一章
アルノルト・スピッツは、今朝も封筒を燃やした。
白く、罫線すらないそれは、何も書かれておらず、宛先もなかったが、ちゃんと郵便受けに届いていた。三日続けて。
だから彼は火を点けた。
何も書かれていない紙が、一番よく燃える。これは新聞時代に覚えたことだった。
台所の隅には、古いコーヒーミル。彼はそれを手で回した。リズムが崩れるたびに、過去にどこかで聞いた声が脳裏をよぎる。「そんなアナログな音は、もはや音楽じゃない」と、誰かが言っていた。
その声を無視して、彼は豆を挽いた。香りが部屋に滲む。豆は少し焦がすくらいがいい。香りが鼻の奥に残ると、そのあとにくる沈黙も豊かになる。
新聞を取るのはやめた。もう半年になる。最初は、ただ配達員が来なくなっただけだった。代わりに、封筒が届くようになった。書いてあることは何もないが、それでも、宛名のないそれらは、まるで世界が彼に何かを“送ろうとして”失敗した、そんな感じがした。
手紙ではなく、手紙の“空白”を送ってくる。そんな不器用な世界が、アルノルトには少し愛おしかった。
「あなた、まだそれ、続けてるんですか?」
声の主はイオナ・グレコ。アパルトマンの三階に住む若い女。ピンクの靴紐といつも同じレコードバッグを提げている。朝からサングラスをかけているのは、陽射しが眩しいからではなく、何かを拒絶しているようだった。
「何を?」
「コーヒーをミルで。あと、手紙を燃やすのも」
「君は何かを捨てるとき、どうする?」
「スマホで消すだけですよ。ゴミ箱に入れて、長押しして、はい、削除。カチッて音もしますし」
「手で燃やすと、ちゃんと消えた気がする」
「じゃあ、あれですね。あなた、まだ“受信”してるつもりなんだ」
「受信?」
「世界から、何かが届くって。そう思ってるんじゃないですか?」
アルノルトは黙って笑った。
彼の中で、“受信”という言葉は、ラジオの雑音よりもずっと微細な響きを持っていた。
昔、編集部で使っていたFAXのことを思い出す。真夜中に突如として紙を吐き出すあの機械。誰も送っていないのに、どこからか届いた紙。白紙のまま終わるものもあった。
あれは“エラー”と呼ばれていたが、アルノルトにとっては“何か”だった。
「今朝は何通?」と、イオナ。
「三通目だ」
「全部白紙?」
「うん。ただ、封の折り方が違っていた。少しだけ、微かに」
「誰かが意図してるのかも。あなたの手の癖を読んで、折り方を変えて」
「それは少し、ロマンチックだな」
「ロマンって、たいてい、エラーから始まるんじゃないですか?」
彼女はそう言って、レコードバッグの中から一枚の古い紙片を取り出した。それは切り抜かれた新聞の一部だった。
「これ、あなたが書いた記事じゃないですか? たまたま図書館で見つけたんです」
そこには、旧い事件記事が載っていた。「匿名の郵便爆破予告、通信社宛に届く」。
「覚えてないな」
「でも、あなたの署名がある」
「僕の名前なんて、ありふれてる」
「でも、“受信不能のエンヴェロープ”って、これ、見出しそのままですよ」
彼は無言で記事を受け取り、しばらく見つめた。新聞紙のインクが滲んで、指先が黒くなった。
「これがはじまり?」
「ええ、たぶん。あなたの“受信”は、もっと前から始まっていたんじゃないかって思って」
外では、誰かが郵便受けを開ける音がした。
アルノルトは立ち上がり、ゆっくりと玄関に向かう。
そこには、また一通、白い封筒が届いていた。
しかし今回は、僅かに開かれていた。
中から見えたのは、鉛筆の走り書きだった。
「受信は、まだ終わっていない。」
アルノルトはその文字を指でなぞり、ゆっくりと口にした。
「まだ──か」
それは、彼が最後に新聞社を去ったときの言葉でもあった。
“まだ”という希望と、“終わっていない”という予告。
彼は静かに封筒を抱えて、部屋の奥へ戻っていった。
レコードは止まっていた。
だが、針はまだ、宙を舞っていた。