第10節:シグナル:未知のAPIへの接続試行
おります。
前回、二人はこの世界の残酷な一面を目の当たりにしました。ケイの心に宿った、冷たくも強い決意。それは、彼の「穏やかな人生」という願いを、より大きな目標へと昇華させるきっかけとなります。
そして今回、地平線の先に、一つの希望が見える。しかし、その希望に手を伸ばすことは、大きなリスクを伴う選択でした。
それでは、第十話をお楽しみください。
奴隷狩りの痕跡を発見してから、森の空気は一層重くなったように感じられた。
ケイとルナリアは、言葉少なげに歩みを進めていた。ケイは常に《アナライズ》の索敵範囲を最大に広げ、ルナリアは彼女の鋭敏な聴覚と嗅覚で、周囲の気配を探る。二人の間の連携は、もはや阿吽の呼吸に近かった。だが、その連携は、信頼というよりも、共通の脅威に対する防衛本能によって成り立っている部分が大きかった。
ケイの思考は、あの凄惨な現場の光景を繰り返し反芻していた。
亜人を狩る人間。その構図は、この世界の根深いバグを示唆していた。そして、そのバグは、自分とルナリアにとっても、決して他人事ではない。自分は人間の姿をしているが、その魂は異邦人だ。ルナリアは、言うまでもなく亜人そのもの。二人とも、この世界の「多数派」から見れば、異物であり、排除、あるいは搾取の対象となりうる存在だ。
(……隠れていても、見つかれば終わり。ならば、こちらから能動的に動くしかない)
彼の脳裏には、新たなプロジェクトの骨子が、徐々に形作られつつあった。
それは、単なるサバイバル計画ではない。もっと大規模で、恒久的な安全を確保するための、システム構築計画。
だが、その計画を実行するには、あまりにもリソースが不足していた。二人だけでは、サーバー一台で巨大なウェブサービスを運営しようとするようなものだ。いずれ、アクセス過多でクラッシュするのが目に見えている。
そんな思考に沈みながら、小高い丘を登り切った、その時だった。
「……ん?」
ケイは、足を止めた。
遥か彼方、北東の空に、細く、しかし真っ直ぐに立ち上る、一筋の煙。
それは、山火事のような広がりも、焚き火のような頼りなさもない。生活の営みから生まれる、制御された煙だった。
「ルナリア、あれを」
ケイが指さす先を、ルナリアも見る。
彼女の真紅の瞳が、僅かに見開かれた。長い兎耳が、情報を拾おうとするかのように、煙の方向へと向く。
「……煙。火事じゃない。……集落?」
「その可能性が高い」
ケイは、即座にその場に膝をつき、対象に《アナライズ》の焦点を合わせた。距離が遠すぎるため、詳細な情報は得られない。だが、それでも、いくつかの重要なデータを拾い上げることはできた。
▼ 対象:遠方の煙
┣ 発生源までの推定距離:約15キロメートル
┣ 煙の成分分析(暫定):
┃ ┣ 主成分:水蒸気、二酸化炭素、炭素粒子
┃ ┗ 特徴的成分:広葉樹(テツカシに類似)の燃焼時に発生する微量な魔素を検出。動物性油脂の燃焼反応を微量に検出。
┣ 煙の上昇速度・拡散状況からの推定:
┃ ┣ 複数の火元が存在する可能性:85%
┃ ┗ 生活活動(調理、暖房、鍛冶など)に起因する煙である可能性:92%
┗ 結論:当該地点に、一定規模の知的生命体の集落が存在する可能性が極めて高い。
「……間違いない。集落だ」
ケイは、分析結果を確信を持って告げた。
動物の脂が燃える匂い。複数の火元。これは、間違いなく誰かが生活している証拠だ。
それは、この広大で孤独な森の中で、初めて見つけた、自分たち以外の知的生命体の痕跡だった。
希望の光。そう言ってもよかった。
「行ってみよう」
ケイは、短く言った。
それは、彼にとって、あまりにも当然の判断だった。仲間を探す。それが、今の最優先事項なのだから。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ルナリアの身体が、びくりと硬直した。
