第4節:ハロー・ワールド
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さて、前回、主人公・慧は「穏やかな人生」を願い、神様から規格外のスキルを授けられました。
いよいよ、彼の異世界での生活が始まります。
まっさらな環境に放り込まれた元・社畜SEが、最初に行うこととは?
彼の新たな人生の第一歩を、ぜひご覧ください。
純白の光が収束し、最初に訪れたのは、情報の奔流だった。
まず、嗅覚。むせ返るような土の匂いと、濃密な植物の青臭さ。前世のオフィスに満ちていた、無機質な排熱と人工的な香料とは全く異なる、生命そのものの匂いだ。
次に、聴覚。名前も知らない鳥の鳴き声、風が木々の葉を揺らす音、遠くで聞こえる獣の咆哮。それは、ノイズキャンセリングヘッドホンを外した瞬間の、暴力的なまでの情報量だった。
そして、触覚。湿り気を帯びた腐葉土の柔らかな感触が、背中に伝わってくる。頬を撫でる風は、生暖かく、そして少し重い。
五感全てが、新しい世界のデータを、脳という名のCPUに叩きつけてくる。
藤堂慧の意識は、その膨大な初期ロードに耐えきれず、数秒間フリーズした。
やがて、ゆっくりと瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは、鬱蒼と茂る、巨大な木々の天蓋。葉の隙間から差し込む光は、緑色に染まり、幻想的な光景を作り出していた。
「……ここが、エルドラ」
呟いた声は、自分のものとは思えないほど高く、澄んでいた。
慌てて自分の身体を見下ろす。
そこにあったのは、日に焼けていない、華奢な手足。着ているのは、粗末な麻のシャツとズボン。三十二年間連れ添った、疲労と不摂生に満ちた中年男の身体はどこにもなく、代わりに、十歳程度の少年の、瑞々しい肉体が存在していた。
ケイ・フジワラ。
神が告げた、新しい自分の名前。まるで初期設定のデフォルト名のように、その名前はすんなりと意識に馴染んだ。
(……OSのクリーンインストールは、完了したらしい)
彼はゆっくりと身体を起こす。三十二年分の記憶と経験を持つ精神と、十歳児の未発達な肉体との間に、奇妙な乖離を感じる。だが、それ以上に、身体の軽さに驚いた。肩こりも、腰痛も、眼精疲労もない。全てのスペックが、新品同様だった。
(さて、と)
感傷に浸っている暇はない。システムエンジニアの思考が、即座に現状分析を開始する。
現在地は、大陸南部の辺境域『見捨てられた土地』。神の説明によれば、魔素が汚染・不安定化しており、人間には生存が難しいエリアだという。
最優先事項は、安全の確保と、生存に必要なリソース(水と食料)の確保。
(まずは、この身体と、与えられたスキルの仕様確認からだ)
彼は、意識を内側へと集中させる。
『ユニークスキル【ワールド・アーキテクト】』
その存在を認識すると、目の前に半透明のウィンドウが、ふわりと浮かび上がった。まるで、最新のARグラスを装着しているかのようだ。
ウィンドウには、いくつかのメニューアイコンが並んでいる。
【ワールド・アーキテクト】
┣ 《アナライズ》
┣ 《クリエイト・マテリアル》
┣ 《システム・インテグレーション》
┗ 《プロジェクト・マネジメント》
(……思ったより、シンプルなUIだな)
彼は、まず一番上の《アナライズ》に意識を向けた。
『権能:森羅万象の情報を解析し、構造や術式を可視化する』
説明文も、簡潔で分かりやすい。
(テストしてみよう)
彼は、すぐ足元に生えている、紫色の奇妙なキノコに視線を合わせた。そして、心の中でコマンドを唱える。
「《アナライズ》、実行」
瞬間、世界が一変した。
視界に、膨大な文字列と幾何学模様のオーバーレイが展開される。キノコそのものが、ワイヤーフレームのように構成要素へと分解され、その情報が、脳内に直接ストリーミングされてきた。
▼ 対象:名称不明(通称:ヨルナキダケ)
┣ 分類:菌類
┣ 構成要素:水分88%、タンパク質3%、炭水化物5%、魔素成分2%、その他2%
┣ 魔素特性:微弱な幻惑作用を持つ胞子を放出。夜間、魔素に反応して燐光を発する。
┣ 食用性:不可。含有するアルカロイド成分は、神経系に作用し、摂取後約一時間で呼吸困難を引き起こす。致死量:約50g。
┣ 薬効:胞子を乾燥・粉末化したものは、鎮痛剤として利用可能。ただし、副作用として悪夢を見る。
┗ 周辺環境情報:土壌pH5.8。窒素、リン酸、カリウムの含有量は平均以下。魔素濃度、不安定(低レベルの汚染を検出)。
「…………なんだ、これは」
思わず、声が漏れた。
これは、ゲームの「鑑定」スキルなどという、生易しいものではない。
対象の名称や効果だけでなく、その化学組成、薬理作用、生育環境の土壌成分に至るまで、まるで最新鋭の分析機器にかけたかのような、網羅的かつ詳細なデータが一瞬で表示されたのだ。
これが、世界の理を解析する、ということか。
慧――いや、ケイは、ゴクリと唾を飲んだ。
このスキルの持つポテンシャルは、自分の想像を遥かに超えている。
