第170節: 止まった血流
いつもお読みいただきありがとうございます! 第八巻『経済戦争』編、ついにその火蓋が切られました。大陸の経済を支配するザルツガルド商業ギルド。彼らが放った最初の一手は『交易の全面禁止』という非情な経済制裁でした。 今回はその見えざる刃がアークシティの日常にどのような影を落とし始めるのか。その静かなる恐怖の始まりをお楽しみください。
アークシティは凱旋の熱狂から数日が過ぎ、再びいつもの活気に満ちた日常を取り戻しつつあった。 北の工業区ではドゥーリンの怒号が響き渡り、南の訓練場ではガロウの檄が飛ぶ。そして東の街道沿いに新設された交易所では、リリナ・テールウィップがその金色の猫の瞳を期待に輝かせながら次なる来訪者を待ちわびていた。
エリアーデたちの外交的勝利、そしてあの商人バートが持ち帰った奇跡の品々の噂は、既に大陸の裏社会を駆け巡っているはずだ。ギルドの監視を潜り抜けた命知らずのハイエナたちが、今頃この宝の山に殺到してきてもおかしくはない。ケイ様が言っていた本当の経済戦争がいよいよ始まる。リリナはそのスリリングな駆け引きを想像し、その二本の尻尾を楽しそうに揺らしていた。
だが。
一向に誰も来なかった。
あれほど賑わっていた北東街道は不気味なほど静まり返っている。あれほどしつこく宿屋にまで押しかけてきた中小の商人たちの姿もぱったりと途絶えた。まるで神隠しにでもあったかのように。
「おかしいですわ」
リリナはその愛らしい顔を訝しげに歪めた。彼女の斥候部隊が街道をいくら偵察しても、商人の荷馬車の轍さえ見つからない。まるでこのアークシティだけが世界から切り離されてしまったかのようだった。
その異変の報告がケイの元へと届けられたのは、エリアーデたちが帰還してから一週間が過ぎた頃だった。庁舎の執務室で、ケイはリリナからの報告書をその青い瞳で静かに見つめていた。彼の表情は変わらないが、その指先が机をトントンと規則的なリズムで叩き始めている。それは彼が最も集中し、そして最も危険なシミュレーションを行っている時の癖だった。
(早すぎる)
彼の脳内で警報が鳴り響く。
(僕の予測では、ギルドが何らかの具体的な干渉をしてくるまで、あと一ヶ月はかかるはずだった。だが、この完璧なまでの情報の遮断、そして物流の停止。これは末端の商人たちの判断ではない。ギルドの中枢、それもトップダウンの極めて強力な命令系統が作動した証拠だ)
彼は脳内の敵対勢力のリストをアップデートする。『ザルツガルド商業ギルド』。その脅威レベルを『C(警戒)』から『A+(最優先排除対象)』へと一気に引き上げた。
(なるほどな。僕が放った観測気球は、彼ら本丸の逆鱗に触れたというわけか)
彼はあの商人バートのその後の足取りをリリナの部下に追わせていた。ギルドからの追放。その情報が意味するものは一つ。ギルドはバートが持ち帰った情報を真実だと認識した。そして、その価値を理解した上で、敢えてそれを握り潰し、我々を社会的に抹殺する道を選んだのだ。
「リリナ」
「はい大将様」
「斥候部隊の任務を変更する。これよりギルドの動向探知から国内の『未発見資源』の探索へと切り替えろ。特に塩だ。岩塩、塩湖、塩水泉。どんな些細な兆候でもいい。すべて報告しろ」
「!」
「か畏まりました!」
リリナはその命令の恐るべき意味を瞬時に理解し、その顔から血の気を失わせながら駆け出していった。
ケイは静かに立ち上がった。そして彼は庁舎の窓から自らが創り上げた理想郷を見下ろした。そこには何も知らず平和な日常を謳歌する仲間たちの姿があった。
だがケイには見えていた。その平和な日常の水面下で、この都市の生命線である『物流』という名の血流が、今確かに止められたという残酷な現実が。そして、その血流が止まれば、この巨大な生命体もいずれゆっくりと、しかし確実に壊死していくという未来が。
(時間がない)
彼の青い瞳が冷徹な決意の光を宿す。『経済戦争』。その本当の戦いの火蓋は、今、彼が望んだ形とは全く違う最悪の形で切って落とされたのだ。
ついにギルドの経済制裁が始まりました。それはアークシティの生命線そのものを断ち切る非情な一撃。ケイは即座にその危機を察知しましたが、時すでに遅し。 次回、その制裁の影響がついに市民たちの生活を直撃します。アークシティに最初の混乱が訪れる。どうぞご期待ください。
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