二章
翌朝、アルノルトは封筒を燃やさなかった。
灰になることで意味を与えられていたそれが、昨日の鉛筆の走り書きによって、初めて“メッセージ”になったからだ。
彼はテーブルに残された白封筒を見つめながら、何かが確かに変わったことを感じていた。
「セザール、おまえは何を見てる?」
老猫は窓際で陽の光を舐めるように目を細めていた。相槌を打つでもなく、ただその存在感だけが部屋を安定させていた。
アルノルトはレコードプレイヤーの針を戻し、A面を一から流した。回転のうねりとともに、マイルス・デイヴィスがまた息を吹き返す。
だが音楽は彼を包み込まなかった。心は別の音に向かって開かれていた。
そのとき、ドアがノックされた。滅多に聞かない音だった。
「また私ですけど、開けていいですか?」
イオナの声だ。
彼女は手にタブレットを持ち、朝からすでにジャーナリズムの匂いを身に纏っていた。
「昨日の新聞記事、家に持ち帰って調べました」
「何か出てきたか?」
「あなたの名前で検索しても、正式な履歴が出てこない。でも、PDF化された過去のアーカイブには“スピッツ”の名前が何度も出てきた」
彼女はタブレットを見せた。そこには、ある日付に集中して現れる署名が表示されていた。
「全部、同じ日なんです。1978年3月8日」
「同日……?」
「はい。爆破予告の記事、事故報道、気象欄にすら出てるんです。“スピッツ記者”。でもそれ以降はまったく出てこない。まるでその日を境に記録が消えたように」
「あるいは、その日しか“僕”が存在していなかった」
イオナは一瞬だけ表情を曇らせた。
「それ、どういう意味です?」
彼は封筒を取り上げて、ゆっくりと宙にかざした。
「存在っていうのは、記録と照合できるから成り立つ。記録がなければ、誰かは存在しなかったことになる。新聞記者にとって、それは死と同義だ」
「でも、今こうして……あなたは生きてる」
「今?」
「はい?」
「“今”という証拠はどこにある? 僕が君の目に映っているとして、それは君が何かを期待しているからじゃないのか」
イオナは黙った。
彼は微笑んで、ソファに腰を下ろした。
「コーヒー、飲むか?」
「もらいます」
彼女がカップを受け取ると、外で郵便受けが開く音がした。
二人は同時に振り向いた。
アルノルトが立ち上がる前に、セザールが玄関へと歩いて行った。まるでそこに何かを“受け取る”義務があるかのように。
封筒は、また白かった。
だが中には、写真が入っていた。
モノクロのスナップ。彼と見知らぬ子どもが並んで立っていた。背景には、旧い新聞社のロゴ──「クロノス通信社」──が映っていた。
「この子……誰ですか?」
イオナが写真を覗き込んだ。
「見覚えはない。ただ……目元がどこか、君に似てる」
「それ、褒めてます?」
「冗談を言ってる気分じゃない」
彼は写真をもう一度光に透かして見た。裏には細い鉛筆の文字があった。
《最後の版を回収せよ》
「最後の版……?」
アルノルトはうなった。
「それ、新聞用語ですよね?」
「“最終版”。記事の差し替えや訂正を済ませた、最も新しく、そして公的な記録。だが、今じゃそれも電子化され、バージョンも履歴も残らない。編集は記録されるが、意図は消える」
「でも誰かがあなたに、“最後の版”を回収しろって言ってる」
アルノルトは頷いた。
「じゃあ、行ってみようか」
「どこに?」
「クロノス通信社。いや、今は名前が変わってるかもしれない」
イオナは驚いた顔で彼を見る。
「出かけるんですか? 本当に?」
「君が望んだんだろ。ロマンを受信したいって」
「そう言ったっけ?」
「言わなくても、顔がそう言ってた」
老記者と若き異邦者は、写真と封筒を手に、薄曇りの街へと出た。
この日、ラジオもネットも沈黙していた。
しかし彼らの足音だけが、確かに記録を刻んでいた。