039
紅茶の香りが、
胸の奥まで染み込んでくる。
甘い。
やさしい。
――逃げ場がない。
私は椅子に座らされている。
逃げようとしても、
足が床に“縫い止められている”ように動かない。
矢は効かなかった。
聖魔術も意味を持たなかった。
ここでは、攻撃という概念が成立しない。
だから――
私は言葉を選ぶ。
「……アリス」
少女は、
穏やかに微笑んでいた。
「どうして、
こんなことをするんですか?」
「みんな、
ここにいれば独りにならないから」
「いなくならないから」
その言葉は、
願いそのものだった。
「……でも」
私は、
震えながら続ける。
「ここにいる人たち、
笑っていません」
「待っているだけです。
止まっているだけです」
骸たちを見る。
同じ動きを繰り返す腕。
同じ角度の首。
同じ“固定された笑顔”。
「それは、
一緒にいることじゃありません」
アリスの微笑が、
わずかに揺れた。
「あなたは、
独りが怖かったんですよね?」
「だから、
みんなを連れてきたんですよね?」
沈黙。
「……でも」
私は、
言葉を絞り出す。
「ここにいる限り、
あなたも独りのままです」
「誰も、
あなたと“生きて”いません」
紅茶の水面が、
小さく揺れた。
アリスの瞳が、
かすかに潤む。
「……生きてる人は、
いなくなっちゃうもん」
「置いていくもん」
「だから……
だから、止めたの」
私は首を振る。
「止めたんじゃありません」
「縛っただけです」
「あなた自身も、
ここに縛りつけています」
骸たちの動きが、
わずかに乱れる。
同じ動作が、
ほんの一瞬ずれた。
床に、
細かな亀裂が走る。
ティーカップの縁が、
音もなく欠ける。
紅茶の表面に、
見たことのない波紋が広がる。
「……アリス」
私は、
優しく呼ぶ。
「あなたは、
独りのままではいけないんです」
「でも、
こんな形じゃ……
誰も救えません」
アリスの口元が、
震えた。
「……じゃあ、
私はどうすればよかったの?」
その言葉は、
子供の泣き声だった。
「私は、
どうすれば独りじゃなくなれたの?」
答えようとした瞬間――
結界が、崩れた
音が消えた。
紅茶の香りが、
一瞬で薄れる。
世界が、
ひび割れる。
椅子が、
テーブルが、
骸が――
ガラスのように崩れ始めた。
「……え?」
視界が揺れ、
光が差し込む。
次の瞬間、
私は“外”にいた。
小屋。
崩れかけた床。
骸の匂い。
そして――
クロウさん。
彼は、
剣を握っていた。
涙を流しながら。
歯を食いしばり、
声を殺し、
肩を震わせながら。
そして――
アリスの胸を、剣で貫いていた。
少女の小さな身体が、
ゆっくりと崩れ落ちる。
「……やめ……」
声にならなかった。
クロウさんの涙が、
床に落ちる。
「……ごめんな」
掠れた声。
「……独りに、
させたくなかった」
剣を引き抜くと、
アリスの身体は、
静かに崩れていった。
紅茶の香りが、
完全に消える。
私は、
震えながら思う。
これは救いじゃない。
これは正義でもない。
それでも――
必要だった決断だ。




