053
国境を越えた森は、静かだった。
虫の声。
風に擦れる枝葉。
生きているものの音だけが、薄く世界を満たしている。
ヴェルケン王国の、あの濃すぎる死の気配が嘘のようだった。
焚き火を小さく起こす。
リリアは無言で荷を下ろし、外套を整える。
俺は剣を布で拭き、刃の欠けを確かめる。
言葉は要らなかった。
王城で知った真実が、まだ胸の奥で腐臭を放っている。
夜半。
見張りの刻。
焚き火の向こうに、俺は術式を描く。
「……来い」
影が集まり、濃くなり、形を持つ。
鎧を纏った剣士。
槍を携えた戦士。
父と、母の骸。
喉が僅かに渇く。
それでも、名を呼ぶ。
「アルベルト」
「セレスティア」
真名を与えられた骸は、わずかに揺れた。
縛りが深くなる。
術式は安定する。
力も、より明確になる。
――同時に、魂の拘束も強まる。
「……すまない」
それだけは、毎回言う。
許されないと分かっていても。
二人は何も答えない。
ただ静かに、命令を待つ。
やがて夜が薄れ、森が白く滲む。
霧が低く漂い、湿った冷気が肌を撫でた。
「……嫌な感じがします」
リリアが呟く。
「ああ」
俺も同じものを嗅いでいる。
土と草に混じる、かすかな死臭。
森を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
広大な草原。
青い空。
緩やかな風。
――美しい景色だ。
だが。
地平線が、黒い。
最初は雲だと思った。
次は森影かとも考えた。
だが、違う。
それは、動いている。
人の形。
馬の形。
歪な鎧。
折れた槍。
欠けた盾。
屍だ。
千。
いや、それ以上。
整然と並び、無音のまま進軍している。
足音もない。
呼吸もない。
あるのは――
世界の表面を削るような、死の圧力だけ。
「……軍隊、ですね」
リリアの声が、かすかに震える。
「ああ」
俺はアルベルトとセレスティアを前に立たせる。
だが、理解している。
二人では足りない。
技量の問題じゃない。
覚悟の問題でもない。
数が、違いすぎる。
喉が、ひりつく。
「……これが」
「王様ごっこの、完成形か」
戦争を起こし、
死体を集め、
屍を増やし、
さらに戦争を起こす。
ヴェルケン王国は、国ではない。
巨大な死体の孵化場だ。
俺は剣を握り直す。
逃げることもできる。
だが、逃げれば――
この軍勢はどこかの街を踏み潰す。
村を。
国を。
そして、また材料を増やす。
「……止める」
「王を殺す」
「四人も、全員だ」
アルベルトとセレスティアの骸が、無言で並ぶ。
リリアが小さく尋ねる。
「……生きて、戻れますか?」
「分からない」
だが、目は逸らさない。
「それでも行く」




