#093 諏訪湖水起請(前)
今回からしばらく百ちゃんを中心に話が進みます。
元亀四年(西暦1573年)二月 信濃国 諏訪
「どうじゃ真白、何か分かったか?」
諏訪湖にほど近い宿の一室にて。整った顔立ち、派手な打掛をまとった女が入室するや否や、部屋の真ん中で落ち着き無く胡坐を揺らしていた老人、葛山八郎氏元が問いかけた。
真白――早川殿の侍女、百が遊女に扮した仮の姿である――は武芸の心得など欠片も見当たらない足取りで氏元に近寄り、しなだれかかる。
「警固の侍二十人ばかりに粉をかけてみたのですが…誰一人誘いに乗りませなんだ。よほど厳しく言い含められているものとお見受けします。」
「そのまま誘いを続けるのじゃ。心変わりを起こす者も一人や二人おろう…おのれ、よもや甲府から国境を越えて信濃にまで参る羽目になろうとは…。」
肩に真白の温もりを感じながら、鼻の下を伸ばす余裕も無く、氏元は親指の爪に歯を立てた。
氏元が今川家の遣いである百を自邸の中庭で迎えたのは、大晦日が迫る12月末の事だった。
北条に鞍替えする端緒を手繰り寄せたという成果に喜ぶ間も無く、地味な侍女を色香漂う遊女の装いに着替えさせた氏元は、万一の事態に備えて一族郎党を残し、真白と供回りを連れて甲府へと出立。年が明ける前に甲府入りを果たし、元旦から関係各所への挨拶を済ませた後は、真白を残して葛山領に帰還する積もりだった。
目算を狂わせたのは、武田信玄の命を受けたと自称する武田家臣の来訪だった。その男は数十名の兵をもって氏元の宿所を囲むと、諏訪への同道を求めて来たのだ。
「御屋形様直々の下知にございますれば…よもや断る道理などございますまいな?」
ただでさえ家中の評判が思わしくない現状、信玄の機嫌を損ねるのは得策ではない。
代案も弁明も思いつかないまま、指示通りに諏訪へと移動して、諏訪湖の近辺に建てられた宿に供回り共々軟禁状態に置かれてから早二か月が経とうとしている。
その間、肝心の信玄からの指示命令は一切無い。
「お主もこのままでは都合が悪かろう。わざわざわしに同道して参ったという事は…甲斐信濃を探りに参ったのであろう?斯様な所で足止めを食ってはおられまい。」
氏元は葛山領に残して来た一族郎党とも連絡が取れない現状に焦りを覚えつつ、真白が帯びているであろう使命をダシに、状況を打開しろと暗に要求した。
「ご心配には及びませぬ。宿にいても果たせる務めはございますゆえ…。」
甘く、それでいて突き放すような真白の返答に氏元が舌打ちをすると、それが合図だったかのように落ち着きの無い足音が近付いて来る。やがて供回りの一人が廊下に膝を突き、呼吸が定まらないまま言葉を絞り出した。
「と、と、殿!警固の侍から至急同道されたし、と!すぐそこまでゆえ支度は無用、供回りを伴って直ちに、直ちに、と…。」
氏元は不機嫌そうに真白を押しのけると、鼻を鳴らした。
「ふん、隠居爺と思って居丈高に…真白、お主もついて参れ。武田の目がある内は付き合ってもらうぞ。」
無意識に腰の脇差の鞘を撫でながら、氏元は立ち上がり、宿の玄関へと向かう。
(例えわしが討たれても…本領には息子達がいる。今は亡き養父上より受け継いだ葛山の系譜、そう易々と武田には譲らぬぞ…!)
覚悟を胸に秘め、武田の役人とその部下に監視されながら、氏元は諏訪湖の畔へと歩いて向かう。そこに待っていたのは――
「ば、莫迦な…なにゆえ、なにゆえお主達がここにおる…?」
――葛山領に残して来た筈の、血を分けた息子達。
彼らは後ろ手に縄で縛られ、跪いていた。まるで裁きを待つ罪人のように。
「葛山八郎殿。貴殿に謀反の疑いがある。最前よりの比興なる振る舞い、御屋形様とて最早見過ごし難く、よって――実子諸共死罪申し付ける。」
葛山氏元の謀反疑惑が真実だったのか、どこから告発があったのかは手持ちの史料では分かりませんでした。
ただ、当時の政治状況からすると、息子(信貞?)による葛山氏乗っ取りを完成させるために、氏元の血脈を根絶やしにするという信玄の判断があったのは間違いないようです。




