#097 虎は伏し、影は踊る(後)
Mission updated!
武田信玄死去の証拠を確保した上で、警戒網を突破、徳川領へと脱出せよ!
南信濃、駒場の森の中。
夕闇が色濃くなる中、武田信玄の本陣の周囲を見回っていた雑兵は、茂みからのぞく女の手に驚愕し、枝葉をかき分けて正体を探った。
手の持ち主は、巫女の装束を身にまとい、地べたにうつ伏せに横たわりながらぜえぜえと苦しそうに喘いでいた。
「だ…誰じゃ?」
「はぁ…はぁ…げほっ…御屋形様の密命を受けて、いる者にございます…何卒、何卒お目通りを…火急の知らせに、ございます…。」
雑兵が目を凝らすと、巫女の腹からはジワリと赤い液体が染み出し、地面に伝っていた。
「お目通りを、と言われても御屋形様は…あ、いや…し、しばし待て!」
甲斐国出身の雑兵は、信玄が巫女を非正規の任務に用いている事を人伝に聞いていた。だからこそ、女が虚言を弄しているのか、上層部に確かめてもらう必要があると考えたのだ。
やがて息も絶え絶えの女が運び込まれたのは、武田家重臣の一角を占める内藤修理亮昌秀の陣幕だった。
「その身なり…歩き巫女の一員か。内藤修理亮である。御屋形様はご多忙ゆえ、わしが話を聞こう。」
地表に敷かれた筵に横たえられた巫女の傍らに立った昌秀が、警戒心を隠す事無く尋ねると、女は血の気が失せた顔を歪め、赤い液体が染み出す脇腹を押さえながら訴えた。
「御屋形様の采配を不審に思った三河守(徳川家康)が、刺客を放ってございます。人数は五人…どこから用立てたやら、我ら歩き巫女の格好をさせて…我らを攪乱する策にございます。いずれも火薬や小刀を隠し持ち…陣中に火を放って警固を惑わした後、御屋形様を刺殺せん、と…ゲホッゲホ…。一人とて陣中に入れては一大事に…。」
「相分かった。その容態でよくぞ知らせてくれた…わしは陣中に触れを出す。誰か、医者を呼んで参れ。」
「は、ははっ。」
昌秀が陣幕をくぐって外に出ると、武田軍が布陣する森林の北端から押し問答の気配がした。
「何度言えばお分かりに⁉我らは他国の間者を追って参った、既に陣中に紛れ込んでいるやも…。」
「だから!お主らが御屋形様の命を受けておる証を出せと申しておる!」
昌秀が押し問答の根源を見ると、陣中を警固する侍達と、五人の巫女が言い争っていた。
(五人、か…されど先程の手負いを鵜吞みにする訳にも行かぬ。まずはあの者らの言い分も聞かねば…。)
そんな昌秀の冷静な思考を遮るように。
パン!パパパパン!パンパン!
突然四方八方で破裂音が鳴り響き、火の手が上がった。
「な…何事じゃ⁉」
「火じゃ!消せ消せ!」
暗がりを紅く染める炎を前に、昌秀の腹は決まった。
「その者達を捕らえよ!三河守の手先じゃ!」
「なっ…ええい違うと言うに!」
巫女達は隠し持っていた小刀を抜き放ち、刀や鑓を相手に斬り結ぶ。
その動きは到底ただの巫女とは思えなかった。
「あちらは手が足りておる、お主らは火を消せ!…これ以上御屋形様を煩わせてなるものか。」
昌秀の静かな決意表明は喧騒に紛れ、誰に聞かれる事も無く消えていった。
同じ頃、昌秀の陣幕の中では、従軍していた医者と彼を連れて来た侍が右往左往していた。二人の前には、ついさっきまで巫女が寝ていた筵。
「確かにそこに寝かせた筈じゃ…現に筵に、血が…。」
「むう…しかしこの匂い…これは血ではありませんな。木の実を磨り潰したものかと…。」
戸惑う二人は気付かない。
出血多量で死にかけていた筈の巫女が、装束を脱ぎ捨てながら夜道を南へ――三河方面へと駆けて行った事にも。
そして、自らの死を隠蔽するために信玄が遺した判紙――信玄の花押『だけ』が据えられた紙が、一枚だけ抜き取られている事にも。
陣中の各所で上がった炎が鎮火した頃には、女は誰の手も及ばない暗闇へと姿を消していた。
Mission is completed!
次回から再び主人公視点に戻る予定です。
※以下、釈明
内藤昌秀(かつては昌豊でしたが近年昌秀の方が正しいとされています)がかませ犬のようになりましたが、今後今川家と瞬間風速的に絡む見込みなので選出しただけで、当人の能力が一段劣っているとかそういう意図で登場させた訳ではありません。




