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#096 虎は伏し、影は踊る(中)

カンの良い方はお気付きかも知れませんが、百ちゃんが西暦1573年四月に南信濃に潜入する、という展開にしたのは『決定的瞬間』に間に合わせるためでした。

かつてNHKで放送されていた『その時歴史が動いた』で取り上げられた事は無かったと思いますが、『この』一件で色々な人の命運が好転したり暗転したりしたと思います。

 武田の歩き巫女に扮して信濃国を南下し、三河国との国境(くにざかい)に向かっていた百は、思わぬ事態に遭遇して樹上に身を隠していた。


「あの旗印…信玄の本陣か。ここに至るまで大敗の噂は無かった筈…なにゆえ敢えて山間の険路を越えて南信濃へ…?」


 朝焼けの下、枝葉の間から透かし見る百の目には、『武田菱』のみならず『風林火山』など、信玄の所在を示す(のぼり)が映っていた。その真下、信玄がいると思しき本陣の周りでは無数の雑兵足軽が守りを固めており、百の推理を裏付ける状況証拠になっている。


「しかもあのような所で…何か不測の事態でも…?」


 あのような所…信玄とその家臣達が陣幕を張っているのは、見晴らしの良い高所でも、水の便に優れた川辺でもなく、木々生い茂る林道の途中だった。

 敵襲を警戒しているのであれば、開けた場所の高所に本陣を構え、部隊間の連携が取れるようにしておくのが原則だ。敵襲の可能性が低く、行軍による将兵の疲労を軽減したい場合は、地の利よりも水の便を優先する…つまり高所にこだわらず、川辺に布陣するという柔軟性も、軍勢の大将には求められる。

 だが目の前の光景は、百戦錬磨の武田軍がまず採用する筈の無い選択肢を選んでいる現実を示している。


「あるいは…そうせざるを得なかった?」


 武田軍の中枢で重大な事態が進行している。それが何かを掴む事が出来れば、早川殿への最高の土産(みやげ)になるかも知れない…。


「されど…林の合間とて隙は無い、か。」


 一見、警備が厳重なのは地表だけで、木の枝を伝って渡る技術があれば武田軍の頭上を通って中核に迫る事も、やり過ごす事も出来るように見える。

 だが百の目には別のものが映っていた。あたかも枝葉のように木々と一体化し、樹上で信玄を警護する…武田の忍び達が。


「このまま武田の陣に足を踏み入れれば、十中八九忍びの網にかかる。さりとて退路は無し。一昨日から歩き巫女の影が見え隠れしているからには…とうに追手がかかっていると見て相違ない。」


 前方の虎、後門の狼…そんな表現が相応しい状況に、百はしばらく眼をつむり、沈思黙考した後、両手を組み合わせて複雑な形を幾つも作った。


「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ…いざ、参る。」


 そう呟くと、百は目の前の枝に手を伸ばした…尺取虫のような速度(おそさ)で、ゆっくりと、しかし着実に。




「む。」

曲者(くせもの)か?」

「…いや、風で枝が揺れただけじゃ。」




「ッ、今あそこに…!」

「落ち着け…わしも見ておった、小鳥か何かであろう。」

「…そうじゃな、人の身ではああは行かぬ。」




 夕焼けの下。

 百は武田の本陣を真上から見下ろしていた。

 移動に細心の注意を払った結果、半日もの時間と引き換えに、武田の警戒網をくぐり抜けて目標の樹木まで辿り着いたのだ。


(あそこに横たわっているのは…信玄?周りの家臣の様子を見るに…まさか、天命の尽きる時が迫っているのか。)


 寝ているのか、既に息絶えているのか。それすら曖昧な信玄の、皺と白髪に(いろど)られた顔を見ながら、百は無意識のうちに自分の胸を押さえた。『そこ』は昔と変わらず、一定の拍子(リズム)で鼓動を打っている。


(だが、わたしは最早『ひと』ではない。)


 元風魔忍者、百が生涯をかけて仕えると誓った相手が、北条氏康の四女、結だった。

 だが、人はいずれ老い、衰えていく。その宿命を免れる事は何人(なんぴと)たりとも出来ない…常人(にんげん)である限りは。

 だから、百は常人をやめた。

 風魔忍者の伝手を辿って知った禁術を己に施し、不老の肉体(からだ)に生まれ変わったのだ。同時に、何年経っても容姿が変わらない点に不審を抱かれないよう、強力な幻術を常時展開している。

 『不老』ではあるが『不死』ではない。傷つけば血が流れ、病の可能性からは逃れられず、大怪我を負えば死に至る。

 そして…男と交わって子を成す事は、絶対に出来ない。


(それでも良い。たとえ(もの)()となって果てるとも、御前様に尽くせるのであれば…。)


 樹上に身を潜めたまま、百が決意を新たにしていると、眼下にいた武田の武将が同僚に話しかけた。


判紙(はんがみ)(しっか)と仕舞ってあろうな?」

「無論よ、御屋形様が最期に遺された大切な判紙じゃ…出来る事なら一枚拝領したいが、向後を思えば一枚とて粗略には扱えぬ…。」

(判紙…ではやはり、信玄はもう…。)


 確信を深めた百は、暗くなる視界に眉根を寄せた。

 陽が沈む。夜が――忍び達が本領を発揮する時間が、やって来る。

具体的に何をどうすれば不老の体を獲得出来るのか、筆者には見当も付きません。

ましてやテロメアもアイ・ピー・エス細胞もへったくれも無い時代に…。

ともあれ、百ちゃんが色々制限付きの不老になっている、という説明を交えた回でした。

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イヤーッ!グワーッ!イヤーッ!グワーッ!… 暗闇に響き渡るシャウトが途切れた時、その場に立っているのは二人の人影のみ。一人は百、一人は小柄な少女の如き歩き巫女。しかしその身にまとうアトモスフィアから只…
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