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脊髄反射しかなかった

活断層の真上に住んでいた被災者が語る、真実の阪神大震災。第二話。わが家に火の手が迫る。頭の皮がベロリと剥けて血まみれになった父親。家々から聞こえるうめき声。「助けてくれ」の合唱。俺は全て無視して逃げた。

脊髄反射しかなかった。


二度目の衝撃が来たとき、本棚がスローモーションで倒れるのが見えた。

古本市場で買った3冊100円の文庫本が、床の抜けた部分にゆっくりと吸い込まれていった。

パラパラと開いたページが、窓から差し込むオレンジ色の光に照らされていた。


その光は、太陽の光であるはずがなかった。

1995年1月17日。午前5時47分。日の出にはまだ早い時刻だ。割れた窓から燃える街が見えていた。


「痛いー。助けてくれー」 隣の部屋で父親が叫んでいた。俺は崩れ落ちた壁を乗り越えようとして驚いた。べったりと赤い血が壁にこびりついていた。


上半身が血だらけになった父親が、炬燵の中でうめいていた。父親は俺に似て横着な性格で、炬燵で寝る習性があった。

そのため、奇跡的に柱の下敷きにならずに済んだ。


父親は自力で這い出してきた。

だが、頭皮が河童の皿のようにめくれて、血だらけになっていた。包帯も消毒薬もない。

非常用の持ち出し袋は、瓦礫に埋もれてしまった。これから、震災に備える人は覚えておくといい。


いざという時に必要なのは非常食でもラジオでもない。スコップだ。俺は代りになる物を探した。

その時に、初めて気が付いた。俺の家の一階部分は完全に壊れて、二階部分が瓦礫の上に乗るような形で残った。


階下には誰も寝ていなかったのが不幸中の幸いだった。俺の母親は、同窓会の旅行とやらで有馬温泉へ出かけていた。

その時、ドカンという物凄い音が至近距離から聞こえた。

むっと熱気が来たので、その方向を見ると、隣の家のバルコニーが空中に吹っ飛んで、バラバラに砕け散っていた。


あっという間に俺の家は火に包まれた。気が付くと俺は100mほど離れた路上に立って、炎に包まれるわが家を眺めていた。

どこをどうやって逃げたのか全く記憶がない。まるで瞬間移動したかのようだ。

おそらく無我夢中で走ったのだろう。これが火事場の馬鹿力だ。


まるで、誰かがガソリンを撒いたみたいに、俺の周囲に火の手があがった。すると、俺の手足が勝手に動き出した。

「助けてくれ」

あちこちの家から助けを求める声を、俺の防衛本能がことごとく無視した。足の裏に柔らかい感触が何度もあった。

それは弾力性のある物体だったが、深く考えている余裕はなかった。


その時の俺には脊髄反射しかなかった。感情も思考もなかった。感覚しかなかった。

父親の安否や炎に対する恐怖も不安もなかった。


家族を泣く泣く見捨てて避難したという被災者の体験談があるが、そういう余裕のある人達はまだ幸福だと俺は思う。


俺の防衛本能は、俺を近くのE中学校まで連れて行ってくれた。

最寄りの避難所なんてわからない。というか、「避難所へ行く」という概念すら、当時の神戸市民にはなかっただろう。

関東大震災クラスの地震なんか、当時の市民にとっては、ありえないのだから。


俺の目の前では、避難所となるべきE中学校の体育館が、派手に燃えていた。


どうしろというのだ?


唐突に俺は思った。


「肉饅頭が食べたい」


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