第18節:仕様変更:依存モジュールの追加
いつもお読みいただき、ありがとうございます。皆様からの応援、一つ一つが私の血肉となり、物語を紡ぐ糧となっております。
前回、過労で倒れてしまったケイ。前世の悪夢にうなされる彼を救ったのは、ルナリアの献身的な看病でした。
目覚めたケイに、彼女が告げる言葉とは。そして、その言葉は、ケイの凍りついた心に、どのような変化をもたらすのでしょうか。
物語の核心に触れる、重要な回となります。
それでは、第十八話をお楽しみください。
涙。
それは、ケイにとって、最も理解不能な生理現象だった。
感情という、曖昧で、非論理的なパラメータのオーバーフローによって引き起こされる、意味のない体液の排出。前世の藤堂慧は、物心ついてから一度も、泣いたことなどなかった。泣いたところで、バグは修正されないし、サーバーは復旧しない。泣くという行為は、生産性のない、最も無駄なリソースの消費だと、彼は固く信じていた。
そのはずだった。
なのに今、自分の目から、熱い雫が次々とこぼれ落ちている。止めようとしても、止まらない。まるで、壊れた蛇口のように、感情の奔流が、彼の制御を離れて溢れ出していた。
混乱。羞恥。そして、それ以上に、なぜ自分が泣いているのか分からないという、根本的な自己矛盾。
彼の思考回路は、完全にフリーズしていた。
そんな彼を、ルナリアはただ静かに見つめていた。
彼女は、驚きも、嘲笑も、憐れみもしない。ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに、そこにいた。
やがて、ケイの涙が枯れ、しゃくりあげるような呼吸が少しずつ落ち着いてきた頃、彼女は、そっと口を開いた。その声は、薬草を煎じる時のように、穏やかで、そして、心の芯まで染み渡るような響きを持っていた。
「……貴方は、一人で全部、背負いすぎです」
その言葉は、静かだったが、ケイの心臓を、まるで槌で打たれたかのように、強く揺さぶった。
「……何を、言って……」
「そのままの意味です」
ルナリアは、ケイの反論を、穏やかに、しかし、きっぱりと遮った。
「貴方が倒れてからの二日間、村は大混乱でした。いえ、パニック、と言った方が正しいかもしれません」
彼女は、静かに語り始めた。ケイが失っていた、二日間の出来事を。
ケイが倒れた直後、獣人たちはどうしていいか分からず、ただ右往左往するだけだった。昨日まで、神のように的確な指示を与えてくれていたリーダーが、突然機能を停止したのだ。それは、彼らにとって、世界の終わりにも等しい出来事だった。
作業は完全にストップし、せっかく芽生え始めた希望の光は、再び絶望の闇に覆われようとしていた。
何人かの者は、「やはり、人間の子供に頼ったのが間違いだったのだ」と不信感を口にし、また何人かは、「我々を見捨てるつもりなのか」と不安を露わにした。
組織は、リーダーという中核を失い、空中分解寸前だったのだという。
「……それを、止めたのが、ガロウでした」
ルナリアは、少しだけ、意外そうな表情で続けた。
「彼は、動揺する皆を一喝し、こう言ったのです。『大将は、俺たちのために、文字通り、身を削って働いてくれた。今度は、俺たちが、大将のために働く番だ』と」
ガロウは、ケイが倒れる前に残していた設計図と、指示書をかき集めた。そして、ケイのやり方を必死に模倣しながら、不器用ながらも、自ら現場の指揮を執り始めたのだという。
他の獣人たちも、最初は戸惑いながらも、ガロウのその姿に、徐々に落ち着きを取り戻していった。
彼らは、ケイから与えられたタスクを、自分たちで解釈し、判断し、実行し始めた。
伐採チームは、指示された本数以上のテツカシを切り出し、防衛チームは、設計図にない、独自の罠を追加で設置した。女性たちは、ケイがいつ目覚めてもいいようにと、栄養のある食事の準備を、一日中続けていた。
「……皆、貴方を待っていました。貴方に命令されるのを、ではありません。貴方が元気になって、また、笑ってくれるのを、です」
ルナリアは、そこで一度言葉を切り、濡れた布を固く絞ると、ケイの涙の跡が残る頬を、優しく拭った。
「貴方は、この村を、一つの『システム』だと言いました。そして、貴方はその『管理者』だと。……でも、それは、間違いです」
彼女の真紅の瞳が、まっすぐにケイを見つめる。
「私たちは、貴方の命令で動く、ただの部品じゃありません。私たちは、仲間です。貴方が苦しい時は、支えたい。貴方が悲しい時は、寄り添いたい。そう思う、対等な、仲間なんです」
仲間。
その言葉が、ケイの心の奥深くに、重く、そして温かく響いた。
前世の藤堂慧にとって、「仲間」とは、同じプロジェクトにアサインされた、ただの「同僚」でしかなかった。
互いに助け合うこともある。だが、それは、プロジェクトを成功させるという、共通の利害があったからだ。
納期が迫れば、責任を押し付け合い、障害が発生すれば、犯人捜しが始まる。
結局、誰もが、自分自身の評価と、生活を守るために働いている。
