037
骸の動きが、
少しだけ緩む。
その隙に、
俺は懐へ手を伸ばした。
手帳。
三年前に発行された、
ネクロマンサーの確認表。
異端の名を記した、
指名手配帳のような冊子。
紙をめくる。
乾いた音が、
やけに大きく響いた。
そこに――
彼女の名前がある。
アリス。
発現時期。
危険度評価。
短い備考欄には、
冷たい文字が並んでいた。
「家族喪失後、術式発現」
「孤立状態が長期化」
「保護対象とされたが、所在不明」
「……いつから独りだった?」
思わず、
零れていた。
胸の奥が、
ひどく締めつけられる。
――家族を失った日。
――誰もいなくなった家。
――声を出しても、
返事がなかった夜。
かつての自分が、
そこに重なる。
もし、
俺がもっと若くて。
もっと孤独で。
もっと救われなければ――
同じ場所に立っていたのは、
俺だったかもしれない。
「……撃てない」
喉の奥から、
かすれた声が落ちる。
「この子は……
俺と同じだ」
影の骸が防御を続ける。
だが、
俺は反撃の命令を出さない。
「クロウさん……!」
リリアの声が、
わずかに焦りを帯びる。
「このままだと、
本当に――!」
だが、
俺の視線は、
アリスから逸らせなかった。
「ねえ」
少女が、静かに言う。
「あなたも、
独りだったでしょう?」
心臓が跳ねる。
「だから、
ここに来たんでしょう?」
否定できない沈黙が、
空間を満たす。
そのとき、
床が揺れた。
紅茶の水面に、
小さな波紋が広がる。
テーブルの影が、
別の“円”を描き始める。
「……え?」
背後で、
リリアの声が揺れた。
振り返った瞬間、
彼女の足元に――
もうひとつのお茶会が開いていた。
歪んだ椅子。
欠けたカップ。
空の席。
“招待席”。
「クロウさん……?」
彼女の身体が、
ゆっくりと沈んでいく。
「待て――!」
手を伸ばす。
だが、
距離が歪む。
数歩のはずの距離が、
まるで永遠のように遠い。
「クロウさん……!」
紅茶の水面が揺れ、
リリアの指先が沈む。
最後に見えたのは、
縋るような笑顔だった。
アリスが、
静かに微笑む。
「……お客様、
ひとり追加ね」
その言葉と同時に、
水面が閉じる。
リリアの姿が、
完全に消えた。
あの世界では、
時間が違う。
数分が、
数日になる。
やがて彼女は、
席に座り、
微笑み、
“客”になる。
俺は、
拳を握りしめる。
――撃てなかった。
――選べなかった。
――守れなかった。
アリスが囁く。
「ねえ、
次はあなたの番?」
紅茶の香りが、
さらに甘くなる。




