第6節:ファーストコンタクト:信頼性のハンドシェイク
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前回、瀕死の兎耳の少女を救ったケイ。そして、ついに彼女が目を覚まします。
見知らぬ森で、見知らぬ少年に助けられた彼女の、最初の言葉とは。
二人の運命が交差する、第六話。どうぞ、お楽しみください。
意識が、深い泥沼の底からゆっくりと引き上げられていくような感覚。
最初に訪れたのは、痛みだった。全身を鈍く苛む、打撲と裂傷の痛み。だが、それは不思議と、死の淵を彷徨っていた時の、あの全身が痺れるような絶望的な痛みとは異なっていた。これは、生きている者の痛みだ。
次に、五感が戻ってくる。
森の匂い。鳥の声。そして、誰かの気配。
(……生きて、る?)
ゆっくりと瞼を持ち上げる。視界はぼやけて、光が滲んで見える。
何度か瞬きを繰り返すうちに、焦点が合っていく。
緑色の光に満たされた、見慣れた森の天井。
そして――すぐ傍らに、こちらを静かに見下ろす、一人の少年。
瞬間、少女の全身に、氷のような緊張が走った。
人間。
銀色の髪に、深い青色の瞳。肌は白く、その顔立ちはまるで精巧な人形のように整っている。だが、間違いない。その姿形は、自分たち亜人を虐げ、狩り、弄ぶ、あの忌まわしい種族――人間のものだ。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げ、少女は反射的に身を起こそうとした。だが、身体に力が入らない。左腕と右足に走る、引き攣るような痛みが、彼女の動きを阻んだ。
「動かない方がいい。傷は塞がったが、まだ安定はしていない」
少年の声は、その見た目と同じように、どこか人間離れしていた。感情の起伏が感じられない、平坦で、静かな声。まるで、湖の水面のように、凪いでいる。
だが、その声が、少女の警戒心をさらに増幅させた。
人間は、いつもそうだ。優しい言葉を使い、油断させ、そして裏切る。その手口を、彼女は嫌というほど見てきた。
「……誰」
かろうじて、掠れた声を絞り出す。喉が張り付くように乾いていた。
真紅の瞳が、射殺さんばかりの敵意を込めて、少年を睨みつける。頭の上で、長い兎耳がピンと張り詰め、警戒の形をとった。
「僕はケイ・フジワラ。君を見つけた時、君は魔物に襲われて、瀕死の状態だった」
少年――ケイは、少女の敵意にも全く動じることなく、淡々と事実だけを告げた。その態度は、まるで医者が患者に病状を説明するかのように、どこまでも客観的で、事務的だった。
「君の体内には強力な神経毒が回っていた。放置すれば、あと十五分で心肺停止に至る危険な状態だった。だから、応急処置を施した」
「……処置?」
少女は、訝しげに自分の身体を見下ろす。
そこで、彼女は信じられないものを目にした。
あれほど深く、肉まで抉れていたはずの腕と足の傷が、綺麗に塞がっているのだ。赤黒い傷跡は残っているが、出血は完全に止まり、激痛も鈍い痛みに変わっている。体中を駆け巡っていた、あの痺れるような毒の感覚も、嘘のように消え失せていた。
(……ありえない。あの傷と、あの毒……。私の知識でも、完治には数日はかかるはず。それを、こんな短時間で?)
混乱する少女の思考を読み取ったかのように、ケイは説明を続けた。
「まず、君の体内の毒を特定した。アルカロイド系の神経毒だ。次に、周囲の植物から解毒作用のある成分を持つものを探し出し、僕のスキルで、それらを最適な形で化合させた『神経毒中和剤』を生成。それを君に投与した」
スキル? 生成?
