第71節: 獅子の不快
いつも『元・社畜SEの異世界再起動』をお読みいただき、誠にありがとうございます。
フロンティア村が放った小さな一石は、静かに、しかし確実に大陸に波紋を広げ始めました。それは、希望の噂であると同時に、新たな混沌の予兆でもあります。
今回は、その噂が、全く別の、そして最も危険な人物の耳に届くお話です。フロンティア村が築き上げたささやかな平穏に、ついに文明社会の「権力」という名の影が、その姿を現します。
物語が新たなフェーズへと移行する、重要な一話です。どうぞ、お楽しみください。
リオニス王国東部辺境伯、ギュンター・フォン・ロックウェルは、暖炉の炎が揺らめく執務室で、極上のエールが注がれた銀の杯を、不機嫌そうに指でなぞっていた。
彼の居城であるロックウェル城は、その名の通り、岩を削り出して作られた無骨な要塞だ。だが、この執務室だけは、彼の権力と富を誇示するかのように、贅を尽くした装飾が施されている。壁には、彼が自ら狩ったという巨大な魔獣の首がいくつも飾られ、床には、東方から取り寄せたという真紅の絨毯が敷き詰められていた。
その空間で、ギュンターは、苛立っていた。
彼の不快の種は、目の前で脂汗を流しながら、卑屈な笑みを浮かべて立つ、一人の男がもたらした、馬鹿げた報告書だった。
「……それで、お前の報告は、それだけか、ゴードン」
ギュンターの、低い、地を這うような声が、部屋に響いた。
報告に立っていたのは、ザルツガルド商業ギルド、ロックウェル支部長のゴードンだった。彼は、この辺境において、王国の法よりも絶対的な権力を持つ獅子の前で、ただ縮こまっていることしかできなかった。
「は、はい、辺境伯閣下……。先日ギルドを追い出されたバートなる商人が触れ回っている与太話にございます。亜人の村が独自の街道を作り、要塞のような村を築いている、と。さらに、ドワーフの国宝級とも言える鋼の道具や、王宮錬金術師の秘薬に匹敵するポーションを量産している、などと……。我々ギルドとしては、到底信じがたい狂人の戯言と判断しておりますが、その話を真に受けた何人かの命知らずが、『見捨てられた土地』の方角へ姿を消した、との報告も……」
「分かっておるわ」
ギュンターは、ゴードンの見苦しい言い訳を、一蹴した。
彼の興味は、ギルドの体面などにはなかった。彼の、支配者としての鋭い嗅覚が、その、一見、荒唐無稽な噂話の中に、無視できない、「不協和音」を嗅ぎつけていたのだ。
ギュンターは、立ち上がると、執務室の窓辺へと歩み寄った。窓の外には、彼の領地であるロックウェルの街並みが、雪解けの泥濘の中に広がっている。そして、その、さらに向こう。東の地平線には、暗い森の影が、不吉な線を描いていた。
『見捨てられた土地』。
魔物が闊歩し、魔素が淀む、呪われた場所。そして、人間の世界からこぼれ落ちた、亜人という名の、「ゴミ」が住み着く場所。
それが、ギュンターの認識だった。
「……亜人を、どう思う、ゴードン」
唐突な問い。
ゴードンは、戸惑いながらも、必死に主の意に沿うであろう答えを探した。
「は、はい……。彼らは、言葉を話す、獣。我ら、人間様に奉仕するために存在する、労働力……あるいは、道具にございますな」
「そうだ」
ギュンターは、満足げに頷いた。
「奴らは、道具だ。あるいは、家畜だ。我ら支配者が管理し、利用し、そして、必要とあらば処分する。それが、この世界の正しい秩序だ。……違うか?」
「お、おっしゃる通りでございます!」
「だが」
ギュンターの声のトーンが変わった。それは、獲物を見つけた獅子の、低い唸り声だった。
「その家畜が、だ。我らの許可なく、勝手に集まって村を作り、あまつさえ、『交易所』などという人間の真似事を始めたとしたら。……それは、どういうことだ?」
「……そ、それは……。秩序を乱す、不届き千万な……」
「そうだ。それは、反乱の兆候だ」
ギュンターは、きっぱりと断言した。彼の灰色の瞳が、氷のような冷たい光を宿す。
「道具は、道具らしく、ただ使われていればいいのだ。家畜は、家畜らしく、ただ首を垂れて、我らの慈悲を待っていればいい。……それが分からん馬鹿な獣には、教え込んでやらねばならん。……恐怖という名の、躾をな」
彼は、あの商人バートが持ち帰ったという、「奇跡の鋼」の噂も耳にしていた。
だが、彼はそれを信じてはいなかった。亜人共に、そんなものが作れるはずがない。おそらく、どこかの古代遺跡から掘り出してきた、まぐれ当たりの代物だろう。
だが、問題はそこではない。
問題は、奴らが、その「まぐれ当たり」を自分たちの「力」だと勘違いし、増長しているという、その事実そのものだった。
放置すれば、どうなるか。
噂を聞きつけた、他の亜人共が、その村に集まり始めるだろう。
力を持った、亜人の大規模な共同体。
それは、彼の、この東部辺境における絶対的な支配体制を、根底から揺るしかねない、危険な「癌細胞」だった。
(……芽は、小さいうちに、摘み取らねばならん)
ギュンターは、内心で静かに結論を下した。
噂の真偽など、どうでもいい。ただ、自分の庭に、自分の許可なく、巣を作った害獣がいる。その事実だけで、駆除の理由としては、十分すぎる。
彼は、ゴードンに、もはや何の興味も失ったかのように、冷たく言い放った。
「……よいか、ゴードン。お前はギルドに戻り、この件に関しては一切口外するな。ギルドとしても、静観を保て。……これは、もはや商売の話ではない。……この、リオニス王国の、安全保障の問題だ」
「は、はひっ!」
ゴードンは、這うようにして、その場を辞した。
一人残された執務室で、ギュンター・フォン・ロックウェルは、窓の外の暗い森を見つめながら、その薄い唇に、残酷な笑みを浮かべた。
「……面白い。……久しぶりに、狩りの血が騒ぐわい。……せいぜい、楽しませてくれよ、亜人の、王様気取りの、ガキ大将よ」
フロンティア村が築き上げたささやかな平穏。
その温かい光に気づいたのは、一攫千金を夢見るハイエナたちだけではなかった。
より冷酷で、より貪欲で、そして、より圧倒的な力を持つ獅子が、確かに、その飢えた牙を研ぎ始めていた。
文明社会からの、最初の、そして本当の脅威が、静かに、しかし確実に、その足音を近づけてきていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
フロンティア村の噂は、ついに、物語の最初の本格的な「敵」となるであろう、ギュンター辺境伯の耳に届いてしまいました。
彼の、亜人に対する歪んだ、支配者としての価値観。それが、フロンティア村の理想と、どうぶつかり合っていくのか。
物語は、ここから新たな、そして、より大きな緊張のフェーズへと移行します。
次回、辺境伯は、噂の真偽を確かめるため、ついに具体的な行動を開始します。フロンティア村に迫る、文明社会の影。
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次回もどうぞ、お楽しみに。




