第66節:交渉(ネゴシエーション):情報という名の通貨
いつも『元・社畜SEの異世界起動』をお読みいただき、誠にありがとうございます。皆様の温かい応援に支えられ、フロンティア村はついに、外の世界へとその扉を開く決意を固めました。
前回、亜人の村と侮り、詐欺まがいの取引を持ちかけた商人バートの前に、ついに我らが大将ケイが降臨しました。彼の秘密をすべて見通す《アナライズ》の前に、商人は完全にひれ伏します。
今回は、完全に主導権を握ったケイによる、本当の「交渉」が始まります。彼がこの商人から引き出す「価値」とは何か。フロンティア村、最初の経済戦争。その火蓋が、今、切られます。
それでは、物語が大きく動き出す第六十六話、お楽しみください。
「……さて、と。それでは、始めようか。……本当の、『交渉』を」
その声は、悪魔の囁きよりも甘く、そして、絶対王の宣告よりも冷徹だった。
交易所の中の空気は、もはや凍りついているという生易しいものではない。それは、真空状態にでもなったかのように、音も、光も、そして、希望さえも、銀髪の少年――ケイ・フジワラの、その小さな身体へと吸い込まれていくかのようだった。
行商人バート・ランガーは、生まれて初めて、魂の底から「死」を意識した。
彼は、これまで何度も、魔物の巣を横切り、山賊の縄張りを通り抜けてきた。そのたびに、命の危険を感じたことはある。だが、それらは全て、物理的な暴力に対する、動物的な恐怖だった。
今、彼が感じている恐怖は、全く異質だった。
目の前の少年は、武器を構えているわけではない。殺気を放っているわけでもない。だというのに、自分の、心の奥底の、最も隠しておきたい秘密の全てを、白日の下に晒され、その上で、まるで、盤上の駒のように、弄ばれている。それは、自らの存在そのものが、完全に支配されているという、抗いようのない、絶対的な絶望感だった。
「ひ、ひぃぃ……!
お、お許しください……!
こ、この、卑しい商人の、浅知恵を……!
どうか、どうか、命だけは……!」
彼は、粗末な木の床に、何度も、何度も、額を擦り付けた。商人としての矜持も、計算も、もはや、彼の頭の中には、一片も残っていなかった。
ケイは、その哀れな姿を、何の感情も浮かばない青い瞳で、静かに見下ろしていた。
彼の頭脳は、常に、冷静だった。
これは、私刑ではない。これは、プロジェクトだ。
プロジェクト名:『市場価格データ取得』。
目の前の男は、そのための、最高のテストケースであり、情報源(APIサーバー)だ。感情に流され、この貴重なリソースを、破壊するのは、最も非合理的な選択だった。
「顔を上げろ」
ケイの、静かな命令。
バートは、びくりと肩を震わせ、おそるおそる、その、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「君を、殺すつもりはない。君のような、有益な情報源は、生かしておいた方が、利用価値が高いからな」
その、あまりにも、非情な、しかし、バートにとっては、救いの言葉。
「……あ、ありがとうございます……!」
「だが」
ケイは、その、安堵の言葉を、氷の刃で、断ち切った。
「君が、我々を侮辱したという事実は、変わらない。その、代償は、きっちりと、支払ってもらう」
彼は、ゆっくりと、交易所の中を歩き始めた。そして、バートが、先ほど、得意げに提示した、「宝物」の一つ一つを、その小さな指で、つまみ上げていく。
「まず、この『塩』。あなたの荷馬車には、これが、あと、五袋積んである。……その、全てを、ここに、置いていってもらおう」
「ご、五袋、全て、でございますか!?」
それは、バートが、この辺境での、数ヶ月分の取引のために、用意してきた、全在庫だった。
「次に、この『布』。似たようなものが、あと、十反ほど、あったな。色違いの、上等な絹も、二反ほど、隠していたはずだ。……それも、全て、置いていけ」
「き、絹まで……!?」
それは、彼が、どこかの貴族の屋敷に、コネを使って納品するはずだった、虎の子の商品だった。
「そして、最後に、この、魔法の金属片」
ケイは、再び、床に転がっていた銅貨を、つまみ上げた。
「君の、その、汚れた革袋。その中身を、全て、このテーブルの上に、ぶちまけろ。……金貨も、銀貨も、銅貨も、一枚、残らずだ」
その、最後通告。
バートは、もはや、反論の言葉さえ、失っていた。
それは、彼の、全財産だった。この、旅の、全ての、利益が、今、目の前で、奪い去られようとしている。
だが、彼は、逆らえなかった。
彼は、震える手で、革袋を、腰から外すと、その中身を、じゃらり、と、テーブルの上に、ぶちまけた。
金、銀、銅。三色の、金属の輝きが、薄暗い交易所の中で、空しく、光った。
ケイは、その、小さな山の前に立つと、まるで、子供が、おはじきでも仕分けるかのように、コインを、指で、選別し始めた。
彼は、そこから、銀貨を五枚だけ、取り分けると、それを、バートの足元へと、投げ返した。
「……そ、それは……?」
「帰りの、路銀だ」
ケイは、こともなげに言った。
「君を、無一文にして、この森で、飢え死にさせるのは、僕の、本意ではない。それでは、君が持ち帰るべき、『情報』が、ギルドに届かなくなってしまうからな。……その、銀貨五枚で、王都まで、帰れるだろう?」
その、あまりにも、計算され尽くした、慈悲。
バートは、もはや、恐怖を通り越して、目の前の少年に対する、畏怖の念さえ、感じていた。
この少年は、自分を、殺すことも、生かすことも、できる。そして、その、どちらが、自分にとって、より、利益になるかを、完璧に、計算しているのだ。
「……さあ、これで、取引は、成立だ」
ケイは、そう言うと、先ほど、バートが、喉から手が出るほど、欲しがった、鋼鉄の鍬と、ルビーのように輝く、高純度のポーションを、彼の足元へと、無造作に、転がした。
「……え……?
