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白い恋人

 

 先日、世界最古のカップルという記事を読んだ。

 トルコだかどこかで若い男女が抱き合ったままの化石が発掘されたという。

 副葬品から王家の夫婦だとわかった。

 夫婦の年齢は二十代前半らしい。

 妻の方は夫を甘えるように見上げ、旦那の方は伴侶をかばうような恰好をしていた。

 このカップルがどんな最期を迎えたのかは定かでない。

 豪華な品々と一緒に手厚く葬られていたことからして、きっと幸せにあの世で暮らしているのだろう。

 俺は震災の夜に亡くなったあの二人を忘れずにはいられない。

 一九九五年一月十七日。彼らは挙式するはずだった。


 パーラーアポロの惨劇から一夜明けた朝。

 冷え 込みが厳しいなか、各地から救助隊が続々と到着しているという噂が聞こえてきた。

 ここ、「震災の帯」では相変わらず行方不明者の家族や町内の人が捜索活動を行っていた。

 俺は「もう火事場泥棒をしなくてもいいんじゃないか」と思い始めていた。

 ここでのうのうと救出を手伝っていれば、とりあえず食事にはありつける。

 三度の食事は栄養だけではなく人間性を供してくれる。

 被災地なので乾パンやインスタント食品しかないが、暖かいカレーヌードルと午後の紅茶が俺の心をうるおしてくれた。

 そして、あれこれと考えるゆとりを与えてくれた。



 今片づけているのは駄菓子屋だった一軒家だ。ちょうど、レスキュー隊が到着してCNNが生中継をしている。

 一 階の床に大穴があいていて寝間着姿のおじいさんを引き上げたところだ。

 この店は小学校に上がる前から知っているが、地下室があったなんて初めて知った。

 味付け海苔を入れるような十リットルサイズのガラス瓶に飴玉や一口チョコなどを入れて売っていた。

 学校帰りのガキどもが買ったばかりの大きな海老煎餅に、おばあさんがオリバーとんかつソースを塗っていた。


 俺の親はケチで小遣いをくれなかったので甘酸っぱい匂いだけで我慢していた。

 鹿児島堂は俺にとってディズニーランドだったが、ここは小さなオアシスだった。

 たった十円あれば、スルメやミニスナック菓子が買えた。

 俺は、ときどき道端で拾った十円でこっそり買い物をしていた(この事は、のち に親父にばれて引出しで鼻血が出るほど殴られることになる)。

 震災は俺が子どもの頃から接してきた大切なもの、人、絆を徹底的に破壊した。


 老人の怒号が俺の回想を打ち破った。

「ボサーっとせんと喜和子をはよ助けんかい!」

 駄菓子屋の御主人が救急隊員をビンタした。

「とうに死んでますがな!」

 隊員がストレートに答えた。きっと働きづめで気持ちの余裕がないのだろう。

「デタラメ抜かすな!」

「奥さんは、顔の右半分、無くなってるんですが!」

「そんなこと有るかーー!」

「ほんならあんたが自分で見に行ったらええねん!」

 救急隊員は吐き捨てるように言った。

 売り言葉に買い言葉で老人は再び穴の中に入ろうとしたが、もう一人の救急隊員が羽交い絞 めにした。

「危ないですよ!」

「喜和子をほっとくんか?」

 なおも抵抗するご主人に隊員がこんな言葉をかけた。

「貴方は生きているんです。今、生きている命が一番大事です。わたしらは、それを守るんが仕事です。貴方の命を」

「……」

 お爺さんは黙り込んでしまった。


「津久田喜和子さん。女性、七十五歳。心肺停止」

 傍らで隊員が淡々と無線機に報告していた。頭がぱっくりと割れて白髪にピンク色の肉片がついたお婆さんが担架で担ぎ出された。

 すると、津久田さんの旦那は押し黙ったまま顔をくしゃくしゃにした。

 きちんとした教育を受けた人なのだろう。床に正座してうつむき、ポロポロと涙を流した。

 俺は思った。確かに命は地球より重いと福田元首相が言っ た。

 それは一般論だ。伴侶を突然奪われ、孤独死するしかない命にどれだけの意味があるというのか。


 そういえば、あの若い二人は、どうなっただろうか。今頃は、どこかの仮住まいで再出発を決意しているだろうか。

 俺は、ある奇妙なカップルのことを思い出した。

 通りを一つ隔てた場所に堀内という庭付きの一軒家がある。

 大きな和菓子屋を経営しており、町の有力者である。

 経営は順調で二十代前半の長男が店を任されていた。

 堀内の若旦那と呼ばれて親しまれ、町内会の盆踊りでも太鼓を叩いていた。

 そんな彼に浮いた話の一つもない方がおかしいと言われていたが、本人は身持ちが固いようで噂話の一つも聞こえてこなかった。

 俺は知っていた。堀内正志さんには加 奈さんというフィアンセがいる事を。


 話は一九九四年の暮れに遡る。

