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永いメイドの手記  作者: 稲見晶
X 人間のいのち
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白い鳥

 ようやく新月の晩となりました。私はこの後に味わうであろう痛みと苦しみを恐れて、夕食にはほとんど手を付けませんでした。

「イラ、それでいいのかい? 力を付けなければ……」

 ロザリー様は気遣ってくださいましたが、私は静かに首を振りました。


 夕食の後片付けをきれいに終え、私は水を満たした銀の杯と縫い針を、ロザリー様は赤い葡萄酒と錫のコップをそれぞれ用意しました。

 ロザリー様は錫のコップに葡萄酒を注がれ、一滴の血を落とされました。

 錫のコップを私の前に滑らせて、ロザリー様は思い出したかのようにおっしゃいました。

「イラ、約束を覚えているね。たとえ私が君より先に死んだとしても、君はどうか、あらゆる手を使ってでも生き続けてくれ」

「ええ、承知しております。ロザリー様も、同じことを誓ってくださいますね」

 ロザリー様が「ああ」と小さく頷かれたのを確かめ、私は机の上に視線を向けました。


 私は銀の杯と錫のコップを前に、深く呼吸をしました。

 10年ほど前の記憶は未だに鮮やかで、錫のコップに手を伸ばすにはたいへんな勇気が必要でした。

「……イラ、辛いのなら止めてもいいのだよ」

 気遣わしげな穏やかなお声でした。

「いいえ、ロザリー様」

 私はロザリー様の目をしっかりと見返してお答えしました。そしてふとその手に目を落としました。

「ロザリー様……、手袋をしてくださいますか? 以前のようなことがあっては……」

 ロザリー様はご自分の手のひらをご覧になって、「ああ、そうだね」と頷かれました。

「すぐに戻ってくるから少しだけ待っていておくれ」

 ただの手袋がどれほど純銀を防いでくれるのかはわかりませんでしたが、どちらかといえば私自身が少しでも安心したかったのです。


 ロザリー様が白い手袋をはめられて戻っていらしたことで、私の覚悟も固まりました。

「ロザリー様……、また私が倒れてしまうようなことがあれば……、お願いいたします」

「ああ、安心して任せておいで」

 私はほっとして、一息にロザリー様の血の交じった葡萄酒を飲み干しました。


 鋭いとげの痛みと血の味が喉から胃を覆い尽くします。身構えていたので椅子から転げ落ちることはありませんでしたが、背を丸めて声にならない息が漏れるばかりでした。

 銀を、水を、と私は赤くかすむ視界で探しました。ようやく鈍く光るものを見つけ、手を伸ばします。

 杯は遥かに遠く、手の向かう先も定まりません。

 

 視界の外から白い鳥が舞い降りたように見えました。

 その鳥は杯を引き寄せて私の手に握らせました。

 背中と腕を支えられながら、私は銀の杯の中の冷たい水を口にしました。一口飲むたびに口の中に広がる血の味は引いていき、刺すような痛みが鎮まっていきます。

 杯を空けると白い鳥は再び視界の端を掠めて飛んでいってしまったようでした。


 しばらくすると、やはり芯から凍えるような寒気に襲われました。震える指から銀の杯が落ちて、高い音を響かせました。

 目を閉じて横になりたいという思いに抗えずにぐらりと体が倒れます。肩が受け止められ、椅子からずり落ちそうになる腰が支えられるのがおぼろげにわかりました。


 歯の鳴るような体の震えは相変わらずでしたが、このまま身を委ねていれば安心だという気持ちになり、私は目を瞑って荒い息を整えようとしました。

 そのうちに体の感覚が曖昧になり、意識は暗闇の中に遠のいていきました。


 一度目が覚めた時、まだ世界は夜闇に包まれているようでした。

「ロザリーさま……」

 かすれた声でお呼びすると、「目が覚めたかい、イラ」とお返事がありました。

「鳥は……?」

 私は夢か現実か判然としない心地のまま、ぼんやりとそれだけお尋ねしました。

「鳥……?」とロザリー様は私の言葉を繰り返されました。ややあって、「いや、後で聞こう。今はまだ眠っておいで」とお言葉が続けられました。

「はい……」

 そのお返事がきちんとできたかどうかわからないうちに、私は再び暗い眠りに引き込まれていました。

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