「……だめ」
拒絶。
その一言は、小さく、しかし、鋼のように硬い意志を含んでいた。
「どうしてだ。仲間が見つかるかもしれない。僕たちの生存確率を上げる、最大のチャンスだ」
ケイは、純粋な疑問として問い返した。彼の思考は、常に合理性を基準としている。この状況で、接触を試みないという選択肢は、彼の中には存在しなかった。
「……わからないから、だめ」
ルナリアは、俯いたまま、か細い声で答えた。その長い銀髪が、彼女の表情を隠している。
「あそこにいるのが、誰だか分からない。どんな種族かも。……もし、人間だったら? もし、私たちを敵だと見なす、別の亜人だったら?」
彼女の言葉は、震えていた。それは、恐怖に裏打ちされた、切実な言葉だった。
昨日見た、あの奴隷狩りの痕跡。それが、彼女の心に深い影を落としているのは、明らかだった。
「……人間じゃないかもしれない。僕たちと同じように、隠れて暮らしている亜人かもしれないだろう」
「だとしても、同じこと!」
ルナリアが、顔を上げた。その真紅の瞳は、潤んでいた。
「亜人だからって、仲間とは限らない! 狼の獣人は、兎族を餌としか見ていない者もいる! 蜥蜴人は、自分たち以外の全てを敵と見なす! この森で生きている者たちは、みんな、そうやって生き延びてきたの! 他人を信じる者は、一番先に死ぬ!」
それは、彼女がこの過酷な世界で学んだ、生存のための法則だった。
ケイの論理とは全く違う、経験と痛みに裏打ちされた、もう一つの真実。
ケイは、言葉に詰まった。
彼の思考は、常に最善手、最適解を求める。だが、その計算には、感情や、過去のトラウマといった、数値化できないパラメータが欠落していた。
ルナリアの恐怖は、非合理的ではない。彼女にとっては、それこそが最も合理的なリスク回避なのだ。
(……まずいな。ここで彼女の信頼を失えば、プロジェクトは開始前に頓挫する)
彼は、思考を切り替えた。これは、クライアントへのプレゼンテーションだ。相手の懸念を理解し、その上で、こちらの提案するソリューションの優位性を、論理的に説得しなければならない。
「……君の言う通りだ、ルナリア。君の懸念は、もっともだ。リスク査定としては、完全に正しい」
ケイは、まず彼女の意見を肯定した。反論から入るのは、交渉の最悪手だ。
「確かに、あの集落が敵対的である可能性は存在する。そのリスクは、ゼロではない。だが、僕たちは、そのリスクを管理することができる」
「……管理?」
「そうだ。第一に、僕たちは、いきなり集落に乗り込むわけじゃない。十分な距離を保ち、斥候を行う。僕の《アナライズ》と、君の優れた五感を使えば、相手に気づかれることなく、彼らの情報を収集できるはずだ。種族、規模、武装レベル、生活様式。それらのデータを集め、脅威レベルを正確に判定する」
ケイは、指を一本立てて、冷静に説明を始めた。
「第二に、撤退計画の策定。事前に、複数の安全な撤退ルートと、合流地点を設定しておく。万が一、敵対的な存在であった場合でも、安全に離脱できる確率を最大化する」
彼は、二本目の指を立てる。
「第三に、交渉の準備。もし、相手が交渉可能な相手だと判断できた場合、こちらが提供できる価値を明確にしておく。僕のスキルによるインフラ整備、君の薬師としての知識。これらは、どんな集落にとっても、喉から手が出るほど欲しいはずの技術だ。僕たちは、対等な、あるいは、それ以上の立場で交渉に臨むことができる」
そして、彼は最後の指を立てた。