 当時、俺は仕事が多忙を極めていた。毎日、朝八時半に出社し、午前一時六甲道駅着の終電で帰宅していた。

 ある夜のことだ。

 人通りの絶えた夜道をトボトボと歩いていると、道路の真ん中に白い影が見えた。

 俺は何かの見間違いだろうと思って目をしばたたせた。


 靄のような煙のような不定形の物体が踊るように動いていた。

 俺は神霊や妖怪の類いは信じないタイプだったので、寝ぼけているのだろうと思った。

 早く布団の上で横になりたい。その一心で地面を眺めたままひたすら歩くことに集中した。

 三十歩ほど数えて、もう一度頭をあげた。

「うわっ!」

 俺は思わず声をあげた。

 白 い物体は明らかに人影であった。

 体つきからして、大人の男と女だ。道路の上で睨み合っている。

 はっきり、そう見えた。

 会話は一言も聞こえてこない。ただ、二人がじっと向かい合っているだけだ。

 俺はもう一度、視線を落としたまま五十歩数えながら進んだ。

「一、二……四十九、五十、よし」

 心の中で唱えながら顔をあげた。

 十メートル先に狂ったような顔をしたカップルが互いを真剣に見つめたまま、静止していた。

 男の方はギロっと両眼を見開き、虚空の一点を凝視している。

 女の方は眉間にしわを寄せて目を細め、明後日の方向を睨んでいる。

 二人の視線は一致していなかった。どういうわけか三メートルほどの間をあけて突っ立っていた。


 俺は幽霊のような二人よ り自分の健康状態が恐ろしかった。

 これが過労という奴か。きっと俺は常軌を逸しているのだ。明日の朝一番に心療内科で診てもらおう。

 仕事のし過ぎはよくない。死にたくない。辞めよう。

 そう思った。

 もう、今日は早く帰って寝よう。家はまだか?

 俺は焦りと不安から小走りに足を進めた。

 気付くと、二人は俺の目の前にいた。

 相変わらず、微動だにしていない。

 白いワンピースと白いスーツを着た男と女が僅かに身体を揺らしながらじっと見つめ合っている。

 邪魔だ。

 俺は二人を隔てる空間を通り抜けるしかなかった。

 普通の人間ならこんなことをされたら怒るか、身を引くものだ。

 二人は、まばたき一つせず、睨み合っている。

 俺は身震いしながら一目散に帰宅して風呂 にも入らずベッドに倒れ込んだ。


 翌日、俺は心療内科で安定剤を処方してもらい仕事に向かった。

 いわゆるデスマーチという状況で病欠することは許されなかった。

 終電で帰宅し、また同じ状況に出会った。

 これが三日も続くと、風物詩のように思えてきた。

 彫像のような二人が真摯に無言の愛をささやいている。

 こういう恋愛っていいなぁ。そう思い、俺は羨ましくも微笑ましくも思いながら二人を見守る日が続いた。

 やがて年末年始の忙しさで帰宅もままならない状況になった。

 震災の直前には、二人の事は、すっかり記憶から抜け落ちていた。


「加奈さん、かわいそうにな……」

 俺が二人の悲しい最期を知ったのは、震災から半年が過ぎて、六甲道駅前が活気を取 り戻した時だ。

 堀内家が取り壊し工事をしている現場を通りかかった時に、町内会長さんとばったり出会ったのだ。

 いろいろと震災の話をしている中で二人の事が話題にあがった。



「えっ? 避難しはったんとちゃうんですか?」

 俺は、あっけにとられた。

 会長は声を詰まらせながらこう答えた。

「崩れたはりに頭を潰されはったんですわ。『きゃあ、お母さん助け……』が最後の言葉やそうです」

「ええっ?!! 若旦那は?」

「煙に巻かれて亡くなりはりましたわ。地震の前の晩に婚約指輪が出来たゆうて、加奈さんのお母さんが喜んではりました。気の毒に……」

「よっぽど結婚を急いでたんですね」

「一月十七日に式を挙げて、すぐ関空からイタリアに 行く予定やったとか。向こうのお母さんも『何もそんなに焦ることないのに』と諌めてはったそうですが」


 俺は明らかに死に装束を着ていた二人の逢瀬を目撃しているのだが、黙っておくのが良策だろうと判断した。

「よっぽど、焦ってたんですね。まさか、こんなことになるとは」

 俺は当り障りのないリアクションをした。

「そうやな。若旦那は生き急いだというか、焦ったからこんなことになったのか。

 花火のように燃え尽きたのか、どっちやったのか」

「さぁ。私は、お二人に逢ったことがあるんですが、それはそれは幸せそうでしたよ」

 ホワイトライ(罪のない嘘)という言葉がある。俺は卑しい品格なので般若のような二人を美化して事実を歪曲した。

「そうか、 雄ちゃんがそう言うんなら二人は果報やろうな」

 会長は、そう言って合掌した。


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