少女の知らない単語が、次々と飛び出してくる。
「毒の中和を確認後、次に出血多量によるショック死を防ぐ必要があった。同じく、周囲の薬草の成分情報を元に、細胞再生を促進する『下級治癒薬』を生成し、外傷に直接塗布した。結果、生命の危機は脱した。これが、現在までの経緯の全てだ」
ケイの説明には、一切の無駄がなかった。感情も、憶測も、欺瞞もない。ただ、発生した事象と、それに対して行われた対処(パッチ適用)が、時系列に沿って、淡々と報告される。
それは、少女がこれまで出会ってきた、どんな人間とも異なっていた。
人間は、もっと感情的で、暴力的で、そして嘘つきな生き物のはずだ。
だが、目の前の少年は、まるで機械のようだった。
その青い瞳は、自分を憐れむでもなく、見下すでもなく、ただの「分析対象」として、静かに観察しているように見えた。
少女は、混乱しながらも、必死に頭を働かせた。
彼女は、ただのか弱い兎の亜人ではない。一族の中でも、特に薬草や毒物の知識に長けた、天才的な薬師の卵だった。
自分の身体の状態は、自分が一番よく分かる。
確かに、毒は消えている。傷も、驚異的な速さで治癒している。
目の前の少年が言っていることは、結果として、事実と一致していた。
「……どうして、助けたの」
少女は、警戒を解かないまま、問いかけた。
人間が、亜人を助ける理由などない。あるとすれば、それは奴隷として売るためか、あるいは、もっと非道い目的のためだ。
その問いに対し、ケイは少しだけ、間を置いた。
彼の青い瞳が、初めて微かに揺らぐ。
「……合理的判断、だ」
「合理的……判断?」
「君を助けることには、リスクがあった。君を襲った存在が、まだ近くにいる可能性。君自身が、僕に対して敵意を向ける可能性。だが、それ以上にリターンが大きいと判断した」
「リターン……?」
「君はこの森の住人だ。君から、この世界に関する情報を得られる。あるいは、協力関係を築けるかもしれない。僕が一人で生き延びるよりも、二人で協力した方が、生存確率は飛躍的に向上する。故に、君を救助することは、僕自身の生存戦略において、最も合理的な選択だった。それだけだ」
ケイは、そう言い切った。
その言葉に、少女は呆気に取られた。
同情でも、善意でもない。ただ、生存確率を上げるための、コスト計算の結果。
あまりにも、人間味のない、しかし、嘘偽りのない言葉だった。
その、どこまでもドライで、論理的な態度が、不思議と少女の警戒心を少しずつ解きほぐしていった。
少なくとも、この少年は、感情で動く危険な人間ではない。彼の行動原理は、理解可能で、予測可能だ。
「……私の名前は、ルナリア。ルナリア・シルヴァームーン」
少女は、自らの名を告げた。それは、相手を対等な交渉相手として認めた、という意思表示だった。
「ルナリア。いい名前だ」
ケイは、小さく頷いた。
「君の身体は、まだ衰弱している。安全な場所へ移動する必要がある。僕が近くで見つけた洞窟まで、肩を貸す。異論は?」
「……ない」
ルナリアは、短く答えた。
ケイは、無言でルナリアの傍らに寄り、その小さな身体を支えて、ゆっくりと立ち上がらせる。
十歳の少年の身体は、同じく小柄なルナリアを支えるので、精一杯だった。
ふらつく足取りで、二人は歩き出す。
ルナリアは、ケイの肩に寄りかかりながら、彼の横顔を盗み見た。
銀色の髪。青い瞳。
その姿は、やはり人間によく似ている。
だが、彼から感じるものは、これまで彼女が人間から感じてきた、欲望や悪意とは、全く異質のものだった。
それは、まるで、森の奥で出会った、古く、そして賢い精霊のような、不可思議な静けさと、底知れない知性。
(……この子は、一体、何者なんだろう)
真紅の瞳に、戸惑いと、そしてほんの少しの好奇心が宿る。
こうして、見捨てられた土地で出会った、元・社畜SEの少年と、月光兎族の少女の、奇妙な共同生活が始まろうとしていた。
それは、後に大陸の歴史を大きく塗り替えることになる、壮大な物語の、ほんの小さな、最初のページだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついにヒロイン、ルナリアが登場しました。クールで知的な彼女と、超合理主義者のケイ。この二人が、これからどんな関係を築いていくのか、楽しみにしていただけると嬉しいです。
物語はまだ始まったばかり。これから二人が直面する困難、そして出会う仲間たちとの物語が、本格的に展開していきます。
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次回の更新は、本日18時半頃です。お楽しみに!