「第四に、現状維持のリスク評価。これが最も重要だ。もし、僕たちがこのまま二人だけで行動し続けた場合、どうなるか。昨夜のナイトクローラー。昨日の奴隷狩り。この森は、僕たちが思っている以上に危険だ。いずれ、僕たちの手に負えない脅威に遭遇する確率は、極めて高い。現状維持は、安全な選択のように見えて、実は、緩やかに死へと向かう、最もリスクの高い選択なんだ」
ケイの言葉は、淀みなかった。
それは、感情論ではなく、徹底したリスクとリターンの分析に基づいた、一つのシステム提案書だった。
ルナリアは、ただ黙って、彼の言葉を聞いていた。
彼女の頭では、ケイの言葉を理解しようと、必死に思考が巡っていた。
彼の言っていることは、難しい単語が多いけれど、筋が通っている。恐怖という感情に蓋をして、冷静に考えれば、彼の言う通りなのかもしれない。
このまま二人でいても、いつか、今日よりもっと酷い目に遭うかもしれない。
でも――。
「……怖い」
ぽつり、と。
彼女の口から漏れたのは、理屈ではない、偽らざる本心だった。
「人間も、他の亜人も、もう誰も信じられない。信じて、裏切られるのは、もう嫌だ」
その言葉に、ケイは胸を突かれた。
彼女が、どれほどの絶望を経験してきたのか。その一端に触れた気がした。
論理だけでは、人の心は動かせない。前世で、彼はそのことを何度も学んだはずだった。
ケイは、静かにルナリアの前に膝をつき、その真紅の瞳を、まっすぐに見つめた。
「……僕を、信じてくれないか」
その声は、いつものように平坦ではなかった。不器用で、少しだけ、熱を帯びていた。
「僕は、君を裏切らない。君を危険な目には遭わせないと、約束する。僕の全てのスキルと、知識を使って、必ず君を守る」
それは、システムエンジニアとしての彼が、決して口にしなかった種類の言葉だった。
保証のない、未来に対する、個人的な約束。
「だから、一緒に行ってほしい。僕一人では、このプロジェクトは成功できない。君の知識と、経験が、どうしても必要なんだ」
ルナリアの瞳が、大きく見開かれる。
彼女は、ケイの青い瞳の奥に、揺るぎない決意と、そして、自分に向けられた、嘘偽りのない信頼の色を見た。
彼は、自分を、ただの保護対象として見ているのではない。
対等な、不可欠なパートナーとして、必要としてくれている。
その事実が、氷のように固まっていた彼女の心を、少しずつ溶かしていく。
長い、長い沈黙。
森を渡る風の音だけが、二人の間に流れた。
やがて、ルナリアは、小さな、しかし、確かな声で言った。
「……分かった。行く」
彼女は、まだ恐怖を完全に拭い去れたわけではなかった。
だが、彼女は決めたのだ。
未知の集落を信じるのではない。
目の前にいる、この不思議な少年の、「合理的判断」と、そして、その不器用な「約束」を、信じてみることに。
「ありがとう、ルナリア」
ケイは、心からそう言って、小さく微笑んだ。
それは、彼がこの世界に来てから、初めて見せた、心からの笑顔だったかもしれない。
こうして、二人の意見は一致した。
彼らは、再び立ち上がると、遥か彼方に見える、希望とも、あるいは絶望とも知れぬ、一筋の狼煙へと向かって、静かに歩き出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ケイのプレゼン、いかがでしたでしょうか。SE経験のある方なら、共感できる部分もあったかもしれません(笑)。
そして、ルナリアの大きな決断。二人の絆が、また一つ深まった回となりました。
物語は、いよいよ新たな出会いのフェーズへと進みます。煙の先で、彼らを待つものとは一体……。
「面白い!」「二人の旅を応援したい!」と思っていただけましたら、
ぜひブックマークと、↓の☆☆☆☆☆での評価をお願いいたします。皆様の応援が、彼らの道を照らす光となります。
次回、ついに狼煙の主と接触。しかし、それは歓迎とは程遠い出会いだった――。
本日22時半ごろの更新を、どうぞお楽しみに。