瞳
どれほど時間が経ったかもわからず、体が石と化してしまったのではないかと思う頃、ようやく画家は描いている絵を遠目に見てふむふむと頷きました。
「いや、お疲れさまでしたな。今日はもうおしまいにしときましょう」
どっと肩の力が抜けました。
「疲れたかい、イラ?」
「ええ、少し……。お父様こそ立ち通しでいらして、お疲れではございませんか?」
なじみ深いお屋敷でロザリー様のことを「お父様」とお呼びするのは、仕立屋や王城の時とはまた違った気恥ずかしさがありました。
「ありがとう、私なら大丈夫だ」
ロザリー様は少し身をかがめてほほえみかけてくださいました。
「これで終わりなのかい?」
道具を片付ける画家に、ロザリー様はお尋ねになりました。私の座っている椅子に少し体をもたせかけるような、くつろいだ立ち方をしていらっしゃいました。
「ここではスケッチまでにしといて、工房に持ち帰って色を重ねるんです。なんせ時間がかかりますからな」
「そうか、完成を楽しみにしているよ」
「どうぞ、期待なすっててください」
ロザリー様がそのまま画家の動きをご覧になっていると、画家は居心地悪そうに口ひげを撫でてからロザリー様を見上げました。
「あー、旦那様……、ちっと言いづらいんですが、そんなに見んでもらえませんかね。どうも落ち着きませんで」
「失礼、気が付かなかったよ」とロザリー様はお顔を引かれました。
「普段ならわしも気にしませんがね……。どうも旦那様には、なんと言うか、不思議なところがありますな」
「不思議な?」
ロザリー様のご様子をうかがっていた私には、ロザリー様がぴくりと眉を動かされたのがわかりました。
画家は少し弁解するように続けました。
「気を悪くなさらんでくださいよ。わしも長いこと人の絵を描いてきましたが、旦那様みたいなお人は初めてだ。お若いのに、まるで世界のすべてを見てきたような目をしてらっしゃる。いいことも、悪いことも、みんな。いったい、これまで何をされて……」
そこで画家は言葉を切り、「いいや、聞かんほうがいいでしょうな」と首を振りました。
「私の来た道を語っていたら、最後まで聞かないうちに君の髪もその自慢の口ひげも真っ白になってしまうさ」
ロザリー様は冗談めかしてそうおっしゃいました。画家はそれが本気かどうか判断しかねているような曖昧な笑みで頷きました。
「それにひきかえ……と言っちゃあ失礼ですが、お嬢様のことはさぞかし大切に育てられてきたんでしょう。汚れを知らない明るい瞳だ」
「ああ、大事な可愛い一人娘だよ」
私は恥ずかしさにうつむいてしまいました。
画家はふんふんと息を吐くように笑って、鞄を閉めました。
「そんじゃあ、絵が完成したらお届けにあがりまさあ」
画家はそう言って、星のみが照らす道を帰っていきました。
ロザリー様はその様子をお屋敷の窓から見送り、ため息をつかれました。
「あの画家はなかなか侮れないな」
「私もどきりとしてしまいました。世界のすべてを……と言っていましたね」
「私が知っているのは、せいぜい世界の半分までさ。太陽の沈んだ夜の世界しか見ることは叶わないのだから」
ロザリー様は森の奥深くを見やったままおっしゃいました。
「それではロザリー様、世界のもう半分……、お昼の世界をご覧になりたい時にはどうぞ私を目としてお使いくださいませ。私が太陽の下の多くの物を見て、ロザリー様に教えて差し上げます」
「ありがとう、イラ。それでは頼りにしているよ」
ロザリー様が私を見て笑いかけてくださったことに、胸が温かくなる思いでした。
私はふと、以前ロザリー様からうかがったことを思い出しました。
「そういえば以前、吸血鬼の中には絵を描く者もいるとお聞きしました。もしかしたら、あの人が……」
「いや」とロザリー様は首を横に振られました。
「彼は人間だよ。目を見ればわかる」
「目……でございますか」
吸血鬼どうしにしかわからない微妙な雰囲気というものがあるのでしょうか、と私は考えました。
「吸血鬼はみな、灰色の瞳を持っているのだよ。彼の目の色は、確か緑色だっただろう?」
「あ、ええと、先ほどのお言葉は、そういう意味でおっしゃっていたのですか……?」
私はすっかり拍子抜けしてしまいました。
「もちろん灰色の目をした人間もいるから、目の色だけで吸血鬼を判断することはできないけれどね。逆は必ずしも真ならず、ということだ」
見上げたロザリー様の穏やかな灰色の目は、まるで新しいもののように見えました。
「ほら、知っていたかな……。彼もそうだ」
ロザリー様は以前の音楽会にいた鍵盤奏者の名前を挙げました。霧の中にいるような不安を感じさせるその灰色の瞳が思い出されました。
私が表情を硬くしたのに気付かれて、ロザリー様は「それはともかくとして」と話題を変えられました。
「あの画家の観察力は恐ろしいくらいだね。どのような絵を描いてくれるか、楽しみだ」