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色々な人




…そこには、苦しみしか無かった。

どこまでが現実で、どこまでが悪夢かわからない。

気付いた時、身体の感覚はなかった。地獄の様な痛みと熱を感じた。

俺は焼けた石の上に転がされていた。鬼がミイラの列から容赦なく税金を取立てていた。

鬼たちは金を持っていない俺を遠くから嘲笑していた。


やがて、俺の意識は遠のいた。

次に感じたのは、背中の一点を針で突かれたような痛みだった。

その周囲に強烈なかゆみが湧いた。四、五匹の蚊に同時多発的に刺されたみたいな…それが体のあらゆる関節に発生したのだからたまらない。

反射的に掻こうとして、腕から先が燃えるように痛んだ。まるで蜂の大群が身体の中を刺して回っているようだ。

腹の底からえぐる様な別の痛みがこみあげて来た。

「げぇっ!」


俺が吐く間にも、背中がハンマーで殴られたように何度も痛んだ。

咳を繰り返すうちに、何かが喉の奥に詰まった。

同時に、猛烈な恐怖が襲って来た。俺はパニックに陥った。

押しつぶされるような圧迫感と吸い込まれるような感覚。

呼吸困難に陥った俺は、あるはずのない蟻地獄から逃れたい一心で、大声を出しながら、のたうち回った。

先ほどまでの痛みを上回る気持ち悪さだ。

指を喉に突っ込んで、ゲーゲーと唸ると、異物が取れた。

折れた歯の破片が出て来た。


この事で俺はトラウマを抱えてしまった。今でも夢に出てくる。夜中に飛び起きて絶叫する事がある。

どれくらい経ったのだろう。呼吸が整って、周囲を把握する余裕が出来た。

すでにあたりは真っ暗だった。

闇市を仕切っていたヤクザも、群がっていた客も嘘のように消えていた。

ひどい打撲と関節痛が手足に残るものの、幸いな事に骨折は無いようだ。這うように俺は歩き始めた。

このまま寝ていると、余震で崩れた家の下敷きになる。

俺はセンベイになった人々を見て来た。


しかし、俺には行き場が無かった。

俺は、≪御影(みかげ)駅まで来れば生き地獄から逃れられる≫という希望にすがって、ここまで来た。

だが、救いの手は差し伸べられなかった。

かわりに、ヤクザが被災者を食いものにして、いち早く地獄から脱するという、容赦ない生存競争を見せられた。


ああ…神様。「隣人を愛せよ」というのは、利用する事が前提なのですか?

俺は小さな橋の上で嘔吐を繰り返した。燃えさかる街では被災者たちが救助活動をしていた。

俺は空腹で体力が残っていなかったので、消火活動に加勢する事もできなかった。

突っ立って、あたりを見回していると、ふいにガスに引火したような炸裂音が橋の上を走って、

俺のすぐそばにいた子どもが呻き声とともに欄干に倒れかかった。俺は他の住民たちとそ

ちらへ駆けよった。

「担架!」と、誰かが叫んだ。

こんな状況に何で担架がある?