そこに、ルナリアが言うような、純粋な、温かい感情など、存在しなかった。
少なくとも、慧は、そう信じて生きてきた。
だから、彼は、誰にも頼らなかった。
頼ることは、弱さの露呈であり、搾取される隙を相手に与える、最も愚かな行為だと信じていた。
全てを、自分で管理し、自分で制御し、自分で解決する。それが、彼が三十二年間で身につけた、唯一の生存戦略だった。
だが、ルナリアは、その彼の根本的な設計思想そのものが、間違っているのだと、静かに、しかし、明確に突きつけてきた。
「……分かって、いませんでした」
ケイは、か細い声で、呟いた。
それは、彼が、この世界に来てから、初めて口にする、完全な敗北宣言だった。
「僕は……また、同じことを、繰り返すところだった」
前世と同じように。
一人で、全てを抱え込み、誰にも頼らず、そして、壊れていく。
その、呪いのようなループから、自分は、一歩も抜け出せていなかったのだ。
「……怖かったんだ」
ケイは、ぽつり、ぽつりと、これまで誰にも言ったことのない、心の奥底の弱さを、吐露し始めた。
「誰かを頼ることが。信じることが。……裏切られるのが、怖かった。期待して、失望するのが、嫌だった。だから、最初から、誰にも期待しない。自分だけで、全てをやる。そうすれば、傷つかずに済むと、思っていた」
それは、三十二年間の孤独が生み出した、歪んだ自己防衛システムだった。
そのシステムは、彼を多くの痛みから守ってきた。だが、同時に、彼を、誰よりも深い孤独の檻に、閉じ込めていたのだ。
ルナリアは、黙って、彼の告白を聞いていた。
彼女は、彼の過去に何があったのか、詳しくは知らない。
だが、彼の声に含まれる、深い、深い痛みの響きは、彼女の心に、痛いほど伝わってきた。
「……もう、一人じゃありません」
彼女は、そっと、ケイの手を取った。
それは、驚くほど、小さく、そして、温かい手だった。
「貴方には、私がいます。ガロウがいます。そして、この村の皆がいます。私たちは、貴方を裏切ったりしません。貴方を、一人にはしません」
その言葉と、手の温もりが、ケイの心の、最後の城壁を、静かに溶かしていく。
ああ、そうか。
これが、「仲間を頼る」ということなのか。
それは、弱さの露呈ではない。
自分の不完全さを認め、他者の力を借りることで、より強固な、より resilient なシステムを構築するための、最も合理的で、そして、最も人間的な、選択。
「……ありがとう、ルナリア」
ケイは、そう言うと、彼女が差し出してくれた、冷めたスープの入った椀を、震える手で受け取った。
そして、一気に、それを飲み干した。
味は、もうほとんどしなかった。
だが、その温かい液体は、彼の、空っぽで、冷え切っていた身体と、そして心を、ゆっくりと、満たしていった。
その時、小屋の扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、傷だらけの顔に、不器用な心配の色を浮かべた、ガロウだった。
彼の大きな手には、不釣り合いなほど、巨大な、そして、湯気の立つ肉の塊が握られていた。
「……大将。目が、覚めたか」
ガロウは、ぶっきらぼうに、しかし、その声には、隠しきれない安堵の色が滲んでいた。
「……心配を、かけたな」
「……フン。当たり前だ。プロジェクトのリーダーが、勝手にダウンするな。こっちの身にもなってみろ」
憎まれ口を叩きながらも、その黄金色の瞳は、優しかった。
彼は、どさりと、ケイの寝床の横に腰を下ろすと、持っていた肉塊を、ずい、と差し出した。
「……食え。お前さんが倒れている間に、俺たちが仕留めた、森猪だ。一番、美味いところを持ってきてやった」
それは、彼らなりの、不器用で、しかし、最大級の、優しさの表現だった。
ケイは、その肉塊と、ガロウの顔と、そして、隣で優しく微笑むルナリアの顔を、順番に見つめた。
そして、彼は、心の底から、思った。
この世界に来て、よかった、と。
(……仕様変更だ)
彼の脳内で、プロジェクトの基本設計が、根底から書き換えられていく。
変更前:自己完結型スタンドアロンシステム
変更後:複数モジュールによる、分散協調型システム
もう、一人で戦う必要はない。
彼には、信頼できる、最初の仲間ができたのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ケイの心の氷が、仲間たちの温かさで、ついに溶けました。前世では得られなかった「仲間」という存在の重みを、彼は今、噛み締めています。
そして、不器用なりの優しさを見せるガロウも、いい味を出していますよね。
さて、心身ともに回復したケイは、ここからプロジェクトをどう進めていくのか。そして、彼らの絆は、どのように深まっていくのでしょうか。
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次回、ガロウが語る、狼獣人族の過去。そして、ケイが抱く、新たな決意。
本日お昼12時半頃の更新を、どうぞお楽しみに。