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人間が人間でなくなる時2

 地震発生から生存可能な限界といわれる七十二時間がとうにすぎた。そこかしこから未だに勢いよく火の手があがり、街は灰色の煙にくすぶっている。

 すれ違う被災者から聞こえてくる声も、身内の安否が白黒つかぬ灰色の状態である

「お宅の娘さんは無事でしたか?」

「いや、マンションの二階と三階に挟まれてどうなったことやら」

「グレーですか……。諦めたらあきまへんで」

「いや、もうどうでもええような気持ちになってきましたわ。見つかったら、それでええちゅう感じですわ」

「向こうの通りの三枝さえぐさちゅうスナックありますやろ? あそこのママとお客さんは、店ごとドカン! ですわ」

「うわー。また、何でそないな時間まで飲み明かしとったんでしょうな。亡くなりはったんですか?」

「うーん。ママさんは気の毒に丸焼けで見つかったそうですが、常連さんの方は、まだグレーやそうですわ」

「気の毒に」

 グレーという言葉が挨拶代わりになるとは、なんという世の中だ。

 灰色と聞いて、俺は思い出した。

 子どもの頃は図工の時間がたまらなく嫌だった。特に水彩画は思うように筆が運ばず、指先や服が絵の具で汚れ、拷問に等しかった。

 数少ない絵筆を水彩バケツで洗いながら使い分ける手間も無駄に思えた。

 苦行を通じて一つだけ得たことがある。

 さまざまな絵の具が混じった水は黒ではなく灰色に染まる。黒は不吉の象徴とされるが、グレーに汚れたこの被災地こそがソドムだった。


 最後に残ったただ『生きたい』という動物としての本能がグレーに溶け合っていたとしたならば、俺の古き先祖もそうやって生き延びてきたのかもしれない。

 震災の様々な目を覆いたくなる経験の数々、経験が今の俺にリフレインを残した。

 シェイクスピアのあの有名な一節、汚いは綺麗、綺麗は汚い。

 何が醜いというのだ!?何が美しい!?

 すべては『生きたい』という人間究極の本能から起こったことだ。

 今の俺には、すべての記憶が、震災のあの生き地獄が、愛しいとさえ感じることがある。

 罪なく亡くなっていった子ども達、中学生、お菓子を横取りした太った男、市職員を殺した狂気の集団、

 おにぎりを鷲掴みして息子を殴り殺した父親・・・

 みんな、生きたかった。

 死臭を放つ極限の醜悪と一条の光、それが命を繋ぐ物語。


 グレーのコンクリートが崩れ、グレーの遺灰が焼け跡に残り、法的にグレーな行為を強いられた人々が食料を求めて家々を漁っている。

 市職員は「食料は自力で確保しろ」と言いながら、避難所の人びとに鮭弁当を配っていた。

 当時は一般的でなかった自己責任論という冷水を浴びせられた人々は、善悪の境界を軽々しく踏み越えた。お(かみ)だってグレーなことをやってるじゃないか。

 俺が材木を売り歩いていると、避難所を取り巻く不穏な空気を感じ取った。便器で煮た冷凍イカを俺は貪り食い、チート的な防衛本能を取り戻していた。

 どこから掻き集めたのか、大黒柱のような物を引きずっている人々がいた。

 こいつらに関わるとやばい。

 俺は咄嗟に地面に足を投げ出した。親族を失った被災者のように空を仰いだ。こうしておけば、「その他大勢の一人モブ」として無視される。

 いくら天性の雑魚キャラである俺でも、ヤラレ経験値を積めばそれなりにレベルアップする。

 悪巧みが聞こえてきた。

 空いた校舎に犠牲者が安置されている。シャッターで閉ざされた出入り口をこじ開けようというのだ。

 柱を担いだ人々は「食べる物が無いから死体を食おう」などと話し合っている。

 俺は、耳を疑いたくなった。まさか、死体に食欲を抱くことはあるまい。空腹感に負けて理性を失ってしまうのは俺だけでじゅうぶんだ。

 いまいましい記憶が蘇って、俺は身震いした。

 犠牲者の衣服から金品を奪い取るつもりなのだろうと解釈して気持ちを落ち着けた。

 追い詰められた人間がどのように道を踏み誤るのか興味がわいたので、俺は呆けた素振りをしながら彼らのあとをつけた。

 果たせるかな、襲撃者たちは鐘つき堂の鐘つきの要領で大黒柱を何度も打ち付けていた。

 ガシャン、ガシャンと突撃されるたびにシャッターがへこみ、鉄柱がひしゃげ、隙間が広がって行った。

「やったぞ!」


 盗っ人どもは喜び勇んで突入して行った。たちまち、ガラスが割れる音が響いてきた。

 中で何をやっているか、想像はつくが、深く考えると俺も奴らと同じ暗黒面に陥る気がして聞き流した。

 そのうち、奴らは仲違いを始めた。

「お前、いまワシを押したやろ!?」

「何じゃ、コラ!柱見つけてきたんは、このワシやないかい!文句あるんか? コラ!」

「ガキでも出来る事を偉そうに言い腐りやがって、コラ!」

「柱がなかったら何もできひんかったやろがコラ!」

「やかましいわ!天皇陛下より偉いんかい!? コラ!」

 何をやっているのだ!

 俺は大声で咎めてやりたかった。だが、俺も我が身が可愛いヘタレな性格ゆえに傍観するしかなかった。下手に注意すれば殺されるかもしれない。

 ここは日本の将来を担う子どもたちが学ぶ聖なる場所だ。模範を示すべき大人が平然と罪を犯し、幼稚な諍いを起こすとは何事だ。

 間違っているぞと叫んでやりたかった。

 学校では、こうも教える。「自分の命を大切にしなさい」

 道徳を取るか、自分の命を取るか、下衆な俺は二秒で選択した。モラルの為に死ねるほど俺は立派ではないし、偉くもない。

 それに程度の差こそあれ俺だって食料を盗っている。さすがに、亡くなった人の懐を探るほど落ちぶれてはいないが。

 世の中には白黒決着のつかない事もあるのだと、自分を騙してその場から逃げた。

 身ぐるみ剥がされた遺体と対面した親族の悲痛は言葉では表現できないだろうが、

 あの時の決断が正しかったのかどうか今でも俺の心にグレーな影を落としている。


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