001
死体の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
雨上がりの街道を抜け、俺は小さな宿屋の扉を押し開ける。
軋む音とともに、濁った酒と煙草と汗の臭いが鼻を刺した。
中は騒がしい。笑い声と罵声、酒瓶のぶつかる音。
そして、その中心で――ひとりの少女が絡まれていた。
「なあ、もう一杯付き合えよ。減るもんじゃねえだろ?」
荒くれた男が、少女の腕を掴んでいる。
少女は必死に振りほどこうとしているが、力の差は歴然だった。
助けを呼ぼうとしているのに、声が出ない。
――そんな表情をしていた。
俺は、ため息をつく。
「離せ」
静かに言ったつもりだったが、店内の喧騒の中でも不思議と通ったらしい。
男たちの視線が一斉にこちらへ向く。
「なんだてめえ?」
酒臭い息とともに睨みつけられる。
その目に、見覚えのある光が宿っていた。
――暴力を楽しむ者の目だ。
腰に差した短剣に手をかける必要すらなかった。
ほんの一歩踏み出し、男の影を踏む。
それだけで、男の顔色が変わった。
「……ッ」
理由は分からないだろう。
だが、魂の縁に触れられた時、人は本能で理解する。
――こいつに関わると、死ぬ。
男は舌打ちし、少女の腕を放して仲間の元へ退いた。
店内に気まずい沈黙が落ちる。
少女は少し震えながらも、こちらを見上げた。
「……助けてくれて、ありがとう」
その声は、驚くほど澄んでいた。
俺は視線を逸らす。
「礼はいらない。巻き込まれる前に、ここを出たほうがいい」
「でも……」
少女は言いかけて、俺の影を見た瞬間に言葉を失った。
影の中で、ありえない数の“手”が蠢いていたからだ。
――死者の名残。
彼女は、それを見てしまったのだろう。
少しの沈黙のあと、少女は震える声で言った。
「……あなた、ネクロマンサーなんですか?」
店の空気が、一気に凍りついた。
俺は、ゆっくりと笑う。
「だったら……どうする?」
少女は一瞬言葉を失い、それでも目を逸らさなかった。
「……怖い、です。でも――怖い人じゃないって、思いました」
面倒なことを言う。
俺は酒場の奥へ視線を投げ、空いている席を探した。
「勝手に思ってろ」
そう言い残して歩き出すと、少女は少し迷った後、ついてきた。
酒場の喧騒は元に戻りつつあったが、時折こちらを盗み見る視線がある。
ネクロマンサーという言葉は、この街では忌み言葉だ。
椅子に腰を下ろすと、店主が怯えた顔で酒を運んできた。
俺ではなく、少女の前にだけ置いて去っていく。
沈黙。
先に口を開いたのは、少女の方だった。
「私、リリアって言います」
名乗る必要はないと思ったが、彼女は少しだけ微笑んだ。
「あなたの名前は?」
「……名乗るほどのものじゃない」
「じゃあ、呼び名だけでも」
しつこい。
だが、拒み続ける理由もない。
「……クロウでいい」
少女はその名前を小さく反芻した。
「クロウさん」
その呼び方が、ひどく居心地悪く感じられた。
しばらくして、リリアはぽつりと零した。
「私、旅の途中なんです」
「一人で?」
「はい。……家に戻る場所がなくて」
珍しくない話だ。
この世界には、戻る家を失った人間の方が多い。
「さっきの人たち、よく絡まれるんです」
「なら、こんな宿は選ぶな」
「でも……安いんです」
困ったように笑うその表情は、どこか無防備だった。
――長くは生き残れないタイプだ。
そう思った瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。
「クロウさんは、どうして旅を?」
答える義理はない。
だが、彼女の視線には、好奇や詮索ではなく、純粋な関心があった。
「……探し物をしている」
「大切なもの?」
「ああ」
失くしたもの。
奪われたもの。
そして、取り戻さなければならないもの。
リリアは少し迷ってから言った。
「私も……誰かを探しています」
「誰を?」
「……生きているか、もう分からない人です。でも、諦めたくなくて」
その言葉は、胸の奥に小さな棘を残した。
その時だった。
酒場の扉が乱暴に開き、冷たい夜風が吹き込む。
「おい」
さきほどの荒くれ者たちが、仲間を増やして戻ってきた。
「さっきは恥をかかせてくれたな」
男の視線が俺に突き刺さる。
周囲の客たちは、見て見ぬふりを決め込む。
巻き込まれたくないのだ。
リリアの肩が、わずかに強張った。
俺は立ち上がる。
「外でやれ。床を汚すのは嫌いだ」
「強気じゃねえか。ネクロマンサー風情が」
その言葉に、酒場の空気がさらに凍りつく。
男は嘲るように笑った。
「死体でも使うか? ここで試してみるか?」
――浅い。
俺は一歩踏み出し、男の影へと足を伸ばす。
影が、歪んだ。
見えない“何か”に触れられた瞬間、男の顔から血の気が引く。
「……ひ、ひっ」
耳元で、誰かが囁いた気がしたのだろう。
もうこの世にいない者の声が。
男は後退り、仲間も連れて逃げるように店を出ていった。
静寂。
リリアは、俺をまっすぐ見つめていた。
「……さっきの、何をしたんですか?」
「何も」
「でも……影が……」
俺は視線を逸らす。
「見ない方がいいものもある」
「でも、私は――」
彼女は、一歩踏み出した。
「あなたのこと、知りたいです」
その言葉は、妙に重かった。
俺は思わず苦笑する。
「やめておけ。俺に近づくと、ろくな目に遭わない」
「それでも」
迷いのない声だった。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
――昔、同じような目をした人間がいた気がした。
もう、思い出したくない記憶と共に。
俺は言った。
「……勝手にしろ。ただし、後悔しても責任は取らない」
リリアは、少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます、クロウさん」
その笑顔を見た瞬間、
俺はなぜか、取り返しのつかない未来を予感した。




