第65節: 交渉(ネゴシエーション):非対称な情報戦
いつも『元・社畜SEの異世界再起動』をお読みいただき、誠にありがとうございます。皆様の温かい応援に支えられ、フロンティア村はついに、外の世界へとその扉を開く決意を固めました。
前回、亜人の村と侮っていた商人バートが、村の常識外れの技術力の前に度肝を抜かれました。そして、始まった最初の交易交渉。値付けを知らない亜人を相手に、抜け目のない商人が牙を剥きます。
フロンティア村、最初の経済戦争。その火蓋が、今、切られます。
それでは、物語が大きく動き出す第六十五話、お楽しみください。
「申し訳ありませんが、あいにく、私どもは、まだ、お金の価値を、存じ上げません。……ですので、これらの品々と、釣り合うだけの、『価値ある品』を、ご提示いただければ、と」
リリナ・テールウィップが、その愛らしい顔に、完璧なまでのビジネススマイルを浮かべて放った言葉。それは、行商人バート・ランガーの、四十年の商人人生において、最も甘美で、そして、最も心躍る響きを持っていた。
(……カモだ)
彼の、商人としての血が、沸騰するのを、必死に、理性で抑え込む。
(それも、ただのカモじゃねえ。一生に、一度、お目にかかれるかどうかの、金色の、羽を持つ、伝説のカモだ!)
金銭の価値を知らない。
なんと、素晴らしい、なんと、慈悲深い、神々の導きだろうか。
目の前に並べられた、三つの、奇跡の品々。その、一つ一つが、中央の市場に持ち込めば、下手をすれば、小さな貴族の邸宅が、一つ、買えてしまうほどの、価値を秘めている。
それを、目の前の、世間知らずな、猫の小娘は、「価値ある品と、交換してほしい」などと、寝言を言っているのだ。
バートの頭脳は、そろばんを弾くよりも、遥かに速く、回転していた。
ここで、欲をかきすぎては、いけない。相手が、いくら無知でも、あまりにも、不釣り合いな交換を提示すれば、警戒される可能性がある。
重要なのは、相手に、「自分たちは、良い取引をした」と、心から、信じ込ませること。
そのためには、何が必要か?
――物語だ。
彼は、その、卑屈な商人スマイルを、さらに深く、顔に刻み込むと、わざとらしく、腕を組み、うーん、と、悩んでみせる。
「なるほど、なるほど。いやあ、困ったことになった。これほどの、逸品に見合うだけの、価値ある品、か。生憎、今日の私の荷馬車には、それほどの宝物は、積んでいないかもしれないなあ」
彼は、ゆっくりと、自分の荷馬車へと戻ると、その荷台の幌を、芝居がかった仕草で、めくり上げた。
そして、彼が、最初に取り出したのは、一つの、汚れた、麻袋だった。
ドン、と、重い音を立てて、それを、取引所の床に、置く。
「まずは、これだ。……『塩』だよ、お嬢さん」
彼は、さも、貴重な宝石でも見せるかのように、その袋の口を開け、中の、白く、粗末な、岩塩の塊を、見せびらかした。
「あんたたちのような、森の民にとって、塩が、どれほど、貴重なものか。俺は、よく知っている。これを手に入れるために、どれほどの、危険を冒し、どれほどの、汗を流さねばならないか、もな。この一袋で、あんたたちの集落の、何十人もの民が、一冬、越せるだけの量だ。……これぞ、まさに、命の価値、だとは思わんかね?」
彼の言葉は、巧みだった。
彼は、塩の、絶対的な価値ではなく、それを手に入れるための、「苦労」という、感情的な価値に、焦点をすり替えたのだ。
次に、彼が、取り出したのは、一巻きの、くすんだ、灰色の、布地だった。
「そして、これだ。丈夫な、羊毛の、布地。森の、湿気や、寒さから、あんたたちの、柔らかな肌を、守ってくれる。その、着ている、粗末な麻の服とは、比べ物にならん、暖かさだ。これもまた、あんたたちの、冬の暮らしを、豊かにする、価値ある品、だろう?」
最後に、彼が、取り出したのは、一つの、小さな、革袋だった。
じゃらり、と、乾いた、金属音がする。
彼は、その中身を、手のひらの上に、ぶちまけた。
それは、十枚ほどの、くすんだ、銅貨だった。
「そして、極めつけが、これだ。……『リン』。大陸中で、使うことができる、魔法の、金属片さ」
彼は、銅貨の一枚を、指で弾き、リリナの目の前で、キャッチしてみせた。
「これ一枚あれば、街に行けば、焼きたての、パンが、一つ、買える。これさえあれば、あんたたちは、もう、飢えることはない。どうだね?
