第四章
翌朝、イオナはアルノルトの部屋の前で待っていた。白いレコードバッグの代わりに、今日は何も持っていなかった。ただ、目元だけが少し腫れていて、昨晩あまり眠れなかったことを示していた。
「入っていいですか」
扉はもう開いていた。
「どうぞ。コーヒーはすでに淹れてある」
彼女は黙ってソファに腰を下ろした。猫のセザールが彼女の膝に乗るのは、初めてのことだった。
「ねえ、昨日のこと……」
「うん」
「全部、偶然じゃない気がしてきた」
「偶然は、ただの文体の問題だよ」
「文体?」
「物語をどう語るかによって、出来事は“偶然”にも“運命”にもなる。僕たちは、たまたまそれを“受信”という言葉で語っているだけだ」
「それでも、あのファイルにあった“交替”って文字、怖いです」
アルノルトは頷いた。彼にとっても、それは未だに謎だった。
「でもね、あれが何かの“制度”なら、誰かが設計した“周期”がある。問題は、それが人間のものなのか、もっと別のものなのかってことだ」
「“制度”……あなた、あの通信社で何を“受信”してたんですか?」
「最初は、ただの記事だよ。火災、選挙、突発事故。だがあるときから、差出人不明のファックスが届くようになった。そこには、まだ起きていない事件の予告が書かれていた」
「予言……?」
「違う。“予告”だ。正確には、未来の新聞記事の草稿だった」
イオナは息を呑んだ。
「まるで、出来事のほうが“報道”に従って現れるような……?」
「そう。逆転していた。僕は最初、それを偶然の一致だと思っていた。でも、日に日に内容が具体的になっていった」
「あなたは……その記事を実際に掲載したんですか?」
「一度だけ。“ある爆弾事件の予告”を、編集部の誰にも見せずに差し替えた。それが、1978年3月8日だ」
「そして、その記事のせいで──」
「起きるはずのなかった事件が、現実になった」
沈黙が部屋を包んだ。
「記事は、何かを作り出していた」
イオナがつぶやく。
「そうだ。情報が世界を変えてしまうんじゃない。“情報が、世界を定義する”んだ」
そのとき、部屋のドアがノックされた。
イオナが立ち上がると、そこには誰もいなかった。ただ一枚の白封筒が、玄関の足元に置かれていた。
アルノルトがそれを拾い、封を開けた。
中には、タイプされた紙が一枚。
《交替は進行中。現在の受信者ID:IO-778》
「IO……イオナ……?」
彼女が紙を覗き込む。
「IDって、どういうことですか? 私は人間で、番号じゃない」
「かつての“受信”は、名で呼ばれていた。でも、それが制度化されると、番号に変わる。つまり……これはシステムだ」
「誰が? 誰がその“システム”を運用してるの?」
「わからない。だが、通信社はそれを中継していた。ただの通路だったのかもしれない」
「じゃあ、その“中継”を止めれば……」
「止められると考えるのも、“受信”の一部かもしれない」
イオナはうつむいた。
「じゃあ、私にはもう選択肢がないの?」
アルノルトは黙って、コーヒーを差し出した。
その夜、イオナは帰らなかった。
二人はかつての新聞記事を並べて、共通する言葉を探した。だがどれも、ある地点を越えると、意味が急速に薄れていく。
「これはまるで、言葉の自殺だな」
アルノルトが言った。
「意味が、自分の重みで潰れていく感じがする」
「情報化の果てって、こうなるんですかね」
「すべての文が引用に見え始めたら、それは終わりの兆しだ」
午前3時。レコードが最後の音を鳴らし終えたとき、また封筒が届いた。
中には、一行の文。
《受信は、存在の証明ではない。記録の終端である》
アルノルトはそれを声に出して読んだ。
「終端……か」
イオナが顔を上げた。
「私……どうしても、まだ終わりたくない」
「終わりじゃないさ。始まりの“裏面”を見てるだけだ」
二人は封筒の裏を見た。
そこには、次のように書かれていた。
《送信者を探せ》