030
街を発つのは、夜明け前だった。
教皇庁の尖塔は霧の向こうに沈み、
鐘の音だけが微かに残っている。
馬車の車輪が軋み、
石畳から土の道へと移り変わる。
今回の目的地は、
隣国へ続く交易路の都市――《レインフォール》。
確かな噂はない。
敵の影も、まだ見えていない。
それでも向かう理由は明確だった。
遺体が運ばれているなら、
通るのは交易路しかない。
戦いを求めているわけじゃない。
“流れ”を追うだけだ。
揺れる車内で、
俺は鞄から古びた手帳を取り出す。
革表紙は擦り切れ、
角は丸く潰れている。
中には、
ネクロマンサーの名と簡単な記録。
そして――
黒く塗り潰された名前の列。
ページをめくる。
最後に記されたのは、
若き神父の名。
家具を操り、
死体を玩具にし、
魂を嗜好の対象とした男。
俺は感情を挟まず、
ペンを取る。
名の上に、
黒を引く。
一筆。
もう一筆。
文字は消え、
ただの“記録”になる。
これで――九人目。
数字が増えても、
達成感はない。
誇りもない。
解放感もない。
あるのはただ、
終わりがまだ遠いという実感。
リリアが、控えめに視線を向ける。
「……それ、
倒した人たちの……名前ですか?」
「記録だ」
短く答える。
「忘れないため、ですか?」
一瞬だけ、
思考が止まる。
「……数を間違えないためだ」
本当は違う。
だが、言う必要はない。
忘れるためでもあり、
忘れないためでもある理由は。
馬車はゆっくりと進む。
街道の両脇には、
畑と墓標が点在している。
リリアが小さく尋ねる。
「……次の街、
危険でしょうか?」
俺は外の景色を見たまま答える。
「危険じゃない街なら、
最初から調べる意味がない」
リリアは少し苦笑した。
「……相変わらずですね、クロウさん」
俺は返さない。
ただ、
手帳の九つの黒を指でなぞる。
今回の旅は、
戦いを目的としない。
死体の“行き先”を探るだけだ。
それでも――
どこかでまた、
黒く塗り潰す名前が増える。
その予感だけは、
消えなかった。




