花の香り
とうとう、お芝居へ行く夜を迎えてしまいました。
ロザリー様は夕方頃、いつもより早い時間にお目覚めになり、お部屋で身支度をなさっていました。
私もドレスに着替えて靴を履き替えましたが、分不相応な格好をしているという思いは拭えず、浮かない気分のまま、自室の椅子に座っていました。
「着替えは済んだかい、イラ?」
突然声をかけられ、私は飛び上がるほど驚きました。
「はい、ロザリー様」
コツコツと慌てた靴音を立てて扉を開けると、いつもと違った装いのロザリー様がいらっしゃいました。襟元にレースをあしらった白い服の上から縁に金の刺繍の入ったマントを羽織り、丈の短い下衣と白い長靴下をお召しになってすらりとした脚の形を出されています。
私がほとんどロザリー様に見とれていると、ロザリー様は「私もこういう時くらいはきちんとした格好をしないといけないかと思ってね」と、少し恥ずかしそうに微笑まれました。
「ロザリー様、とても、よくお似合いです……!」
「そうかい? ありがとう、イラ。以前も言ったが、君のそのドレスもよく似合っている」
そのお言葉を聞いてもやはり憂鬱は拭えず、私はうつむいて短いお礼を申し上げるばかりでした。
それからロザリー様は私の手を取って、玄関ホールへと連れて行ってくださいました。
「もう出発するのですか?」と私がお尋ねすると、ロザリー様は
「間もなくだよ。……ああ、イラ、少しだけここで待っておいで」
とおっしゃって、再びお部屋の中へ入って行かれました。
ほどなくして戻っていらっしゃったロザリー様は、何かを手の中にお持ちのようでした。
「イラ、今日の機会にこれを君に渡そうと思っていたんだ」
ロザリー様が見せてくださったのは、小さな紫の小瓶でした。
「それは……!」
「気に入ってもらえるといいのだけれど。手首を出してみてもらえるかい?」
私はどきどきしながら、手のひらを上向きにしてロザリー様の方へと右腕を差し出しました。
ロザリー様が瓶のふたを開けると、ふわりと花の香りが広がりました。瓶のふたの下には細い棒が伸びていて、ロザリー様はそこから私の手首へと、ほんの一滴香水を垂らしました。
「ライラックの香りだよ」と、ロザリー様は香水瓶を閉めながら教えてくださいました。
「ロザリー様……、なんだか、懐かしいような香りです」
心にふと浮かんだことをお伝えすると、ロザリー様は「そうか……」と僅かに意外そうなお顔をなさいました。
「……君の名前は、ライラックから付けたものなのだよ」
「まあ……」
私は胸がいっぱいになりました。私の名前が、こんなに美しい花から付けられたなんて。
望外の幸せに、じわりと涙が浮かびました。
「行こうか、イラ。馬車も待たせてあるはずだ」
ロザリー様が私の前においでになり、玄関へと向かわれます。
「はい、ロザリー様。あの……、本当に、ありがとうございます!」
香水を下さったこと、香り高い花にちなんだ名前を下さったこと。なんとかこの胸の内の気持ちを言葉にしてすべてお伝えしたかったのですが、言えたのは余りにも平凡な言葉でした。
ロザリー様は私の方を振り返り、温かな慈しみの表情を向けてくださいました。