彼は、恐る恐る、今度は目の前にそびえる巨大な木に《アナライズ》を実行した。
▼ 対象:名称不明(通称:テツカシ)
┣ 分類:広葉樹
┣ 樹齢:推定450年
┣ 材質特性:極めて高硬度かつ高密度。乾燥後の比重は鉄に匹敵。耐火性、耐腐食性に優れる。加工は困難だが、最高級の建材、武具の素材となる。
┣ 魔素特性:周囲の魔素を吸収し、幹内部で安定化させる性質を持つ。この森の魔素汚染を抑制している一因。
┗ 生態系情報:樹皮には薬効成分を持つ苔が生着。樹洞には小型の飛竜種が営巣している可能性あり(確率75%)。
「……飛竜、だと?」
ケイは、思わず木の幹を見上げた。確かに、遥か上の方に、洞のようなものが見える。
このスキルは、単なる物質の分析に留まらない。生態系の情報まで、確率付きで予測するのか。
(とんでもないものを、渡されたな……)
神が言っていた「拡大解釈」の意味を、彼は今、ようやく理解し始めていた。これは、穏やかな人生を送るための能力などではない。使い方を間違えれば、世界のバランスすら破壊しかねない、まさに神の領域の力だ。
だが、今は感心している場合ではない。
この規格外のスキルは、同時に、この過酷な環境で生き抜くための、最強の武器でもある。
ケイは、思考を切り替えた。
まずは、水だ。
彼は、周囲の地面に次々と《アナライズ》をかけていく。土壌の水分含有量、傾斜、植生。それらのデータを、脳内で高速で処理し、三次元の地形マップを構築する。
数分後、彼は一つの結論に達した。
(……この方角、約500メートル先に、地下水脈が地表近くを通っている可能性が高い)
確信を持って、ケイは歩き出した。森は深く、不気味な静寂に包まれている。だが、彼に恐怖はなかった。《アナライズ》が、周囲の植物や動物の気配を、常に彼に知らせてくれるからだ。毒を持つ蛇、擬態している捕食性の植物、それらを彼は完璧に回避していく。まるで、リアルタイムで更新される、完璧なハザードマップを手にしているかのようだった。
やがて、予測通り、岩陰から清らかな水が湧き出している泉を見つけた。
彼は、すぐさま水に《アナライズ》を実行する。
▼ 対象:湧き水
┣ 成分:H2O 99.8%、ミネラル成分0.1%、その他微量成分0.1%
┣ 魔素特性:清浄。周辺のテツカシによる濾過作用が影響。
┗ 飲用性:可。極めて良質。
「……よし」
安全を確認し、彼は両手で水をすくって喉を潤した。冷たく、そして驚くほど美味しい水が、乾いた身体に染み渡っていく。
生きている。
彼は、その事実を、改めて実感した。
水を確保し、次なる目標は安全な寝床の確保と、食料の探索だ。
彼は、再び森の奥へと足を踏み入れた。
しばらく歩いた、その時だった。
ツン、と鼻をつく匂い。
それは、森の匂いとは明らかに異質な、鉄錆のような匂い。
血の匂いだ。
ケイは、咄嗟に近くの茂みに身を隠す。
神経を研ぎ澄ませ、匂いのする方へと視線を向ける。
茂みの向こうは、少し開けた場所になっているようだった。そこから、微かに、苦しげな呻き声が聞こえてくる。
(……獣か? いや、違う)
それは、知性ある生き物の声に聞こえた。
好奇心と、危険を知らせる警報が、頭の中でせめぎ合う。
だが、彼は、その声を見過ごすことができなかった。前世の彼なら、面倒事には関わらないのが最適解だと判断しただろう。しかし、新しい人生を歩み始めた今、何か違う行動を取るべきではないか。そんな思いが、彼の背中を押した。
彼は、息を殺し、ゆっくりと茂みから顔を出す。
そして、その光景に、息を呑んだ。
開けた場所には、争いの跡が生々しく残っていた。地面は抉れ、いくつかの木はへし折れている。
そして、その中心。巨大な樫の木の根元に、小さな影がうずくまっていた。
それは、一人の少女だった。
陽光を浴びてきらめく、長い銀髪。そして、その頭からぴょこんと伸びた、兎のそれによく似た、長い耳。
だが、その姿はあまりにも痛々しかった。着ている簡素な服は破れ、覗く肌には、生々しい裂傷が刻まれている。特に、左腕と右足の傷は深く、どす黒い血が流れ出ていた。
少女はぐったりと意識を失っており、その呼吸は、今にも消えてしまいそうなくらい、弱々しかった。
ケイの脳裏に、神の言葉が蘇る。
『転生先:辺境域『見捨てられた土地』』
そこは、人間には生存が難しく、しかし、亜人にとっては聖域となりうる場所。
目の前の少女は、明らかに人間ではなかった。
そして、ここは、そんな彼女たちですら、命を脅かされる過酷な世界。
ケイは、自分が転生した世界の現実を、そして、自らがこれから歩むであろう道のりの険しさを、静かに、しかしはっきりと悟った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに異世界での第一歩を踏み出したケイ。そして、運命的な出会い。
彼の持つ規格外のスキルは、この絶体絶命の状況で、少女を救うことができるのでしょうか。
物語が大きく動き出す次回、ぜひご期待ください。
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