第1節:バグ:予期せぬ強制終了
はじめまして、作家のウィンダーると申します。
本日より、新連載『元・社畜SEの異世界再起動〜神様のうっかりで与えられた【国家運営シミュレーション】スキルで、追放された亜人たちとゼロから始める理想国家〜』を開始させていただきます。
これは、理不尽なデスマーチの果てに命を落とした一人のシステムエンジニアが、剣と魔法の世界で「理想の国」という壮大なプロジェクトに挑む物語です。
彼の武器は、与えられたチートスキルと、前世で培った論理的思考。
果たして彼は、誰にも搾取されない安住の地を築くことができるのか。
全480話構成の長大な物語となりますが、彼の世界の再起動を、最後まで見届けていただけますと幸いです。
意識は、メモリリークを起こした旧式のサーバーのように、鈍重だった。
藤堂慧、三十二歳。職業、システムエンジニア。より正確に表現するならば、IT業界の最底辺に位置する、いわゆる「社畜」という名のコンポーネントである。
視界の端で、デジタル時計の赤い数字が午前四時三十二分を示している。もはや昨日なのか今日なのか、その境界線すら曖昧だ。蛍光灯の白い光が、油の浮いた顔に無慈悲に突き刺さる。空気は澱み、サーバーの排熱と、何本目か分からないエナジードリンクの甘ったるい匂い、そして微かな同僚たちの体臭が混じり合って、慧の思考能力をさらに低下させていた。
「藤堂さん、ここの仕様、やっぱりクライアントが『違う』って。今日の朝九時までに修正版、いけます?」
背後からかけられた声は、悪魔の囁きにも似ていた。プロジェクトマネージャーの、疲労と諦観が滲んだ声。彼は悪人ではない。彼もまた、この「デスマーチ」という名のプロジェクトに組み込まれた、一つの歯車に過ぎない。誰もが悪くない。悪いのは、非現実的な納期と、曖昧な要求仕様と、それを丸呑みした経営陣だ。つまり、このプロジェクトそのものが、設計段階から破綻している不良債権だった。
「……対応します」
慧の口から漏れたのは、意味をなさない記号の羅列にも似た、乾いた音声データだった。思考ではない。脊髄反射だ。この環境下で生存するために最適化された、自動応答モジュールが機能したに過ぎない。
カタカタ、と乾いた打鍵音がオフィスに響く。慧の指が、長年の酷使で悲鳴を上げるキーボードの上を滑る。モニターに表示されるのは、他人が書いた、継ぎ接ぎだらけのスパゲッティコード。コメントアウトされたまま放置された過去の残骸。意味不明な変数名。まるで古代遺跡の碑文を解読するような作業だ。
(……CPU使用率、98%。メモリ、スワップ発生。冷却ファン、最大回転数。危険水域だな)
自らの状態を、彼は常にサーバーリソースに喩えて分析する癖があった。そうでもしないと、正気を保てなかった。
心臓が、過負荷状態のCPUのように不規則なビートを刻む。指先が痺れ、視界が時折ホワイトアウトする。明確なアラートだ。システムが、物理的な限界を訴えている。
だが、思考を止めるわけにはいかない。ここで思考を止めれば、プロジェクトが死ぬ。プロジェクトが死ねば、会社が傾く。会社が傾けば、自分たちの生活が破綻する。それは、このシステムの前提条件であり、絶対のルールだった。だから、思考を止めない。アラートは全て無視。リソースが尽きるその瞬間まで、プロセスを動かし続ける。それが、社畜SE、藤堂慧に与えられたタスクだった。
「……よし、ここのロジックを修正して、再コンパイルすれば……」
指が動く。思考が、コードに変換されていく。あと少し。この関数の修正が終われば、このモジュールの単体テストが……。
その時だった。
ぷつり、と。
まるで、メイン電源を強制的に引き抜かれたかのように、慧の意識は暗転した。
視界が消え、音が消え、思考が消える。
最後に彼が認識したのは、床のPタイルの冷たい感触と、自らの身体が発する、聞き覚えのない異音だった。
(……ああ、なんだ)
落ちていく意識の暗闇の中で、慧は妙に冷静だった。