この、三つの、宝物。塩と、布と、そして、未来の、食を約束する、この魔法の金属片。……これら全てと、そこの、鍬と、ポーションを、交換する、というのは」
彼の、提案。
それは、詐欺、という言葉でさえ、生ぬるいほどの、一方的な、搾取だった。
彼が提示した、塩、布、そして銅貨十枚。その、全てを合わせても、ギルドでの、仕入れ値は、銀貨一枚にも、満たない。
対する、ドワーフ製の、鋼鉄の鍬と、高純度のポーション。その、本当の価値は、おそらく、金貨数十枚でも、安すぎるだろう。
千倍、いや、一万倍以上の、利益。
バートは、込み上げてくる、笑いを、必死に、こらえていた。
リリナは、黙っていた。
彼女の、金色の瞳が、困惑に、揺れている。
塩も、布も、そして、お金も、確かに、今の自分たちの村には、ないものだ。そして、それらが、価値あるものであることも、理解できる。
だが、目の前の、この、胡散臭い男が提示する、その、あまりにも、自信に満ちた、態度と、自分たちが、魂を込めて作り上げた、製品の価値。その、天秤が、どうしても、釣り合っているとは、思えなかった。
彼女は、この村に来て、学んだのだ。本物の「価値」というものが、何であるかを。
ドゥーリンの、鋼にかける、情熱。
エリアーデの、精霊への、祈り。
ルナリアの、命を救うための、献身。
それらが、こんな、薄汚れた、銅貨十枚と、同じ、はずがない。
だが、彼女には、反論の、言葉が、見つからなかった。
なぜなら、彼女には、「知識」がなかったからだ。
男の言う、「市場の相場」という、絶対的な、物差しを。
「……どうしたね、お嬢さん?」
バートは、畳み掛ける。
「これ以上の、提案は、ない。これこそが、誠意だ。さあ、契約成立、と、いこうじゃ……」
「――待った」
その、静かな、しかし、全てを、凍りつかせるような、声が、交易所の中に、響き渡った、瞬間。
バート・ランガーは、自らの、心臓が、氷の手に、鷲掴みにされたかのような、錯覚に、襲われた。
声のした、方向。
それは、これまで、誰も、気づかなかった、建物の、奥の、薄暗い、影の中からだった。
そこから、ゆっくりと、一人の、少年が、姿を現した。
年の頃は、十歳ほど。光を浴びて、きらめく、銀色の髪に、どこまでも、深く、そして、冷たい、青色の瞳。
その、あまりにも、整った、人形のような、顔立ち。
だが、その、小さな身体から、放たれる、プレッシャーは、異常だった。
それは、まるで、百戦錬磨の、王か、あるいは、千年の時を生きる、竜が、人の姿を、しているかのようだった。
少年は、バートの、驚愕の表情には、一瞥もくれることなく、ただ、リリナの、傍らに立つと、その、小さな手で、彼女の頭を、優しく、撫でた。
「……よく、やったな、リリナ。……あとは、僕に、任せろ」
「……は、はい。……大将様」
リリナは、その、温かい、手の感触に、張り詰めていた、緊張の糸が、ぷつりと切れ、安堵の息を、漏らした。
少年は、ゆっくりと、バートへと、向き直った。
そして、その、青い瞳で、床に、無造作に置かれた、塩と、布と、そして、十枚の、銅貨を、一瞥した。
その視線は、まるで、道端に落ちている、石ころでも、見るかのような、何の、感情も、宿さない、視線だった。
「……面白い、ジョークだ」
少年は、静かに、言った。
「久しぶりに、腹を抱えて、笑うところだった」
「……な、なんだ、貴様は、ガキ……」
バートが、狼狽しながら、問い返す。
だが、少年は、その問いには、答えなかった。
彼は、床の上の、銅貨の一枚を、その、小さな指先で、つまみ上げると、それを、バートの、目の前へと、突きつけた。
「……バート・ランガー殿。ザルツガルド商業ギルド、辺境交易部に所属する、三級商人。……あなたの、その、汚れた革袋の中には、今、この、リン銅貨が、三百二十七枚。クラウン銀貨が、十五枚。そして、いざという時のための、虎の子の、ゴールド金貨が、二枚、入っている。……違うか?」
その、あまりにも、正確な、そして、あり得ないはずの、指摘。
バートの、顔から、血の気が、引いた。
なぜ。
なぜ、このガキは、俺の、財布の中身を、知っている?