こ、これを、本当に、私に……?」
バートは、信じられない、といった顔で、その二つの、至宝を、見つめた。
自分の、全財産と、引き換えに。いや、それでも、安すぎるほどの、価値がある、この、奇跡の品々を。
「ああ。それは、君への、『投資』だ」
ケイは、静かに、言った。
「君は、今日、ここで、人生で、最高の取引をした。そして、最悪の、失敗をした。その、両方の、事実を、ギルドに持ち帰り、ありのままに、報告するんだ」
彼の、青い瞳が、バートの、心の奥底を、見透かすように、細められる。
「『見捨てられた土地』の奥地に、未知の、しかし、圧倒的な技術力を持つ、亜人の村がある、と。彼らの作る品は、本物だ、と。そして、彼らのリーダーは、公正な取引を望んでいるが、相手を侮辱する、愚か者には、容赦しない、と。……そう、伝えるんだ。それが、君に与えられた、最後の、そして、最も重要な、仕事だ」
それは、命令だった。
そして、同時に、彼が、この、経済という、新しい戦場で、放った、最初の、観測気球であり、宣戦布告でもあった。
バートは、わなわなと震えながら、その、二つの、至宝を、まるで、神体でも抱くかのように、恐る恐る、胸に抱いた。
「……か、必ず……。必ずや、お伝え、いたします……」
「よし。……では、もう、行っていい」
ケイは、そう言うと、彼に、完全に、背を向けた。
もはや、彼には、興味がない、と、言わんばかりに。
バート・ランガーは、這うようにして、その場を立ち去った。
空になった荷馬車を、虚ろな目で引きながら、彼は、何度も、何度も、振り返った。
森の、入り口に、ぽつんと建つ、小さな、交易所。
その、暗い入り口で、自分を、静かに見送っている、二つの、金色の、猫の瞳と、そして、その、さらに奥の、闇の中で、全てを、見通しているかのような、一つの、恐ろしく、そして、どこか、神々しい、青い瞳を、彼は、生涯、忘れることは、ないだろう。
◆
商人の、荷馬車が、街道の、遥か彼方へと、消えていくのを、見届けた後。
交易所の中は、再び、静寂に、包まれていた。
床には、商人から、半ば、強奪した、塩や、布の、袋が、山と積まれている。そして、テーブルの上には、フロンティア村が、初めて、自らの力で手に入れた、「貨幣」が、鈍い光を放っていた。
「……すごいです、大将様……」
リリナが、感嘆と、そして、少しの、畏怖を込めた、囁き声で、言った。
彼女は、先ほどの、ケイの、あまりにも、鮮やかな、交渉術を、目の前で、見て、完全に、打ちのめされていた。
あの、抜け目のない、老獪な商人を、まるで、赤子の手を、ひねるように、完全に、手玉に取る。
自分には、決して、真似のできない、芸当だった。
「……別に、大したことじゃない」
ケイは、そっけなく、答えた。
「ただ、相手よりも、多くの、『情報』を持っていた。……それだけのことだ」
彼は、テーブルの上の、銀貨の一枚を、つまみ上げると、それを、光に、かざした。
そこに、刻まれている、リオニス王国の、王家の紋章。
「……だが、これで、僕たちのプロジェクトは、ようやく、次の、フェーズへと、進むことができる」
彼の、青い瞳は、この、小さな、銀色の円盤の、さらに、その先に広がる、広大な、経済という名の、新しい、戦場を、見据えていた。
「この、『お金』という、新しい、武器の、使い方を、僕たちは、これから、学んでいかなければならない。……僕たちの、本当の、交易は、まだ、始まったばかりなのだから」
その、静かな、しかし、力強い、宣言。
それは、フロンティア村の、歴史が、また一つ、新しい、そして、極めて、重要な、ページを、めくったことを、告げる、始まりの、鐘の音だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに、フロンティア村の、記念すべき、最初の交易が、成立しました。ケイの、チートな《アナライズ》と、前世の経験に裏打ちされた交渉術が、見事に炸裂しましたね。商人バートの、絶望っぷりには、少し、同情してしまったかもしれません(笑)。
さて、初めての「通貨」と、そして、大量の物資を手に入れた、フロンティア村。この、歴史的な、第一歩は、村に、どのような、変化を、もたらすのでしょうか。
そして、恐怖と共に、ギルドへと帰還した商人バートが、もたらす、「フロンティア村」の噂。それは、やがて、大陸の、経済界に、どのような、波紋を、広げていくことになるのか。
「面白い!」「ケイの交渉術、痺れた!」「経済戦争、本格的に始まって、ワクワクする!」など、思っていただけましたら、ぜひブックマークと、↓の☆☆☆☆☆での評価をお願いいたします。皆様の応援が、フロンティア村の、次の、取引を、成功へと導きます!
次回もどうぞ、お楽しみに。