(……NullPointerExceptionか。参照先が、見つからない)
人生という名のアプリケーションが、致命的なエラーを吐き出して、強制終了する。
デバッグする時間も、エラーログを吐き出す余裕もない。あまりにも、あっけない幕切れ。
(……せめて、穏やかに……眠りたかった、な)
それが、システムエンジニア・藤堂慧の、最後の思考だった。
◆
どれくらいの時間が経過したのだろうか。
一秒か、一日か、あるいは数億年か。時間の概念が存在しない空間では、その問い自体が無意味だった。
慧の意識が、ゆっくりと浮上する。
最初に感じたのは、「無」だった。
音がない。光がない。匂いがない。感触がない。
五感から入力される情報が、一切存在しない。まるで、全てのデバイスドライバが読み込まれていない、クリーンインストール直後のOSのようだった。
やがて、視界が機能を取り戻す。
だが、そこに映し出されたのは、理解不能な光景だった。
どこまでも、どこまでも続く、純白の空間。
天井も、壁も、床もない。地平線も、水平線も存在しない。ただ、白。全ての色彩を吸収し、全ての存在を拒絶するかのような、絶対的な白が、無限に広がっていた。
「……なんだ、ここは」
声を出したつもりだった。だが、音は生まれなかった。喉の震えも、空気の振動も感じない。自分の身体が、ここにあるのかどうかすら、定かではない。
混乱する思考。状況を理解しようと、慧は必死に頭を働かせる。
倒れたはずだ。オフィスの床に。過労で。
ならば、ここは病院か? 集中治療室か? だが、それにしては、あまりにも非現実的すぎる。
夢か? 臨死体験というやつか?
システムエンジニアとしての慧の思考が、可能性を一つずつ検証し、そして棄却していく。どの仮説も、この異常な状況を説明するには、論理的整合性が欠けていた。
(……分からない。情報が、足りなすぎる)
まるで、仕様書も設計書もない、未知のシステムを前にした時のようだ。手探りで、その挙動を確かめていくしかない。
慧は、まず「移動」を試みた。歩こう、と意識した。
すると、景色が変わった。いや、景色は変わらない。無限の白が続くだけだ。だが、確かに「移動した」という感覚だけがあった。物理的な法則が、ここでは通用しないらしい。
次に、「思考」に集中する。
自分は何者か。藤堂慧、三十二歳、独身、システムエンジニア。趣味は、休日に溜まった技術書を読むこと。特技は、デバッグ。好きなものは、静かな時間と、バグのないコード。
記憶は、正常だ。自己同一性は、保たれている。
では、ここはどこだ?
その問いに答えようとした瞬間だった。
『――起動シーケンス、完了。意識体の安定を確認しました』
直接、頭の中に響く声。
男の声でも、女の声でもない。合成音声のような、平坦で、感情のない声だった。
慧の意識が、声のした方へと向く。
無限の白の中に、一つの「染み」が生まれた。それは徐々に輪郭をなし、やがて、人の形をとる。
ただし、その姿は曖昧で、まるでノイズの集合体のようだった。
『初めまして、ですね。意識体番号83-B4-C7-A1。……いえ、藤堂慧、さんとお呼びすべきでしょうか』
その人ならざる存在は、静かにそう告げた。
慧は、ただ呆然と、そのあり得ない光景を見つめることしかできなかった。自らの人生が、仕様外の、そして理不尽極まりない形で、強制終了させられたことを、まだ彼は知らなかった。
第一話をお読みいただき、誠にありがとうございます。
主人公・慧の新たな人生は、ここから始まります。
面白い、続きが気になる、主人公に共感した、と思っていただけましたら、
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次回は、彼が目覚めた場所の主と対面します。
最初の12話までは今日中の投稿を予定しております(2話は7時半ごろ)ので、また第2話でお会いできますと幸いです。