バリバリバリ。ヘリが頭上に迫って来た。

俺達は期待を込めて手を振った。助けてください!声を振り絞った。

ヘリは二、三度、旋回した後、小さくなって消えていった。

「何や?あいつ、自衛隊とちゃうんか?」

「救難物資を落としに来たのと違うんか?」

勝手な期待を裏切られた被災者達が怒鳴っている。

「あの人らカメラ構えてましたよ」

誰かが余計な一言を呟いた。

「何じゃコラ!ここはイラクちゃうど!」

案の定、余計な一言を言った者は、マスコミの代わりにボコボコに殴られた。


俺は子どもの頃に見たベトナム戦争のニュースを思い出した

ここは戦場だ。第二次大戦の首都ワルシャワそっくりだった。

廃墟と化したビル群、旋回するヘリ、火災。

不幸があふれている。足りないのは銃弾だけだった。

湾岸戦争の時も俺達は傍観者でしかなかった。むしろ、状況を愉しんでいた。

因果応報だ。


四名が倒れた子どもを抱えて、抱き上げようとした。

「痛いいいいい!あかん!」と子どもはうめいた。

子どもは顔をそむけて、親を探しもとめるように、遠くを、煙の流れを、空を、月を眺めはじめた。俺もついそちらを見た。

赤く染まった空のなんと美しく見えたことか。なんと淡く沈んで静かで、そして深い月だろう。

そしてもっともっと美しかったのは夕焼けに染まる六甲の山脈、神秘的な稜線、梢まで薄雪におおわれた山林。

あちらには安らぎと幸福があった。

『ああ・・・ただ、あそこに行きさえできたら』と俺は思った。

あの月の下にはこんなにたくさんの幸福があるのに、ここには…呻きと、苦痛と、恐怖と狂気、そして死傷者たち、このあわただしさ…

そらまた誰か叫んでいる。

そうだ、これがあれなのだ、死なのだ。俺の周りに…一瞬したら俺は、もはやあの月も、稜線も、二度と見ることが無くなってしまうのだ。

その時、月が雲の影に隠れはじめた。俺の前方に現実が映される。

子どもは安らな眠りを迎えていた。

「ほら、あなた。この子、あごに髭が一本、生えているわ」

我が子の亡骸を見て母親が呟いた。

「…そうか…せっかくここまで育てたのになぁ…もうちょっと生きてくれたら一緒に酒も呑めたのになぁ…悔しいなぁ」

父親がうつむいて嘆いた。

すると死と恐怖と月と親子の愛が、すべてが心を痛ましくおののかせる一つの印象に溶けあった。


小学校の校門にたどり着いた。既に校庭は被災者であふれていた。

俺は校舎に入ろうとして制止された。

それなりの秩序が確立されているようだ。

「何で入ったらあかんのや?」

俺の問いに大学生らしき門番が答えた。

「もう満員です。歩く元気のある人は外で寝てください」

俺はこいつを殴ってやろうと思った。

「俺も怪我しとるんじゃボケ!見てわからんのか?」

「でも、あなたはまだ歩けるでしょう!」

「俺に凍死しろっちゅうんか?!」

「あなたは、寝たきりの人に凍死しろと言えるんですか?」

「…」

俺は引き下がるしかなかった。完敗だ。

弱者を振りかざすのも生存競争。

最低賃金より生活保護費が高い自治体もあるという。


そして、俺は校庭の人々に加わった。あらゆる意味で負け組の吹きだまりだ。

飢えと寒さと疲労で会話する人はいない。ときどき子どもと母親の喧嘩が聞こえる。

無い物は無いのだ。

「キャー」

悲鳴があがった。

「美緒ちゃん!美緒ちゃん!」

若い母親が五歳くらいの娘を揺さぶっている。

「どうしましたか?」

たちまち、人が集まって来た。

「美緒が!美緒が!さっきまで返事していたのに、息をしてないんですぅー」

母親は号泣していた。

「…おかあさん…わたしも…しんどい」

美緒の隣で小学校低学年ぐらいの女の子がぐったりしている。

「綾香まで死んだら…わたしも手首切って死ぬー!」

半狂乱になった母親を男たちが羽交い絞めにして、どこかへ連れて行った。

「凄い熱や!こらあかん!すぐ医者に診せなあかん」

綾香ちゃんの額に手を当てた男性が叫ぶ。


「しかし…119もできひんしなぁ」

「救急車や!わし、見たで!国道二号線を救急車の軍団が走っとる」

「それ、どないせえっちゅうんですか?」

「どないかして、止めるんじゃ!」

男達の間から次々に暴論が湧き上がる。

またしても俺は、救急車妨害作戦の要員になっていた。

国道二号線。ハリウッド映画の追跡シーンのように地平線の向こうからサイレンと赤い光が襲来する。

違う点はパトカーでなく救急車であることだ。


しばらくすると、救急車が集まって来た。

「今回は特別に搬送します。ほんっとに例外ですよ!」

しぶしぶといった感じで救急隊員達が言う。

「みなさん聞いてください。条件があります。まず、意識のない人は搬送しません」

被災者達の間から驚きの声が上がった。急患を選別するというのだ。

まず重病人が優先されるべきではないのか?

命は平等ではないのか?

そうではないらしい。助かる見込みのない者に人員を割く余裕がないのだ。

俺は神を呪った。また、弱肉強食か!


「次に持病のある方、今日、薬を飲まないと命に関わるという方、臨月の妊婦や生命維持の必要な障害児、透析が必要な方に限ります」

切り捨てる条件が明示された。

「綾香、綾香を乗せてあげて」

母親がぐったりした娘を抱えて救急隊員に食い下がる。

その時だった。

「僕のかわりに先、乗ってください」

ある青年が救急車から降りて来た。

「僕、透析せなあかんのですけど。綾香ちゃんのお母さん、どうぞ。僕は後でもかまいません」

青年は、にっこり笑って席を譲った。そして母娘は搬送されていった。


俺は雷に撃たれた!

カルネアデスの板と言う説話がある。浮力が一人分しかない板を遭難者が互いに奪いあう際、相手を見殺しにしても罪に問われないという。

共倒れになるよりはマシという結論だが…

青年は犠牲になる方を選んだ。

貴方は出来るだろうか?持病の治療を投げ打って小さい女の子を助ける。

俺だって我が身が可愛い、できない。

翌日、彼は透析が間に合わずに亡くなってしまった。

神は弱肉強食の不条理を罵ってばかりいる俺に、「青年・逆カルネアデス」を遣わしたのだ。

ああ!俺が馬鹿だった!!逆カルネアデスよ!愚かな俺を許してくれ!!


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