした。
「イラ」とロザリー様はもう一度私の名を呼ばれ、「おいで」と腕を広げられました。
私はロザリー様の迷いのない表情を確かめました。しっかりとロザリー様の目を見つめたまま、私はその枝から飛びました。
ふわ、と体が軽くなった感覚を覚えた次の瞬間には、全身に重い衝撃が走りロザリー様の腕に受け止められていました。
「……怪我をしているね。血の匂いがする」
そうおっしゃってロザリー様は優しく私を抱き直してくださいました。そのお顔を間近で見ると心からの安堵がこみ上げてきて、私はロザリー様に力の限り抱きついて糸の切れたように泣き出しました。
「何かあったのだね。そうだろう?」
ロザリー様はその場を動かずに尋ねられました。私は頷き、泣きじゃくりながらも説明を申し上げました。話を続けるに従って私を支えるロザリー様の腕に固く力が込められるのが感じられました。
「その者たちならば、おそらく私も見かけたよ。焚き火をしていたからこの森で夜を明かすつもりなのだろう」
ロザリー様は冷ややかにおっしゃいました。
「人を斬るための剣を持って来なかったのは誤算だったな」
低くつぶやき、ロザリー様は歩き出されました。それでも私に向けられた声と表情は、とても優しいものでした。
「イラ、傷に響かないかい?」
「はい、ロザリー様」
まだひりひりとした痛みはありましたが、私はこれ以上ご心配をかけるわけにもいかないと考えてそうお答えしました。