三章
クロノス通信社──その名前はすでに街の地図からも記憶からも消えかけていた。
アルノルトとイオナは古いトラムに揺られながら、言葉を交わさずにいた。窓の外を流れる街並みは、かつての編集部の喧騒を思い出させるにはあまりにも静かで、乾いていた。
「ねえ、あそこ。時計塔、あれって……」
イオナが指差した。
錆びついた塔の下に、かすかに残る金属製のエンブレム。“Κρόνος”──ギリシャ文字で「クロノス」と読めた。
「ああ、間違いない。あれがかつての通信社だ」
二人はトラムを降り、小道を歩いた。廃ビルとなったその建物は今や修道院の倉庫のような佇まいをしていた。
入り口のドアは施錠されておらず、押すと軋む音を立てて開いた。
埃の匂い、古紙とインクの名残。
アルノルトはゆっくりと中へ足を踏み入れた。
「ここに来たのは……何十年ぶりだ?」
「この中に、“最後の版”があると思いますか?」
「わからない。ただ、ここが記憶の保管庫であることは確かだ」
二人は廊下を進み、かつて編集室だった場所にたどり着いた。
そこは無数のキャビネットと廃棄されたプリンター、そしてめくれ上がった掲示板に囲まれた沈黙の空間だった。
「見て、これ……」
イオナが指さした棚に、束ねられた新聞の残骸があった。
彼女は手袋をはめ、ゆっくりと束を開いた。
その最上部に、1978年3月8日付の紙面が現れた。
「これだ」
彼女はページをめくりながら言った。
「この日付、あなたが最後に署名したとされる日」
「記事は……どうなっている?」
彼女は目を細め、古びたインクの行を追った。
「“郵便封筒による通信妨害”、あなたの名前がある。でも……おかしい」
「何が?」
「この紙面、ところどころ文章が欠けてる。印刷がかすれてるんじゃなく、最初から空白になってる」
アルノルトはそれを手に取り、指でなぞった。
「見てくれ、ここ……まるで、言葉の痕跡だけを焼き付けたような……」
ページの隅に、鉛筆で走り書きされた文字があった。
《保管室A、時計を逆回し》
「これは?」
「隠し部屋の指示だ。昔、機密資料を保管するための隠し書庫があった」
二人は階段を降り、地下へと向かった。そこで見つけたのは、壊れた時計と、その奥に半ば崩れた鉄扉だった。
アルノルトは懐中時計を取り出し、それを逆回しに巻いた。
すると、扉がわずかに軋んで開いた。
「あなた、本当に記者だったんですね……」
「いや、今はただの“受信者”だよ」
扉の奥には、小さな部屋。金属製の引き出しに、無数の封筒。
その中央に置かれた一冊のファイルがあった。
《最終版:仮記録》と表紙に書かれていた。
イオナが開くと、中は全ページ白紙だった。
「何も……」
だが、光を当てると、微細な凹みが見えた。
アルノルトは目を細め、言った。
「インビジブル・インク……か。赤外線でしか読めない」
「ここに、あなたの“最後の記事”があるんですか?」
「いや……“最後に書けなかった記事”だろう」
その瞬間、ファイルの奥から一枚の紙がひらりと滑り落ちた。
それはイオナの顔写真だった。
裏にはこう書かれていた。
《受信者、交替まであと3日》
イオナは震える手でそれを持ち上げた。
「これ、どういう意味……?」
アルノルトは黙ったまま、奥の壁を見つめた。
そこには、無数の写真が貼られていた。
すべて、白紙の封筒を手にした人々の姿。
老若男女。表情は皆、受信の瞬間を捉えていた。
その中心に、かつての自分──アルノルトの若き日の姿があった。
写真の下に、こう書かれていた。
《最初の受信者》
イオナがつぶやく。
「あなたは……はじまりだったんですね」
「そして、君が……終わりだ」
静寂のなか、古びた時計が一度だけ鳴った。
その音は、封筒が焼ける音によく似ていた。