「そして、あなたが、今朝、立ち寄った、森の入り口の、小さな村。そこで、あなたは、病気の子供を持つ、母親から、なけなしの、銀の髪飾りを、この、銅貨、三枚で、買い叩いてきた。……その髪飾りは、あなたの、荷馬車の、隠し箱の中に、今も、入っているはずだ」
「ひっ……!?」
バートは、声にならない、悲鳴を上げた。
隠し箱の、ことまで。
それは、彼の、妻でさえ、知らない、彼だけの、秘密のはずだった。
少年は、無慈悲に、続ける。
「あなたの、その、粗末な、羊毛の布。その、仕入れ値は、銀貨二枚。
その、不純物だらけの、岩塩。その、仕入れ値は、銅貨五十枚。
そして、その、銅貨、十枚。
……合計、銀貨二枚と、銅貨六十枚。……クラウン銀貨、三枚にも、満たない、その、ガラクタで、あなたは、金貨百枚の価値は、下らない、我々の、至宝を、手に入れようと、した」
彼は、つまんでいた、銅貨を、まるで、ゴミでも捨てるかのように、バートの、足元へと、放り投げた。
カラン、と、空虚な音が、響く。
「……訂正しよう。……これは、ジョークではない。……我々の、フロンティア村に対する、明確な、『侮辱』だ」
少年の、青い瞳が、初めて、バートを、射抜いた。
その、瞳の奥に、宿っていたのは、絶対零度の、怒り。
バートは、その、視線に、射竦められ、全身の、血が、凍りつくのを感じた。
目の前にいるのは、子供ではない。
化け物だ。
人間の、皮を被った、全てを、見通す、恐るべき、何者かだ。
「……申し訳、ございませんでしたッ!!!!」
バート・ランガーは、その場に、土下座していた。
商人としての、プライドも、計算も、全て、吹き飛んでいた。
ただ、目の前の、絶対的な、捕食者に対する、本能的な、恐怖だけが、彼の、全身を、支配していた。
少年――ケイ・フジワラは、その、哀れな、商人の姿を、冷たく、見下ろしながら、静かに、告げた。
「……さて、と」
「それでは、始めようか。……本当の、『交渉』を」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに、我らが大将ケイが、交渉の場に、降臨しました。
亜人の村と侮り、詐欺まがいの取引を持ちかけた商人バート。彼の、全ての秘密を、いとも容易く暴き出し、絶対的な、力の差を、見せつけました。
ケイの《アナライズ》スキルは、戦闘だけでなく、このような、情報戦においても、まさに、チートな威力を、発揮しますね。
さて、完全に、主導権を握ったケイ。彼は、この、哀れな商人から、一体、何を、引き出すのでしょうか。
フロンティア村の、記念すべき、最初の、交易。その、驚くべき、結末とは。
「面白い!」「ケイ、かっこよすぎる!」「商人の、絶望っぷりに、笑った!」など、思っていただけましたら、ぜひブックマークと、↓の☆☆☆☆☆での評価をお願いいたします。皆様の応援が、フロン-ティア村の、最初の、利益となります!
次回もどうぞ、お楽しみに。




