#099 決断の時(中)
決断するのは、誰か。
小田原城を退出して早川郷の屋敷に戻ると、五郎殿は中庭で剣術の型稽古に励んでいた。私が帰宅した事に気付くや、汗を拭い、身なりを整えて縁側に腰を下ろす。
「只今戻りました。」
「うむ、大儀であった。…左京大夫(氏政)殿の意向は如何に?」
中庭の隅に控えていた使用人が、私と五郎殿に白湯の入った湯吞を差し出し、次の指示を待つ。使用人としては満点の行動だったが、これからする話の内容を思うとあまり側にいて欲しくはなかった。
「有難う…百と代わってくれる?」
私の指示の意味する所を正確に理解した使用人は、足早に中庭から姿を消した。
「…やはり武田との盟約を違える事は出来ぬ、と…兄は申しておりました。」
「そう、か…手間をかけさせて済まなんだ。三月に渡って説き伏せられなかったものを、お主に頼むなど…左京大夫殿もお主が相手ならばあるいは、と思ったのじゃが。」
「代替わりの際に詭計を用いたのは兄も同じ、加えて戦上手の武田四郎殿が相手では勝算に乏しい、と…当家に不遇を強いている点については、負い目を感じている様子にございました。」
ゆったりと足を動かしながら素早く歩くという謎の移動法を披露しながらやって来た百ちゃんを視界の端に捉えながら、面談の顛末を素直に報告する。誤魔化したり、無理に曲解しても意味がないのだから。
「既に誓詞の交換を求める文を、武田四郎殿に送った…そう仰せでした。先方に不都合が無ければ、程なくして武田と北条は改めて盟を同じくする間柄に…。」
はっきり言って悔しかった。
百ちゃんが危険な潜入任務を成功させてもぎ取って来た特ダネがあれば、政局を動かす事も可能だと信じていた、にもかかわらず…北条の外交方針を変える事は出来なかった。
「結…今宵、大切な話がある。寝ずに待っていてくれぬか。」
「構いませぬが…どちらへ?」
五郎殿は不気味なほどに落ち着いた様子で縁側を離れ、玄関へと足を向けた。
「馬小屋じゃ。…憂さ晴らしに遠乗りに行って参る。」
その声は苛立っている、というよりも。何かを決心したように、私には聞こえた。
その日の夜、夕食と入浴を済ませた私は、寝室に敷かれた布団の上に寝間着姿で座り、五郎殿を待っていた。寝室の外では百ちゃんが待機しているから、室内で何を話しても盗み聞きを警戒する必要は無い。
五郎殿の相談事が何なのか、幾つか候補を見出す事で精神の安定を図っていると、聞き慣れた足音に続いて障子が開き、寝間着の夫が入って来た。
「待たせたのう。」
「いえ…それで、お話とは…?」
五郎殿は私の前に腰を下ろすと、真剣な顔付きで私を見た。
「あらかじめ言っておく。これから話す事は今川の行く末に関わる一大事であり、最早先延ばしは許されぬ。また一度決したからには後戻りは出来ぬ。…その積もりで聞いてもらいたい。」
五郎殿は目をつぶって大きく深呼吸し――両目を見開くと同時に言った。
「儂は早川郷を離れ、遠州浜松を…徳川三河守(家康)を頼ろうと思うておる。」
…大丈夫、大丈夫だ。まだギリギリ予想の範囲内…。
「その上で、お主の身の振り方について相談したい。儂と竜王丸と共に浜松へ参るか…それともこのまま早川郷に残るか、を。」
「…えっ。」
五郎殿の発言が一瞬理解出来ず、間抜けな声が漏れてしまった。
「いかがした。」
「いかがも何も、その…私も同道するのは自明の理とばかり思っておりましたので。」
「無論、儂にとってもそれが望ましい…なれど、浜松への旅路が険しいものとなる事、疑いようが無い。加えて言えば、無事に辿り着いたとて、従来と同等の暮らしを約束する事など到底出来ぬ。であれば…お主にはこのまま北条の世話になって生きる道もあるという事じゃ。」
五郎殿からの思わぬ提案に、私は戸惑った。
てっきり「浜松に移住するから着いて来い」と決定事項を突き付けられたものだとばかり思っていたのだが、私の行動について選択を委ねられるとは完全に予想外だった。
「左京大夫殿に察知されて屋敷からの出入りもままならなくなっては元も子も無い、儂は明朝にもここを発つ。…急な話で済まぬが、ここで決めてもらいたい。」
…ど。
どうしよう。
主人公の「どうしよう」、久し振りに出ました。
次回、一話で悩んで結論を出す予定です。




